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スメラ~想いをカタチに~

スメラは想いをカタチにするコミュニティーです みんなの想いをつなげて大きな輪にしてゆきましょう

【脱稿 ―terminé―】

2018-01-13 05:00:00 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
やっと終わりました!
2017年の11月にはほとんどできていたのですが、UPするとなると、物語が息をしはじめるんですね。

こうじゃない、そうじゃないと。

そもそもスタートが2016年2月21日、ほぼ2年間ですよ。最初は全10回程度で終わる予定が44回になっちゃいました。バルセロナ滞在の4日間の話なんだからそれだけあれば十分だと思っていたのですが、量も時間も大きく狂っちゃいました。

完成させたい意思とは裏腹に完成をさせない力がはたらいていました。
今すごく嬉しいのです。勝負事や競争が好きではない自分ですが、完成させない力に勝てたのです。だからこれは勝利宣言です。乗り越えた。さあ、次へ行こう。

子どもの誕生がかかっていただけにやめられなかった。
そして夫婦の関係性も変わっていった。日常の小さな危機の積み重ねが大きくなり、お互いがわかりあえなくもなっていた。だからこそもう一度コミットする必要があったのです。何に?彼女にそして彼女を選んだ自分に、彼女を幸せにすると誓った自分にです。

詳細は省略しますが、心も身体も離れ離れ、繋がっていた「食」も彼女の乳腺炎により別のものを食べるようになり、寝食も途切れました。子育て、育児は当たり前のことながら彼女にとって初めてのこと。眠れない、体調も不良、ぼんやりした経済的な不安が重なればおかしくなるのは寧ろ自然の成り行き、当然の結果でした。こどもは本当に本当に可愛く貴く、今までにない喜びと責任感をもたらしてくれたけれど、その反動として、夫婦の関係性については決していいとは言えず、はっきりいえばダメだったと思います。

そこでやったことが、本を読むということでした。川上未映子の「きみは赤ちゃん」そして村上春樹の「ねじまきどりクロニクル」。「きみは赤ちゃん」は、産前産後の女性の気持ちを理解するために。彼女はこの本にかなり救われていました。当時言葉のコミュニケーション、つまり会話がなかった私たちだったので、彼女のところに降りていくには、彼女が感じたいいものを知ることしか思いつかなかったのです。

彼女の無意識につながるには、潜っていくしかなかったのです。だから夫婦の関係性を取り戻す「ねじまきどりクロニクル」を読むことはシャドウ・ワークだったのです。このことも本当はここにUPしようとも思っていたのですが、それはこの物語がそれを遮っていました。それはそれでよかったと思います。一人でそのシャドウ・ワークを生きていました。日常を生きながら、井戸に入っていたわけです。

若いころなら、引きこもることもできるのですが、今は仕事も大事だし生きるためのお金も必要。徹底的にダメになれず、ある一定のテンションを維持しながら表のペルソナで社会の海を泳ぐのです。46歳になった今だからでしょう、ずうずうしく折り合いをつけられるようになれました。

子どもが1歳半を過ぎたころくらいでしょうか、今度はぶつかり合いが何度かありました。お互いつらいはつらいのですが、自分なんかは会話がないよりましだったと思います。ただ言葉で感情を表現すると極論が表出します。「離婚」「別れる」「もうだめかもしれない」ありがちです。望まないけど、感情はここまで来ているという叫びなわけです。そこをどう受け止めるか。でも湧いた感情は真実、言葉の言霊(ことだま)は力を持つので、そちらに行動を引き寄せようとします。そこを返す「力」が必要なのです。それがコミットメントでした。旅の後半が彼女にシフトしたのは本当の話なのですが、実生活の営みが影響していたことも間違いありません。「バルセロナのAzur」はある家族の起点の物語で、家族の証、運命(さだめ)の原点を明らかにしたものです。

物語の中に書きましたが、「三茶物語」も含めて、これは古事記なのです。バルセロナはもう数年過ぎ、もう霞んでいます。だからこそこの神話ができることで、これからつづく私たち家族の数千年に命が宿るのです。

というわけで、長くかかった言い訳でした。ごめんなさい。
しばらく物語の固い文体とはお別れして、また自分に戻りたいと思います。

何人の方が読んで下さったかはわかりませんが、長いお付き合いありがとうございました。
不思議なもので、自分のことを書くにしても読み手を意識するのです。その視点がこの物語を完結させる動力にもなりました。
心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。
これで本当に「バルセロナのAzur」おしまいです。

FIN

【あとがき ―after word―】〈43〉

2018-01-12 05:00:00 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
区役所の窓口はグレーのブースで区切られており、選挙の投票台ぐらいの広さだった。

2階にある健康保険の部署は、午前中だったせいかその時の来訪者は自分だけだった。番号札を取る受付システムもその時は不要ですぐにそのブースに案内された。

「まだ払っていなかった分をお支払いしたいんです。」
お金の入った黒いバッグを握りしめた。

「少々お待ち下さい」
窓口の担当の方がパソコンのモニターを見つめた。名前と住所の本人確認をして、再び画面を見つめると、しばらく何度も画面の表示を確認していた。そして少々お待ち下さいと言って席を離れた。

