ひぐらしのなく頃に 業:OPテーマの“I believe what you said” 2番の歌詞についての考察

2020-11-19 17:21:42 | ひぐらし

前回の記事で「ひぐらし 業」のOPテーマI believe what you saidの1番について考察した。ここでは、2番について書いてみることとしたい。

いやーそれにしても意味深すぎて色々気になりますわ。ただとりあえず言えるのは、「ひぐらし 業」の世界がやはり祭囃し編と同じような世界(のやり直し)と考えるには色々と無理があり、そう気づいてこれまでとは違う闘い方(あるいは頭の使い方)を模索することがどうも必要そうだ、ということである。

 

 

 

前の記事でも書いたが、一応歌詞はこちら

 

【2番】

・小さなほころびはやがて 偽りへ誘う 幾重に繰り返す狂気 閉ざされたリフレイン

これはまんま「ひぐらし 業」の世界そのものだろう。例えば鬼騙し編は、一見すると前原圭一が凶行に到る鬼隠し編のように見えたが、圭一が鬼隠し編の記憶を継承していること(繰り返すがこれは梨花以外も祭囃し編以降の状態にあることを暗示する)、そして梨花のフォローもあって彼のフラグは成立しなかった。

しかし、レナにおそらく罪滅し編と類似のフラグ(鉄平・リナによる美人局と家族崩壊の危機)が立ってしまったこと=「小さなほころび」により、レナが圭一を亡き者にしようとする鬼騙し編(鬼隠し編の「偽り」)が成立してしまったのであった。

また、綿騙し編も似たような展開を辿っていることが伺える。つまり、圭一が魅音にぬいぐるみを渡さなかったことで詩音のトリガーになった綿流し編・目明し編であったが、梨花のフォローで回避されたように見えた。しかし、結局は祭具殿に富竹・鷹野・詩音・圭一が侵入する(かつそれを認識している人がそれなりにいる)状況=「小さなほころび」が成立してしまっている状況だ。

とはいえ、前回の記事でも説明したように、ここから直線的に詩音の凶行が成立していると考えるには、かなり無理がある。端的に繰り返しておけば、

1.ぬいぐるみ事件なし&詩音の「足音」言及なし=彼女に症候群が発症する必然なし=凶行に到る必然性を欠く

2.富竹の死=「時報」なし=そもそも旧ひぐらしと世界構造の根本(ハッピーエンド条件など)が違う可能性すらある

(2については、梨花がどこまで鬼騙し編の記憶を継承しているか不明なので、鬼騙し編でも富竹の死体が出ないという現象が起きているかは謎だが、少なくとも大石は圭一に説明する際に富竹・鷹野の二人が逃走する姿が目撃されているとは言っていない。まあ窓開けやエンジェルモートでの密会=彼が圭一を撒き餌にしようとしている演出は大石が全幅の信頼を置ける人物ではないと暗示しているので、そこから大石があえて二人の逃走を圭一に語らず、これまでの怪死事件と同じに仕立てて圭一の疑心暗鬼を誘ったという解釈も今のところ成り立ちうる。まあそれだとちょっと説明として苦しいように思えるため、ある程度確定するに足る根拠がほしいところだ)

というわけで、綿流し編や目明し編のような詩音の凶行を成立させられなくはないが(悟史の件に絡む「けじめ」があったか不明だが、仮にあったとしたら、例えば「同じような刑が祭具殿侵入のsinに対して課されるという状況で劇症化した」といった説明もできなくはない)、あまりに必然性を欠いているため、それはそれで大きな疑問というか、もっとはっきり言えば「無印や解の説明は何だったんだ!」という視聴者の不満が噴出する可能性が少なくない(まあ少なくともワイは鬼隠し編の魅音&レナの行動みたいに怒りますなw)。

 

・目を覚ます頃 描かれた絵空 祭りは静かに 始まった

これは「ひぐらし 業」における梨花の状況をそのまま表現したものだろう。つまり、惨劇を乗り超えたと思ったのに、何の前触れもなく突如昭和58年に戻されたということだ。ただ、「描かれた絵空」という文言は非常に気になる。言うまでもないことだが、絵空は「絵空事」という言葉を連想させるし、そこに「描かれた」が修飾語として付されている以上、否応なしに「ひぐらし 業」の世界が「虚構内虚構」であることを連想させるからだ。

 

