ひぐらし公式HPの掲示板:壮大な思考実験場

2006-08-19 00:44:56 | ひぐらし
ここに書かれた考察対象(「人為100%」という思考の枠組み)を、「~主義」やら宗教に置き換えてもそのまま当てはまる。それこそが、ひぐらし掲示板を「壮大な思考実験場」と私が評す所以である。



ひぐらし公式HPの掲示板は、かつて壮大な思考実験場であった(現在では掲示板の形も趣旨も若干変わっているが)。それは、単に色々な人がそれぞれの説をぶつけ合う場だったという意味ではく、もっと一般的に、人の思考様式やら思想に対する態度が如実に表れる場だったということである。まあわかりにくいと思うので例を挙げよう。


例えば何度か話題にしている「人為100%」について。
本来、「人為100%」とは推理をする際の一つの思考の枠組みに過ぎなかった。というのも、それが唯一無二の真理だといういかなる証拠も存在しなかったからである。(目編発売の直前にひぐらしを始めたので)私には詳しくはわからないが、「人為100%」という枠組みはオカルトという「言い訳」に逃げないため便宜上作り出されたという側面があったと推測される(もちろん人によって違うのだろうが)。別の見方をすれば、「人為100%」という思考の枠組みが、その始めにおいては謎を何とか解明してやろうというアグレッシブな考え・姿勢の結晶化だったと言うこともできるだろう。さらに言えば、少なくとも私が当時掲示板で見ている限り、オカルト肯定派は説明できないことをオカルトだと言う傾向が明白に見られたから、「人為100%」はいわばその批判的姿勢から生まれたという側面もあったと考えられる。要するに、単純化すれば、「人為100%」は(根拠がないとはいえ)その始めにおいては「攻め」の思考様式・枠組みだったと結論することができる。


しかし、思想というものがすべからくそうであるように、「人為100%」という思考の枠組みもまた、物事を考える手法ではなく、むしろ護持されるべき対象になっていったのである(「攻め」から「守り」に入る過程は、色々な事象に共通する特徴だ)。


これに関して思い出すのは、古手梨花の「予言」を考察した頃(すなわち目編から1~2ヶ月ぐらいの時期)に「人為100%」の人たちが言っていた論の内容である。彼らは例えば「予言」が梨花の「気まぐれ」だとか梨花こそが実行犯の一味であるなどと考えていた。もしそれが本文にある何らかの根拠に基づくものだったら、なるほどそれは立派な解釈だと言えただろう。だが彼らの説に表れていたのは、ただ「どう考えれば『人為100%』の枠組みと矛盾しないか」だけだった。言ってみればそれは、本文の記述からの推理の構築ではなく、「人為100%」の思考の枠組みからの推理の構築であった。本来「ひぐらしのなく頃に」を解釈・推理するための一手段であったはずの「人為100%」という枠組みを、それを適用できる根拠も示すことなしに古手梨花の「予言」という本文の記述よりも優先しているのだから、これが思考の枠組みの護持でなかったらいったい何だというのか?


いつの間にか、「人為100%」という名の道具は聖典へと形を変えた。その聖典は、まるでそれ自体がひぐらしであるかのように多くの人を魅了したものだった。だがそれは、魅入られた人々から「本文を虚心に読ませる」という最も、そう最も大切な行為を奪ったのであった。これが「人為100%」を巡る真相だった、と私は考えている。以上のような思考の過程を見てきたからこそ、「目明し編までは全て人為で説明できた」というような意見は正直寝言にしか聞こえない。なぜなら彼らは、ひぐらしの本文だけでなく、自分たちの心もまた読めていなかったからだ(私の言う「解釈という名の願望」とはそういった状態を表現したものに他ならない)。厳しい言い方をすれば、人為100%でないことで失望したなどと言うようりも先に、自分がいかに盲目であったかを省みるのが先だろう。


最後に、前に書いたことながら今一度くり返す。

オカルト混入すら論理的に証明できることがひぐらしの凄さ・恐ろしさであった。

以上。

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