「やるべきことをせよ、そうすれば新しいものが入ってくるんだから。」
そういい聞かせた。それにもうギフトはバルセロナの旅で十二分に受け取ってもいた。今はするべきことをするのみ。三茶物語も完成して、FINのキーを押し二人の原点については描き切った。自分の想いに正直にではなく、自分の人生に正直になるんだ。逆にここまでこれたんだ。今ここいることは正しい選択なんだ。そういい聞かせた。早く済ませて、ここにあるお金の未練を断ち切りたかった。

しばらくすると、先程とは違うショートカットの40代くらいの女性が静かに目の前に座った。とくに自己紹介などもなかったが、先程の方の上長であることは察しがついた。T市役所のときと似て非なる状況で、決定的に違うのは自分自身が進化したことだった。担当の方が掛けていた眼鏡を外し口を開いた。

「このお支払の件ですが、こちらの方で処理をしましたので、今日はもう大丈夫です。」

「!」と時間が止まる。

その方は自分の反応を理解され同じことを繰り返した。

「こちらの方で処理しましたので、お支払いは大丈夫です。」

思い当たるところがあり、込み上がる「なぜ?」を聞こうと思ったが、思いとどめた。
一言、「ありがとうございます。」と言うと、その方はすべてをわかっている目でうなずかれた。

一つの水脈が解消されていた。バルセロナのAzurは闇を静かに光にしていた。

区役所の帰りに家の前の坂を下っていると目の前にキャロットタワーが入ってきた。
「この感覚!」それはまさにガウディ通り、サンパウ病院から見えたサグラダ・ファミリアの感覚だった。「でかい!」と感じたあの感覚。

キャロットタワーは高さ124m、サグラダ・ファミリアの聖母マリアの塔は125m。多少の誤差はあれどあのスケール感は同じだった。最初に見た時の既視感(デジャヴ)は確かに体内にある体感だった。ここ世田谷にいてバルセロナが繋がった。必要なものはすぐそばにある。大切なものはもう自分の中にある。手にしている。自分を進化させるには、自分を信じる勇気があればいい。その勇気から齎(もたら)された行動が、今ある日常の質を上げる。

またキャロットタワーの26階へ行こう。そしてこの物語を始めよう。今度は捧げものとしてではなく、お前が生まれたあかしとして、ルーツとして、感謝として。

想いはあっても叶える自信が持てないすべての方々に、
新しい想いにおびえている自分自身へ。

FIN


【あかり ―hope―】〈42〉

2018-01-11 05:00:00 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
そうやってお前は生まれて来たのです。
おとっとはどうしてもこの物語を残しておきたかったのです。
命には終わりがあるけれど、それは始まりがあってこそ。
自分がなぜ生まれて来たのか
自分がどのように生まれて来たのか
人はみなそれをあいまいにするけれど、
言葉を尽くして、物語を尽くして、ここに明らかにしておくよ。

お前はおとっととおかっこの愛から生まれて来たんだ。
愛は一言では言えないから、こんなに長くなっちゃったよ。

それでね、お前にお願いがあるんだよ。
世の中には順番っていうのがある。
これをいつ読むかわからないけど、
おとっとはおかっこより先に生まれて来た。
だからおとっとが先にいなくなっちゃうだろう。
おとっとはおかっこのために生まれて来た。
おとっとはおかっこと幸せの旅を生きている。
あかり、おとっとがいなくなったら、おかっこのことを頼むよ。

帰ったら玄関の靴を並べて置いてくれな。
おかっこは時折、靴を並べるのを忘れるから。
(一所懸命に生きてるからなんだけどね。)
そしたら気持ちよく外に出れる。
ちなみに靴を並べる女の子はいいご縁に恵まれるという話もあるくらいだから、
お前にとってもいいことだろう。

それとおかっこに何か食べたいものない?と聞いた時、「別にない」という言葉をそのまま受け取ってはいけないよ。
迷ったときは回転ずしのサラダ軍艦を持っていけば間違いない。
それとホットケーキ。もうわかっていると思うけど、パンケーキじゃない、ホットケーキ。
「しろくまちゃんのホットケーキ」を思い出してくれればOKです。

それから誕生日や母の日にはメッセージカードを送って上げてな。
おかっこさ、プレゼントもいいんだけど、自分が誰かに愛され、必要とされ、大事にされているということを確認できることが一番の喜びにつながるんだよ。
おかっこは多くを求めない、でも自分の存在が関わる人たちや愛されている人のためにあるということが一番大事なんだ。

おとっともおかっこもちょっと変わってる。そのちょっとが、「自分らしさ」なんだ。
おとっとはおかっこじゃなきゃだめだし、
おかっこもおとっとじゃなきゃだめなんだよ。