・もっとキミを知りたくて もっとキミを追いかけていた 不自然な素振りもなく 交わした言葉

ここもまた、第一話の「あざ笑った」と同じで一体誰の視点なのかが謎。まあ強いて言うと羽入→梨花なのだろうけど、「あさ笑った」と照らし合わせても、やはり梨花を別の次元から見ていた(見ている)存在なのではないか、と思えてしまう。

とするなら一つ考えうるのは、後半の「不自然な素振りもなく 交わした言葉」から、今までのところ第二話冒頭で一度だけ顕現した羽入が、実は羽入の姿をした別の存在で、それが世界のルールについて偽りを語っている(あるいはあえて何かを語っていない)のではないか?ということだ。そしてその中で既存のルールに則りハッピーエンドに辿り着こうと梨花が足掻く様を見て、彼女(彼?)は愉悦に浸っているのではないか?と思えてくるのである(もちろんこれは、以前にも述べたように、「ひぐらし 業」がうみねこと同じ「虚構内虚構」を象徴している可能性もありえる)。

となると、やはり綿流し編のオヤシロ様描写に不自然な部分がないか、改めて確認する必要がありそうだ(OPで梨花が最後にたどり着くのは古手神社だし、そこで[最後に残った?]カケラを拾い上げるのだから)。

 

・この広い空さえも 作られた張りぼてなら ゆっくりと消えゆく この痛みも

先に述べた「虚構内虚構」という推測の根拠となりうる歌詞。「今見えてる世界は、旧ひぐらしの世界を少し違う形でリフレーンしてる」が、祭囃し編までと同じレイヤーに位置するカケラであるという保証はどこにもない。むしろ唐突に始まったこの世界は、誰かが作り出した「張りぼて」だと考えた方がよほど必然性がある、というものだ。

後半の「ゆっくりと消えゆく この痛みも」は現時点で詳細が掴みがたいが、旧ひぐらしがそうだったように世界がループする中で死ぬ時の痛みも忘れ去られるという意味なのか、はたまた「どうせ始めから虚構なのだから痛みを覚えたところで消えゆくだけだ」という意味なのか。現時点では、後者の可能性が高いと思える。

 

・まるで麻酔のように 堕ちる意識が 全てを始める 

これもかなり意味深な部分。元々祭囃し編までの世界は、鷹野三四という強靭な意思を持った存在が計画的に殺人事件や大量虐殺を進める話であり、ゆえに「時報」とさえ揶揄された富竹の死も確実に存在したし、古手梨花の「予言」にあるように梨花は山狗たちの手によって薬で眠らされての死、つまり「慈悲深い」死を与えられるという展開になった。

この歌詞からそのような展開を思い出すのは難しくないが、すると後半の「堕ちる意識が 全てを始める」が全く説明できない。というのも、祭囃し編までのゲームルール(ハッピーエンドにも深く関係する)の一つは、梨花を殺す真犯人を突き止めることであり、そのためにも皆殺し編ラストで梨花は地獄の苦しみを味わってでも眠らされて殺されることを拒否し、あえて生きたまま惨殺されることを選んだのであった(まあそうしてさえ記憶に残らんかったんだけど)。

すると、「堕ちる意識」が「全てを始める」というのは、梨花の眠りが世界の終わりを意味する旧ひぐらしと真逆の展開だと解釈せざるをえない。さらに言えば、「落ちる」ではなく「堕ちる」とわざわざ漢字がふられているのは、あるいは「死ぬ」ことではなくハッピーエンドを完全に諦めることを指しているとも考えられるが、それにしても、それらが「全てを始める」というのは全く不可解である。

あるいは、虚構内虚構のような形でゲームルール(ハッピーエンド条件)が変わってしまっている「ひぐらし 業」の世界においては、むしろそれを探求することを梨花(あるいは他の誰か)が諦めることが話を別のレイヤーに引き上げるトリガーになっている、ということなのかもしれない。

まあこれは例によって、「そんな展開にしてどう視聴者を納得させるロジックを用意して終わらせるのか」という疑問は残るのだが、意味深な歌詞を読んでいくことでやはりというかこの「ひぐらし 業」がメタ構造を強く意識すべき作品であることは確認できるのではないだろうか。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ひぐらしのなく頃に 業:OP... | トップ | ひぐらしのなく頃に 業:ED... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ひぐらし」カテゴリの最新記事