さよならを教えて~自己愛と自己破壊~

2011-05-21 17:48:28 | ゲームレビュー

ヒルとヨルの境界線」、「卑屈さと尊大さのはざまで」に続くさよならレビュー第三段。
文体・構成の点で原作の雰囲気を意識した二つの記事に比べると、設定資料&原画集を読んだためか理論化志向が強くなってるように思える。

そんなわけで、原文に付け足すことはあまりない。確かに、「登場人物たちが過去の自分の表象だとすれば、それと交わるのは自己愛の象徴で、それを破壊していくのは自己嫌悪を表してるんだよね~」とかいくらでも書けるけど(で、「さよなら」して研修医になるわけだ)、そんな事は不快感で盲目になりさえしなければ簡単に見える構造なので。

重要なのはむしろ、そのような「過去の自分との邂逅」といった構造を含め、この作品を一見して感じる「カルト」・「シュール」な印象とは裏腹に、むしろ極めて図式的・意図的なキャラ配置や関係性の描写がなされているということだ(瀬美奈=ファリックマザーとか)。さっき触れた設定資料&原画集の内容からすれば、「いくら何でも図式的やろ」と批判されることまで計算した確信犯的な演出だったことがうかがえるのだが、主人公にアプローチするフックがないゆえに、大半の人にとってはただ不快感を覚えさせるだけの作品になってしまったのは残念なことである。

なお、最後は偉そうに書いてるが、まあ要はエンディングに変化がないからゲーム性が低いし、変化のなさに必然性を感じる作りにもなってないよってこと。

 

<原文>
さて、以前二度ほどさよならを教えてについて書いたが、今回はさよならのエンディングに話を絞ってみたい。なお、完全にネタバレの内容であることを断っておく。まずは結論から提示しよう。

各キャラは自己の一部の投影→エンディングは大きく変化するのが普通

一般に人というものは、自分のどの部分に注意が行くかで性格が変わるものである。例えば、仮に同じ構成要素(身体的特徴や性格)を持っていたとしても、それにどの程度囚われるか、どのように囚われるかで何も気にしなかったり重度のコンプレックスになったりする。ゆえに、主人公が自己のどの部分に触れたかで主人公のあり方は変化するはずだ、と言えるのである。


とはいえ、この論が成立するためにはまず各キャラが主人公自身の投影であることを証明しなければならない。キャラのビジュアル面に関しては、設定資料集によればそれぞれ中学や高校で好きだった女性という設定とのことだ(例えば屋上の少女望美については、「中学生の時に好きだった女のコという設定」と長岡氏は述べている。設定資料集23p参照)。とするとキャラの外面は、記憶の投影ではあっても主人公そのものの投影とまでは言えないだろう。


しかしキャラの内面に関しては違った印象を受ける。もっとも象徴的なのは、図書館のメガネ少女、目黒御幸だ。まず、エンディングで言われているように、彼女は実在の少女ではなく、標本に対して主人公が目黒御幸という少女を見ている、という構造に注意する必要がある。とすれば目黒御幸の発言とは、主人公の脳内で生み出されたものであることになるわけだ。とはいえ、それだけだと主人公が過去の記憶を投影しているだけと言う可能性もある。そこで御幸との会話内容について考えてみると、彼女は主人公と(偏りのある)知的な会話をするのだが、彼女と主人公の会話の噛み合い方、そして何より御幸が本番に弱く、それが主人公に共感を持って受け入れられてるなどの点に気づく。これらから考えるに、御幸のパーソナリティは主人公の内面の一部が投影されたものであると結論できるだろう。そしてこのことから類推するに、他のキャラについてもまた同様であると言えよう。


この見方が正しいとすると、各キャラは主人公のどういった側面を担っているのだろうか?複雑な内面を持つキャラが多いのでちょっと強引なまとめ方になるが、今上げた御幸は「知性」、上野こより(人形)は「無邪気さと鋭さ」、高田望美(カラス)は「脆さと意地っ張り」・「死への憧憬」といった部分を象徴していると思われる(おそらく数多くの人が、主人公はなぜ自殺しないのかと疑問に感じたものと推測する)。ただ、田町まひる(猫)と巣鴨睦月(天使)については異なっており、まひるは猫という触媒(すなわち自分自身)を通して主人公の「優しさと残酷さ」という一面がクローズアップされる。そして睦月は、現実の存在であり自己の投影でないがゆえに「天使」となる(もっとも、理想を押し付けているのは確かだが)。


こう考えていくと、仮に(現実に存在する)巣鴨以外を選んだとしても、それによって主人公は自己の一部と選択的に向き合うことになるわけであるから、たとえ最後に「学校教師になるべし」という強迫観念と一緒に彼女らと「さよなら」をするのだとしても(つまりそれまでの自己と訣別するのだとしても)、自己の違った側面と濃密に向き合った主人公は同じではありえないだろう。仮に向き合ったキャラが自己自身であっても、いやむしろ自己の一部であるからこそ、どのキャラのシナリオ(自己の一部)を選んだかで主人公のあり方は大きく変わっていくことであろう。


なるほど睦月以外のエンディングには、「どこまでいってもしょせん幻想は幻想に過ぎず(プラスの)変化は訪れない」という製作者の厳しい姿勢・メッセージがそこには込められているのかもしれないし、その主張は傾聴に値するものだと思う。しかそれでも、私はそれぞれのシナリオでエンディングを変えるべきだったと思う。自己のどの側面と向き合うかは、人のあり方に決定的な影響を及ぼすからである。そしてこの部分の不徹底さこそ、「さよならを教えて」が間違いなく傑作でありながら、私の傑作ランキングには決して入らない理由である。


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