そんな二人からあかりは生まれた。
あかりは完全に祝福されている。生まれるべくして、この世にこの時代に生まれて来た。
思うままに生きなさい。どんなときも。

おとっともおかっこもどんなことがあってもお前を愛しているから。
くり返すけど、おとっとがいなくなった後のおかっこを頼むよ。

あかり、人生でどうしようもなくなっちゃったら、バルセロナに行きなさい。
サグラダ・ファミリアに行くといい。あかりを元気にする力がそこにある。
そこでおとっとは待っているから。

でもその前に3人でもバルセロナに行こうな。
バルセロナは私たち家族のふるさとだから。ホームだから。

最後に、あかり、生まれてきてありがとう。
おとっとに生きる意味を与えてくれて、生まれて来た意味を教えてくれてありがとう。
おかっこが一番だけれど、あかりを心から、心から愛しているよ。

未来のあかりへ。
おとっとより。

                          2016.2.29


【問う・空(とう・くう) ―Azur―】〈41〉

2018-01-10 05:00:00 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
空港での搭乗手続きも買い物も、今までの旅の一つ一つとは何だったのかというぐらい、穏やかに静かに進んでいった。おかげで少しのゆとりができて、小さなカフェでお茶をした。温かいラテが魂に沁みた。

「何のためにバルセロナに来たのか?」
「なぜバルセロナだったのか?」
「どうしてバルセロナだったのか?」
それはわからない。

空港の大きな窓から行きたかった地中海が遠くに見えた。バルセロナを去るのを惜しむらく、しばらく輝く地中海をじっと眺めていた。様々な歴史がここを舞台にしてたくさんの悲劇、喜劇、惨劇、ドラマが繰り広げられた。そしてこれからも繰り広げられる。その海の上に空があった。紺碧の空が。

「なぜここカタルーニャの地に、ガウディ、ピカソ、ミロ、ダリが誕生し、育まれたのか?」
それもわからない。

ただこの紺碧の空、「Azur」が無から気を生み出し、この地と自然と時代をシンクロさせて、多様な個性を空に宇宙に、海に大地に、意識に無意識に広げていった。カタルーニャの歴史が大地の地平線のように横に拡がり、サグラダ・ファミリアが天空を貫かんばかりに縦に聳(そび)え空に宇宙に伸びている。

この十字の交点にあるクロス(cross)のエナジーが宇宙の魂を膨らませる。こここそが「個」の力と「宇宙の意志」がアクセスできる交差点。より「個」は膨らみ、宇宙もまた膨らみ、響く。「Yes」と。そのエナジーは世界中の人、一人一人にも宿っている。その人にしかない、その人にしかできないこと。創造する力、パワー、らしさ、個性、アイデンティティ。そのエネルギーの球を手の平で温める。大きくなる、大きくなる。それこそが未来を光にしていく力。それはみんなの中にある。自分の中にもあなたの中にも。

バルセロナの紺碧の空は、未来を創造する力を孵卵させ、疼かせた。なぜなら創造の中心はこのサグラダ・ファミリアにある。アイデンティティが込み上がる。両手で掬(すく)い取るように、そのエネルギーと供にある。魂が上がっていく。上がっていく。気球のように上がっていく。

答えはわからなくていい。込み上がる何かを感じ、満たされればよい。
その空の下で。

私がいて、あなたがいる。
ここから始まる。

新しい物語が。新しい時代が。


【屋敷 ―premises―】〈40〉

2018-01-09 05:00:00 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
前田邸は、旧加賀藩16代目当主、前田利為(まえだとしなり)侯が建造した洋館で、1929年(昭和4年)に建てられた。目黒区の駒場公園内に位置し、現在では東京都が管理していて年に数回は一般に公開されている。

彼女の記憶は2010年に巻き戻っていた。

その時も旧前田邸は東京都の有形文化財と指定されていて貴重な文化・観光資源だったが、休日以外は無料で一般公開されており、誰でも見学できるようになっていた。同所には東京都近代文学館もあってちょっとした歴史スポットだった。そんな背景は露知らず、散歩の道すがらそこに紛れ込んだ自分は、その存在感が喚起する好奇心と無料で観覧できる手軽さもあって、当時付き合い始めて間もないころの彼女をデートと称して連れ出した。二人で散歩するには丁度いい距離で、その日もまた気持ちのいい快晴で二人の時間を過ごすにはもってこいのシチュエーションだった。

戦前の洋館は外観から高級感があり、セレブで品格ある佇(たたず)まいだった。イギリスのチューダー式で、内部もゴシック後期の影響を取り込み、宮内省の担当技師、高橋貞太郎と帝大の塚本靖が設計した。2階建てのその屋敷は、10数部屋あり、客間も玄関ホールも広く、今でもすぐに結婚式や社交パーティーができそうな雰囲気だった。天井もまた通常の日本家屋より高く、空間にゆとりがあり、その時代の建造物の中でも最上級のものだった。それは最早(もはや)家屋というより西洋式のお城のようだった。高い天井にはシャンデリアが掛けられ、ダンスホールにもなりそうなその空間の当時の風景を妄想した。若干観光旅行モードで少し浮ついていたかもしれなかった。そんな自分と対照的だったのが彼女だった。ある一室のふかふかのソファに座って戦前に思いを馳せ、そこに彼女を呼び寄せると、そばにくるなり堰を切ったように涙を流し始めた。そして嗚咽をあげながら「いやだ、早く帰りたい。」と言い出した。

