この演説をアドルノとホルクハイマーに捧ぐ。
私には計画がある。もちろんそれは、犯罪などではない。私は他人を害して利益や快楽を求めることに何の興味もないからだ。私の計画とは、あくまで私自身の檻を掘削するためのものである。私はそれらを思い描くとき、そのあまりの輝きに眩暈がするとともに、それを経験したならもうこの世に飽きて早く生を終えたいと思うのだ。
そう、計画された死!人は生まれる時を選べぬ。これは他の動物と同じだ。しかし、人は死ぬ時を選ぶことができる。まさしくここにおいて、人は畜群と厳然に区別されねばならぬのである!
さて、その死とはどのようなものか?それは薬物による医療機関でのEuthanasieである。凡庸・・・と君らは思っただろうか?よく聞きたまえ市民諸君!私は生の苦痛からそれを選ぶのではない。むしろ自らの悦楽の中で死ぬためにこそ、その道を採るものである!
いかにしてそれは可能か?もちろん私が医療機関と諸々の書類を取り交わすことは言うまでもない。もちろんそこには費用の発生という避けることのできない問題が発生するが、私はそれを私の臓器移植によってまかなおうと思う。つまり、医療機関には入院・薬物・死体処理を支払わねばならないが、それは私のfrischなfleischを必要とする若者の親に予め買い取ってもらうことで賄う。もし仮に余剰の資産が出た暁には、それを貧困に苦しむ人々、特に未来ある子どもたちへと全額寄付することを約束しよう。
もはや生を望まぬ者から生を渇望する者たちへの「命」の受け渡し!これを資本主義の極みとして何と言おうか?否、すでに衰えんとする一つのGeisteが、若き者たちの燃えるFleischとして再生されるという意味では、連綿たる民族精神の伝承としてこの上なく正しき行いであると宣言しよう。
しかし、君たちの中にはそれを許されざる行為と憤る者がいるかもしれない。だが断言しよう。他でもない、この私が、自身のそのような行為を、許す。間違ってはいけない。何者かに「許される」のではなく、私が「許す」のである。考えてもみたまえ、君がそうしたくないと思うのは自由である。そして私にそうしてほしくないと思うのも自由である。しかし、君は私の身体を自由にする権利も論も持ち合わせてなどいない。この隔絶を銘記せよ!そも、わが身すらも自由にできぬというのなら、人間はまさしく案山子の如きものでしかないのだから。
では諸君、よい終末を。Auf Wiedersehen!
という演説的なものを、「帰ってきたヒトラー」の二回目を角川シネマ新宿で見た後、原作および『貧困とセックス』を読みながら思いついた次第である。
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