Ibレビュー:メアリー、「感情移入」、sacrifice

2014-09-13 18:20:12 | ゲームレビュー

Ibのエンディングを(ほぼ)全て見たので、一度レビューを書いていこうと思う。なお、極力ネタバレをしないような書き方はするが、一切先入観を持たずにプレイしたいという方は、5時間程度で終わる作品でもあるので、先に一度やり終えてから読むことをおすすめしたい。

 

まず結論から言うと、フリーゲームであることも考慮すれば、率直に言ってよくできた作品と評価できる。というのも、難しすぎないゲームバランス、ホラー要素と可愛らしさが相まった独特な雰囲気、マルチエンディング、そして「絵画の題名調べ」という形でやり込み要素まで盛り込んでおり、幅広い層にも受け入れられやすい出来になっているからだ。

 

しかしそれを前提とした上で、私個人としては非常に物足りないものを感じた。
その最大の理由は、メアリーの人物描写不足にあると私は考えている。なるほど確かに、イブへの「はじめての友達」発言から彼女が孤独の中にいることが暗示されるから、それで十分に感情移入の前提は担保されていると考えることもできる(行動原理とその必然性が理解しやすい)。さらに言えば、メアリーが生き残るエンディングが二つともすっきりしない終わり方なのを鑑みれば、そもそも製作者側は(少なくともギャリーほどには)メアリーを感情移入する対象として描こうとしていない可能性が高い、といった演出の方向性については理解できる。

 

しかしながら、その方向性は果たして効果的なのだろうか?というのも、メアリーへの感情的傾斜が弱ければ弱いほど、自分を守ってもくれるギャリーと脱出する以外の必然性に乏しくなり、結果としてこの作品は単純な「脱出モノ」へと近づいていくからだ(「青鬼」が好例。ただしあの作品の場合、背景が全くわからない=感情移入の余地が全くないことがむしろ恐怖の源泉になっているので、徹底的に青鬼のバックグラウンドを不可視化したのはむしろ適切な処置である)。もし仮にメアリーの背景をもう少し表現していれば、彼女を選択しないことがもたらず痛みや現実世界と異世界の境界線喪失(≒交換可能性)による揺らぎがプレイヤーに生じ、ガジェットの意味を推測させる知的耽溺行為を超えた、思考を要求する作品となっていたのではないか(そもそもゲームの舞台が単純な非日常・異形の世界ではないことは視点切り替え時の演出から明らかであって、それをメアリーに関する演出をもっと増やせれば効果的に印象づけることもできたのでは?と感じる)。もしかすると中には尺の問題を気にする人がいるかもしれないが、メアリーとの合流からエンディングまでそれほど長い時間はなく、またその後はほぼ謎解きをするだけでもあるので、少なくとも私自身は矢継ぎ早な展開に感じたし、ゆえにここへメアリーの背景を暗示する本などをもう少し増やしておいても大きな問題はないと思うのだがいかがだろうか。

 

以上のようなこともあって、私がこの作品中で最も印象に残ったエンディングは、実は海外のファンが自作したという“sacrifice”である(ネタバレを多分に含むので、問題ない方のみこちらからどうぞ)。その理由は、自己犠牲が感動的だとかそういうことではなく、むしろその結果が痛みしかもたらさないものになっているからだ。本編のエンディングではないのである程度内容を書いてしまうが、イブは自らを犠牲にしてギャリーとメアリーの二人を救ったものの、元の世界に戻ったギャリーはその事実を忘れ(そこに悪意が介在していないのがかえって物悲しい)、メアリーは記憶こそしているものの、「はじめての友達」を失った悲しみに呆然としている(これが彼女が望んだ世界なのか?むしろ記憶がない方が幸せ?とさえ感じる)。そしてその二人と、イブの両親の会話がもたらす喪失感・・・感動的どころか、一番この終わり方が心をゴリゴリ抉られた(ある種「魔法少女まどか☆マギガ」を連想とさせる部分もある)。ところで、この良作を紹介してくれた友人によると、三人とも助かるエンディングは最初なく、(多数?)要望があって後から追加したとのこと。しかしその内容たるや・・・「そんな甘い話はねーよ」というものであった。私はここに作者の明確な方向性の提示(=安易な救い・大団円などない)を見るわけだが、であるならば、メアリーに感情的傾斜が強まる演出を増やすことで受け手によりいっそうの葛藤をもたらしめるという私の主張はむしろそれに沿っているものではないかと考える。