その頃は付き合い始めた時期で、彼女が涙し泣いている姿を目の当たりにするのは初めてのことだった。浮ついていた足は地に着き、さてどうしたものかと戸惑った。勿論彼女がここに来たのも初めてのことだったし、この屋敷については見たことも聞いたこともなかった。それは既視感でもデジャヴとも違い、とにかく悲しみと苦しみが内から込みあがる感じだった。そして早々にその屋敷から出て、少し歩いてようやく落ち着きを取り戻した。どうして泣いてしまったのか彼女自身よくわかっていなかった。

彼女の闇とこの屋敷の悲しみが共振したのだと思った。その理由や根拠はどうでもよくその闇を明らかにすること、紐解くことが自分の役割なんだと察した。それは嬉しいとか素敵という次元のものではなく、彼女の闇もまた自分の人生の中で重要な何かを意味していた。共に生きる責任を感じた。もう恋愛というステージでもなく、「つながり」という必然性を示唆していた。彼女を知る、未知の彼女に近づく象徴的な出来事だった。

グエル邸でもまたその時に湧いた感情が蘇った。数時間後にここを去るにもかかわらず、彼女の旅が深いレベルで作用していた。彼女にしてみればとりたてて楽しくも面白くもない半日だったが、それはそれとして意味があった。グエル邸を出てからランブラスの小路を足の向くままに歩いた。あまり言葉はなかった。数軒営業しているみやげものやがあり、そこで買い物をした。重たくなった空気を気晴らしするには丁度よかった。

グエル邸と前田邸そして彼女の間に何があるのか?それがバルセロナで差し出された最後の問いだった。その問いと共に生きることが夫婦になるということだった。

自分の無意識の旅は、彼女の唯識の旅にシフトした。それは図らずも二人の関係性の深化でもあった。そして最後のタルヘタ・ディエス(T-10)を使って空港に向かった。長いトンネルにも似た地下道を列車は走りやがて地上に出る。バルセロナの青い空と陽の光がスペイン鉄道を包む。彼女は車窓から去りゆくバルセロナ郊外の風景をずっと眺めていた。列車は感慨も会話もなくたんたんと進んでいったが、その陽の光がやけに優しく気持ちよかった。


【種子 ―seed―】〈39〉

2018-01-08 07:35:36 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
朝早く出たことで時間は1時間ほど余分ができた。早めに空港に向かって買い物やお茶でもするという考えもあったが、ここバルセロナの寸暇を二人で楽しみたかった。残っているユーロもあり、この余白に二人でペンを入れなくてはいけなかった。ガイドブックの地図を広げ、時間内で行けそうで面白そうな場所を探す。地図を俯瞰して神の視点でゴシック地区を眺めてみると、ほんの数百メートル先に1847年にできたリセウ劇場があり、その先には世界遺産「グエル邸」があった。依然停滞中の低気圧を解消するには(できるはずもないのだけれど)、箔や格のあるわかりやすいインパクトが必要だった。世界遺産の4文字熟語は内的ではないが外的には説得力のある強さがあった。二人でというよりも、ほぼそのチョイスは自分の意向だった。そんな選択の動機の浅はかさと比すると、「グエル邸」のその歴史的意義、文化的価値はとてつもなく大きく深く、行くには烏滸(おこ)がましかったが、距離的にも時間的にも丁度よく、それ以外の最適な選択肢は浮かばなかった。

ランブラス通りに出て、リセウ劇場を右手に見ながらグエル邸を目指す。彼女と違い、自分のテンションは上がっていた。なにしろチケットだのホテルだの心配がなく、やっかいな煩わしさからすっかり解放されていた分、ぱっかりと心が開いていた。楽しみにしていたグエル公園、カサ・ミラ、カサ・バトリョをうわの空で味わえなかっただけに、ここは万全で楽しむ準備ができていた。気圧配置は高気圧。グエル邸についても写真を撮ってもらい、中に入る気満々だった。一方彼女は市場からずっと低気圧がつづいていた。低気圧は発達すると上昇気流は強くなり、地上や海から水気を吸い上げ雲を作る。雲はもくもくと大きくなっていた。

グエル邸の中に入るとそこはもうモデルニスモの世界。1886年にガウディによって創建され、130数年前の華やかで豊かな建築美が広がっていた。ガウディの建築は外観やファサードだけがその魅力だけでない。その内部、内装もまた魅力に溢れていた。当時のライフスタイルとアールヌーヴォーの美意識が融合し、その機能性と様相美が調和していた。階段、天井、鏡、テーブル、椅子、燭台それら一つ一つが花や昆虫、樹木や動物たちの要素を汲み込み、静物が生物にメタモルフォーゼし生命力を帯びながら佇んでいる。目と心、五感と六感を楽しませ豊かにした。

その時の彼女と言えば、2階のホールを過ぎると一人で先へ先へと足早に歩を進めていた。見どころ満載の各部屋を丁寧に見て外の廊下へ出ると、各部屋を後ろに手を組みながらすらすらと部屋を見て進む彼女と何度かすれ違った。その顔は楽しむとは程遠く、無表情で無口だった。まるで時間も感情も止まっているような顔をしていた。その顔を見ると無邪気にエンジョイしている自分はなぜか罪悪感じみた何かを感じていた。「ここの何が不満なんだ!」そんな疑問が過(よ)ぎった。屋上に上るといくつもの個性的な尖塔がならんでいる。それらは色とりどりなタイルや砕石、レンガなどで造形され、グエル邸の見どころの一つになっていた。地中海性気候の6月のバルセロナの空に、その屋上はとても似合っていた。また屋上からから眺めるバルセロナの甍(いらか)の波は、地上から見える風景とは異なり、観光客ではなくそこで生きている人たちの生活の確かな存在を感じさせた。そこをふきぬける風も心地よかった。

ここであれば彼女も気を取り直してくれるのではないかと期待した。先に屋上で待っていてくれた彼女に追いついて、ご機嫌よろしく彼女に聞いてみた。「ここはどうだった?」

「あまりいい感じしない。」そしてこう続けた。

「駒場公園にあったあのお屋敷みたいだった・・・」

そのお屋敷とは、駒場東大前の近くにある公園の中に建っている旧前田邸のことだった。


【ダンキンドーナツ ―a hole―】〈38〉

2018-01-07 09:19:08 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
バルセロナの最終日も天気は快晴だった。すったもんだがあったここでの滞在、アムレイ・サンパウホテルともお別れだ。この日もまた昨日と同じルートの地下鉄でカタルーニャ広場まで向かう。昨日と違うのは深緑のトランクと茶色のボストンバッグを担いでいるところ。ボストンバッグはパンパンに詰め込まれていたが、トランクの方にはゆとりを作っておいた。この空間にはおみやげが入ってくる予定で、次の主を待ち受けていた。最終日の午前中は買い物と決めていた。モールも市場もこの日のために敢えて行くこと控え、最後に楽しみをとっておいた。このスペースには何もなかったが、期待の気で満たされていた。その期待の「気」はほとんど彼女のものだった。荷物は重くとも、足取りは軽かった。

荷物を有料の預り所に託した。これは旅の経験則から学んだもので多少のコストはかかっても身を軽くすることは気も軽くし、残りの時間の質を上げる。適切な判断で納得の出費だった。地下鉄の駅から預り所までの道のりで、気になっていたことがあった。もうすぐ9:00になるところというのに街が心なしか静かだったことだ。電気が消えているお店、シャッターが閉まってるお店、鉄格子が引かれているお店がやたらと目についた。さすがに市場は朝からやっているだろうと高を括っていた二人は地図と看板を頼りにバルセロナの台所、サンジュセップ市場に向かった。ほどなくして市場に着くと、入口に鉄格子が引かれている。その隙間からは止まっている市場の乾いた空気が流れていた。賑やかなはずの音や声も、聞こえてこなかった。

この日は月曜日で定休日だった。市場だけでなくランブラスにあるショッピングモール、エル・コルテ・イングレスもエル・トリアングレも閉まっていた。そして多くのバルもお休みで地元の方にしてみれば貴重な安息日だった。

ただ一生に一度あるかないかの観光旅行者にとっては残念な休日だった。

「えーーーーっ」と一言漏らし、それ以降無口になった。明らかに凹んでいる彼女の顔が見えた。自分などは、イスラエルを旅した時、金曜日のシャバットの日は街が止まり店も休みになることを体験を通して知っていた。だから目の前の状況も現実も比較的容易に受け入れられもしたが、彼女がこの変わらない現実を消化するためには彼女にしかない時間が必要だった。ショッピングは女子のたしなみで、楽しみの一つ。特に新婚旅行にしてはすったもんだがあった分、せめて残された数時間は彼女の時間にしてあげたかった。空はこれ以上にないくらいいい天気だったが、よりによって最後のこの日にどんよりし暗雲の気配がした。旅の気圧配置は帰国しようとしている日本モードにスライドし、いつの間にか梅雨前線が張り出していた。

そんな時に空腹の三大欲求が降って湧いた。飢えがこの低気圧をより活発化させるのは容易に想像できた。サンジュセップの市場を振り返ると、そこにはダンキンドーナツが営業していた。ゲリラ豪雨の雨宿りにはちょうど良かった。彼女の心にぽっかりと空いた空洞があった。その空洞をくぐるように店の中に入って行った。

ホテルでの朝食がなかった分、ここでの食事はタイミングのいい幕間だった。下がったテンションをどう楽しいものに変えていくか、この幕間にアドリブで台本を書き換えなくてはいけなかった。(さあどうすんべか・・)と考えながらハムの入ったクロワッサンをを食べていると、「ダンキンドーナツはもう日本にないんだよね・・」そう無口だった彼女がつぶやいた。