 

ともあれ、最初に書いたようにバランスの良くとれた佳作であることは間違いない。この作者の次回作にも期待したいところである。

 

[蛇足]

Ibにおいては芸術作品が雰囲気を作るだけでなく様々な暗示として機能している(そして美術館全体が一つの精神世界を成してもいる)。暗示や多層的な意味ということで言えば、絵画だけとってみてもホルバインの「大使たち」ベラスケスの「ブレダの開城」など枚挙に暇がない(たとえば後者について言うと、敗軍の将に寛大な対応をする様を描くことでスペインとその将軍を賞賛するという狙いがある)。さて、私は本文中で現実と異世界の境界線の曖昧さを表現した方がよいと話したが、これは絵画のモチーフという点からも同じことが言える。たとえばピカソの描き方は、世界の見え方の多様性、あるいは日常(現実)と非日常(非現実)の融解を思わせる(もちろんブリューゲルルノアールといった芸術家の作品はそれに当てはまらないが)。Ibに登場するのは現代芸術らしきものが多いのだから、デュシャンの「泉」的に、「文脈次第でモノ(世界)はいくらでも読み替えられる」という思考とも(テーマ的には)親和的なはずだ。そういう意味で、今いる世界と絵画の向こうの世界がシームレスであるという描き方をするのは、この作品の重要な要素である芸術とも有機的なつながりをもつと思うのだがどうだろうか。


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3 コメント

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Unknown (あたいしおみー)
2014-09-17 01:03:29
このレビューを読んで「吉良吉影」が頭に浮かびましたんこぶ。

最後に追加されたEDが「ようこそゲルテナの世界へ」と「ある絵画の末路」だから、メアリーは動く黄色くらいの扱いだったのに、思いのほか反応が良くて後から肉付けしていった→作品が良くなった のかもしれないなと思ってた(もちろんこれも作者の腕の良さだけど)。
そこをキチンとカッチリ文字で解説してる貴殿はさすがだなってオモタ。あたいできない。

ところでメアリーが人間になりかけのとき(ある絵画の末路ED)に、自分のことが書かれてる本を読んだかい?
文章が読めなくなってるんだけど、この演出が

①人間になろうとしているから
②仲間が読めないようにしている
③自分のことは読めない
④その他

のどれなのか、ここが僕の強く興味を持ったところでござった。

プレイ(意味深)お疲れ様でした(*'ω'*)
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補足 (あたいしおみー)
2014-09-17 01:17:30
ちょっと言葉が足りなかったので。

「人間になろうとしている」けど、
バラを手に入れてないので、最終的にはなれない。帰るところもない。

のがあのEDだと思っているのは付け加えておきます。
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疑問がクリアになった (N作)
2014-09-17 11:00:26
>メアリーは動く黄色くらいの扱いだったのに、思いのほか反応が良くて後から肉付けしていった云々

なるほど、この点は誤解していた、というかリサーチ不足だったわ。俺は追加されたENDが「ようこそ、ゲルテナの世界へ」だけだと思っていたんだけど、「ある絵画の末路も」そうだと聞いてかなり納得がいったわ。どう見ても、メアリーの描写が少なすぎると思ったけど、元々が単なるobstacleだったわけね。

そうなると、この話は「ひぐらしのなく頃に」を連想させるものになるね。まあ10年前のことになるけど、公式掲示板で推理とかをしていた頃に、「~を悪人だと思いたくない」という真相もわかっていないのにちょっとびっくりするようなエモーショナルというかナイーブな発言が少なからず見られたものだ。そしてこういうスタンスにひぐらしの製作者もかなり引っ張られた感があるんだよなあ。まあそういうズブズブの埋没と思考停止を見て呆れているんで、Ibの製作者の強い主張のこもった「ようこそゲルテナの世界へ」を肯定的に見てもいるんだけどね(端的に言うと、メアリーが救われない必然性や脱出に関する要件はすでに作中で示した通りなので、それをわからない人=ハッピーエンド廚はこのENDを食らえ!って感じかw)。


なお、自分についての本をメアリーが読めないのは、「自我崩壊を防ぐための否認」だと俺はとらえてるよ。
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