「小っちゃいころ、お父さん、おみやげにここのドーナツ買ってきてくれたんだ。」

1998年にダンキンドーナツは日本から撤退していた。彼女のいう「小っちゃいころ」は小学校2年生とか3年生ぐらいのことで、彼女の中で時が音を立てて巻き戻されていった。そのリワインドは気圧配置を動かすきっかけになった。

今日ドーナツと言えば、日本全国規模でみればミスタードーナツだが、そのルーツはダンキンドーナツにある。発祥は言わずもがなアメリカで1946年の第二次大戦後、ウイリアム・ローゼンバーグが工場労働者のために移動トラックで路上売りし始めたところから歴史は始まる。工場労働者にとって手軽で食べやすく価格帯が良心的だったドーナツは需要が高く、これはいけるとビジネスにしたのがダンキンドーナツのスタートだった。ダンキンドーナツの名前の由来は「ダンキンーdunkingー」(浸す)から来ており、ドーナツをコーヒーやミルクに浸して食べるという食習慣からそう名付けられた。ダンキンドーナツのスタイルは当時の食習慣や世相などその時代のアメリカが色濃く反映されている。そういう背景も手伝ってダンキンドーナツは全米に拡がり成功を収め、食習慣は食文化を形成するに至った。創業者のローゼンバーグはビジネス拡大の中で、事業の経営を義妹の夫ハリー・ウィノカーをパートナーとし順調に店舗数を増やしていった。ところがハリーは経営方針の違いからローゼンバーグの元を去り、自らドーナツでビジネスを立ち上げる。それがミスタードーナツだった。朝鮮戦争の最中1956年のことだった。

当時は色んなことが考え(イデオロギー)の違いで一つだったものが二つに割かれていた。ドイツは東西に、朝鮮半島やベトナムは北と南に分かれて戦っていた。

同じ民族なのになぜ?一つの国だったのになぜ?共通のビジネスモデルだったのになぜ?

戦後の否応なき二つの極が、アイデンティティを二つに裂いた。その細胞分裂は、モノゴトが生まれ発展する必然のプロセスだったのかもしれないが、あまりにも犠牲が大きすぎた。多くの人が傷つき、たくさんの血が流れた。時代が目に見えない極の動きに振り回された。やがてベトナムは北が南に勝ち、ドイツは東が西に吸収され、朝鮮半島はいまなお分裂をしたまま。勝者敗者ではなく、已む無き仮置きの答えで、よりよい形を模索している。その融合の過程は今も継続している。こうしたいという想いと、収まるところに収まる大きな流れが一つになるには時間がかかる。
ダンキンドーナツとミスタードーナツも米国内でそれぞれの帝国を築いていったが、最後は創業家の名が残りダンキンドーナツがアメリカではスタンダードになった。ことこのドーナツ戦争については仮置きの回答ではなく白黒がついた。グローバルで見てもダンキンが主流で、ミスタードーナツはアメリカではもう片手で数えるほどしかない。そうアメリカでは。

物事には例外もあり、それが日本にあった。ダンキンVSミスターのドーナツFCシェア争いは日本にも直輸入され、80年代から90年代は出店を競い合っていた。日本ではアメリカ本国とは逆転の現象が起こる。ダンキンならぬダスキンがミスタードーナツのライセンスを事業化することで、日本とアジアにミスタードーナツの種子をまき、この土壌に根付かせた。アメリカザリガニが日本の生態系に合ったように、北は北海道から南は沖縄まで浸透していった。その余波は日本におけるダンキンドーナツのいる場所を小さくさせた。日本におけるFC権を所有していた吉野家ホールディングスは狂牛病の影響もあり、きっぱりとドーナツ事業から撤退した。

その撤退により、一人の少女のドーナツの思い出は止まった。止まったことで彼女の中で特別なものになった。小さいときに憧れたアイドルが、今はいなくてもその歌がハミングできるように美しいメモリーとして包装されていた。それには可愛いリボンがついていた。

分裂の歴史たちが一人の少女に影響を与えていた。風が吹いたら桶屋が儲かる、バタフライ・イフェクト。その振動・波動が市場の鉄格子に立ち尽くす二人の元に注がれた。

ダンキンドーナツが彼女の思い出を温めた。フリーズドライにお湯が注がれ、少女の自分が今の自分に起き立った。時空を超えて多様な「私」が身体の中でダンスをしていた。

そして気圧の配置は左巻きに前進し、時を戻し始めた。旅はここにきて彼女にその主体がシフトしていた。残りの数時間がこの旅のすべてになった。


【ノイズ ―feel―】〈37〉

2017-07-03 07:01:48 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
二人の元に近づくと会話の声が聞こえてきた。
二人は日本語と英語で話していた。
二人の所に辿り着くころには、彼の日本語のボキャブラリーも尽き、彼女の知りうる語彙も限界に来ていた。彼女は今までにないスイッチが入ったかのように懸命に彼の話に耳を傾け、彼もまた彼で懸命に話しかけていた。

その「伝えたい」、「わかりたい」の場に入って行くと、彼女は安堵の表情で懸命のバトンを自分に託した。彼は、今度はこちらにベクトルを向け笑顔で話しかけた。
                      
彼の名はジョン。ベネズエラ出身で、現在はニューヨークを拠点に活動しているアーティストだった。ダリの美術館のイベントスペースで「音」をテーマに作品を展示、発表していた。
それは展示というよりは参加型の体感アートだった。

3m四方のほぼ暗闇に近い空間に入って行くと、虫の鳴き声のように小さいシーンという音が途切れることなく聞こえてくる。身の置き所で音が変わる、そういうアートだった。ジョンはその空間に導き、自由に動いて止まった場所の音に耳を澄ましてごらんと言った。薄暗い照明のその空間に自分の身を置いてみた。するとジョンの言うように、音のノイズが立ち位置によって変わるのがわかった。それは微かなノイズで身体にも響いた。鼓膜と同時に臓器にも振動が伝播した。その微妙な差異を甘受して自分の心地のよい場所を探した。その空間の左奥にピアノの鍵盤の一番右の黒のキーの音がツーンと響いてきた。その場所とその音が自分と同調し一つの和になった。そこが自分の場所だった。その場所で、その振動に身を委ねた。ダリの無意識の世界に静かなノイズが加わった。それは感じたものを増幅させる力を持っていた。

その作品を理解するのは困難だったが、その意味や仕組みをジョンは情熱的に語っていた。その何も無い空間に、かすかな音が確実にあるように、その作品には見えない息と意気が詰まっていた。その意気が外国語に免疫がない彼女の抗原を浸潤し彼と向かい合わせたのかもしれなかった。想いは時に言語を超える力を持っていた。そのことによって彼女がこの旅で刻まれた体験は、写真だけでなく無意識の層まで及んだ。そんな体験をしてほしかったし、それを分かち合えたことは望外の喜びだった。

その施設を出てジョンの話を聞くと、彼の奥様は日本人で、しかも彼女の地元と同じ出身地だった。そこには何らかのご縁があった。3人で写真を撮り私たちは別れた。

アムレイ・サンパウへの帰りにもう一度サグラダ・ファミリアを見て、ガウディ通りのカフェテリアで食事をした。バルセロナの最後の晩餐。スパークリングワインを頼んで何に祈るともなく乾杯した。普段飲まなくなった彼女が一杯だけ付き合ってくれた。

どこかで何かが繋がっている。
どこかで誰かが響きあっている。
個の体験と無意識の宇宙が等しく一つになる。
悠久の時の中に漂う一人の魂は、「瞬間」、時の流れそのものになり永遠になる。

そんな大袈裟な真実を、シャンパンの小さな泡たちの中に見た。
心地好い酔いが、また異次元の世界へと誘った。
でもその異次元よりもここバルセロナにまだいたかった。
彼女と一緒に。

明日は帰らなくてはならない。惜しまれる宵(よい)を、ガウディ通りのパラソルの下でとりとめもなく耽った。店員さんが写真を撮ってくれた。彼女が言った。

「Gracias―グラシアス―!」

彼女の中にあるオレンジ色の灯がまた少し膨らんだ。


【オリジン ―wonder―】〈36〉

2017-06-30 11:28:04 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
館内には油彩、水彩、デッサン、彫刻、写真など700点余りの作品が展示されていた。2006年に上野で見た回顧展と比べると、その規模は小さくメジャーどころの作品は限られていた。他方でバルセロナというホーム感やダリ・オンリーというプライベート感は、作品と観るものの距離をぐっと縮めていた。よりシュールな世界にどっぷり浸れた。またメジャーな作品よりマイナーな作品の中に出る個性は濃度が高く、どこかしら親密感があった。特に鉛筆のデッサンは、作品が生まれる発露のようで、そのシンプルな線の積重ねに響くものがあった。

それはこのように紡ぐ物語の一文字、一語、一文と同様に、ダリであれ、誰であれ、その一線、一筆もまたシンプルで、それ以上でもなくそれ以下でもない。天才・奇才のダリでも、無から有を生み出すための最初の一筆というものがある。その一見、粗雑で素朴なデッサンにエネルギーを貰った。【三茶物語】は終盤中の終盤を迎えていたが、ここで創造の刺激を注入された。それは物語を完結させる上でも大きな作用だった。

また、その作品群に囲まれて、ダリがシュールレアリスムというジャンルだけでは括り切れないということもわかってきた。生き写しのような写実的な表現があり、キュービズムの要素もあり、印象派的アプローチもあった。ダリを言葉で表すことは不可能だと思った。ダリはカテゴリーを越え、ダリそのものがダリというジャンルだった。その圧倒的な個性を全身の皮膚の穴から吸収し、自分の細胞に埋(うず)め、温めた。気は晴れやかで、夢見ご心地でもあった。

そこに彼女はいなかった。えらくゆっくり回っている自分を放っておいてくれた。お陰様で貸切のダリワールドを存分に堪能できた。

そして外へ出ると、目を疑う光景に出くわした。彼女が身長190cm程ある外国人と笑いながら話をしていた。その男は赤毛で、口元にはジョージ・ルーカスのような髭を貯え、30代前半位、ブルーと白のギンガムチェックのシャツにジーンズを格好良く着こなしていた。目にはほぼ透明に近い琥珀色のサングラスをかけていたが、その目の奥は優しそうな佇まいで好印象だった。

彼女からは外国が話せるようになりたいという話は何度か聞いていたが、英語が話せるとも、スペイン語が話せるとも聞いたことがなかった。さっきのエスパドリーユの買い物の時とも雰囲気が違った。会話をし、笑顔があった。そこには自分の知らない未知の彼女がいた。

ダリの作品群から湧いたインスピレーションの夢がつづいているのかと思った。
醒めない夢を見ている錯覚に陥った。

宇宙・夢・無意識の広範な無限性と一人の個の体験が等価値になる時がある。
シュールが現実を包括していても、ときに現実がシュールと等しくなることもある。
それはメビウスの輪の結節点のように。

いずれにしてもその光景を引き出したのはダリの世界に間違いなかった。
その夢解きのために二人の元へ向かっていった。


【シュール ―sur―】〈35〉

2017-06-23 23:45:22 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
シュール
しゅーる
sur ・・・・・・・・

この考えはシュールだ。この絵はシュールだ。あの人はシュールだ。このネタはシュールだ。

そもそもシュールって何?っていう話。
そのシュールの語源に向かってランブラスを歩いていた。
その「シュール」についてふと腑に落ち、そのイメージを掴めたことがあった。
学生時代フランス語を学んでいた時、“sur”という前置詞がよく使われていた。それも頻繁に。

フランス語:sur la table (机の上に)
英語:on the table (机の上に)

つまりsurは英語の “on ”に一番近い。シュールレアリスムとカタカナで言ってみるとピンとこないが、 surréalisme を“on the real”と英語で分解すると、「現実の上に」となる。その延長上に現実より上だから超現実。現実を越えているわけだから無意識、潜在意識、夢などの無形でありながら存在する捉えどころのない世界、そう考えるとわからないでもない。

それがダリの絵でありダリの世界だ。

空飛ぶ魚の口から虎が飛び出る。時計がぐんにゃりと曲がり溶けている。卵から花が咲く。水面に像を映す白鳥。その数、数千の作品群。ダリだけがシュールレアリスムの作家ではないけれど、突出した異端であったことは間違いない。そもそも画力・筆力という圧倒的な技術があったことで、夢や無意識で見たものに色を付け、感じるままにその世界を描写することができた。また作品として具現化することで、より目に見えない世界の存在を可視化しアート―芸術―に昇華させた。
さらに目が幾分悪かったことから、ダリの目に映るものの見え方や捉え方は、通常の健全な網膜に映る画像とは違っていた。そのことがダリの作品の質をより上質にし、独創性やオリジナリティを顕著にした。ダリの作品群は当時のアートであり、エンターテイメントとして世に出され認知と一定の評価を得られていたが、ダリの功績のもう一つは、「―無意識の顕在化―」だった。

地球を宇宙が包み込み無限の広がりがあるのと同じように、意識より無意識が広範であるという真実を提示した。時にキャンバスで、彫刻で、映像で、彼の人生で。

その当時のムーブメントは、言語学の世界、心理学の世界でも同時的、共時的に発生していた。アートではシュールレアリスムとして、言語ではノーム・チョムスキーの生成文法・普遍文法として顕われ、心理学ではフロイトやユングによって世界に広がって行った。ダリはこれからの20世紀のスタンダードになる価値観や自由な表現を、アートによって私たちに遺してくれた。

それは人の起源、自然の起源、宇宙の起源に立ち返り、「今」という命にあるエネルギー、「この瞬間が完全であること」を作品として切り取って私たちの前に見せてくれた。そう、両手を広げて。

シュールレアリスムは非日常でも幻想でもない。日常と見えるこの世界を包みこむ世界。日常とはパラレル(並列)ではなく、包括している一部に過ぎない。そんな世界を一個人が愛によって表現した。個はとてつもなく、限りなく小さいが、同時にその世界はその小さなミクロな個の中に同居している。それを表現することはなかなかできない。ただ個というアイデンティティの行く先を生きることで、個々人の人生の中で結実していく。20世紀初頭からダリは人生をもってそれを生きた。そのエッセンス、その息吹、臭いを感じたかった。

ダリ美術館に着くと観覧者はなんと私たち二人だけだった。上野であったあの回顧展の人の波と活気を思い出すと、それはどこか寂し気なものが感じられた。と同時に、それは私たち二人だけがその時、その世界を浴するという贅沢な時間になることも意味していた。

そしてシュールの階段を2人で登った。そこにはメイ・ウエストの紅い唇のソファーが待っていた。その唇は私たちに「お座りなさい」と語りかけた。面白がって腰を下ろすと、その唇にあっという間に吸い込まれていった。ダリの世界のインナースペースに入って行った。
漂い、浴した。

― 南風に吹かれながら シュールな夢を見ていたい ― 
                     The Blue Hearts 【train train】