やっと終わりました!
2017年の11月にはほとんどできていたのですが、UPするとなると、物語が息をしはじめるんですね。
こうじゃない、そうじゃないと。
そもそもスタートが2016年2月21日、ほぼ2年間ですよ。最初は全10回程度で終わる予定が44回になっちゃいました。バルセロナ滞在の4日間の話なんだからそれだけあれば十分だと思っていたのですが、量も時間も大きく狂っちゃいました。
完成させたい意思とは裏腹に完成をさせない力がはたらいていました。
今すごく嬉しいのです。勝負事や競争が好きではない自分ですが、完成させない力に勝てたのです。だからこれは勝利宣言です。乗り越えた。さあ、次へ行こう。
子どもの誕生がかかっていただけにやめられなかった。
そして夫婦の関係性も変わっていった。日常の小さな危機の積み重ねが大きくなり、お互いがわかりあえなくもなっていた。だからこそもう一度コミットする必要があったのです。何に?彼女にそして彼女を選んだ自分に、彼女を幸せにすると誓った自分にです。
詳細は省略しますが、心も身体も離れ離れ、繋がっていた「食」も彼女の乳腺炎により別のものを食べるようになり、寝食も途切れました。子育て、育児は当たり前のことながら彼女にとって初めてのこと。眠れない、体調も不良、ぼんやりした経済的な不安が重なればおかしくなるのは寧ろ自然の成り行き、当然の結果でした。こどもは本当に本当に可愛く貴く、今までにない喜びと責任感をもたらしてくれたけれど、その反動として、夫婦の関係性については決していいとは言えず、はっきりいえばダメだったと思います。
そこでやったことが、本を読むということでした。川上未映子の「きみは赤ちゃん」そして村上春樹の「ねじまきどりクロニクル」。「きみは赤ちゃん」は、産前産後の女性の気持ちを理解するために。彼女はこの本にかなり救われていました。当時言葉のコミュニケーション、つまり会話がなかった私たちだったので、彼女のところに降りていくには、彼女が感じたいいものを知ることしか思いつかなかったのです。
彼女の無意識につながるには、潜っていくしかなかったのです。だから夫婦の関係性を取り戻す「ねじまきどりクロニクル」を読むことはシャドウ・ワークだったのです。このことも本当はここにUPしようとも思っていたのですが、それはこの物語がそれを遮っていました。それはそれでよかったと思います。一人でそのシャドウ・ワークを生きていました。日常を生きながら、井戸に入っていたわけです。
若いころなら、引きこもることもできるのですが、今は仕事も大事だし生きるためのお金も必要。徹底的にダメになれず、ある一定のテンションを維持しながら表のペルソナで社会の海を泳ぐのです。46歳になった今だからでしょう、ずうずうしく折り合いをつけられるようになれました。
子どもが1歳半を過ぎたころくらいでしょうか、今度はぶつかり合いが何度かありました。お互いつらいはつらいのですが、自分なんかは会話がないよりましだったと思います。ただ言葉で感情を表現すると極論が表出します。「離婚」「別れる」「もうだめかもしれない」ありがちです。望まないけど、感情はここまで来ているという叫びなわけです。そこをどう受け止めるか。でも湧いた感情は真実、言葉の言霊(ことだま)は力を持つので、そちらに行動を引き寄せようとします。そこを返す「力」が必要なのです。それがコミットメントでした。旅の後半が彼女にシフトしたのは本当の話なのですが、実生活の営みが影響していたことも間違いありません。「バルセロナのAzur」はある家族の起点の物語で、家族の証、運命(さだめ)の原点を明らかにしたものです。
物語の中に書きましたが、「三茶物語」も含めて、これは古事記なのです。バルセロナはもう数年過ぎ、もう霞んでいます。だからこそこの神話ができることで、これからつづく私たち家族の数千年に命が宿るのです。
というわけで、長くかかった言い訳でした。ごめんなさい。
しばらく物語の固い文体とはお別れして、また自分に戻りたいと思います。
何人の方が読んで下さったかはわかりませんが、長いお付き合いありがとうございました。
不思議なもので、自分のことを書くにしても読み手を意識するのです。その視点がこの物語を完結させる動力にもなりました。
心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。
これで本当に「バルセロナのAzur」おしまいです。
FIN
2017年の11月にはほとんどできていたのですが、UPするとなると、物語が息をしはじめるんですね。
こうじゃない、そうじゃないと。
そもそもスタートが2016年2月21日、ほぼ2年間ですよ。最初は全10回程度で終わる予定が44回になっちゃいました。バルセロナ滞在の4日間の話なんだからそれだけあれば十分だと思っていたのですが、量も時間も大きく狂っちゃいました。
完成させたい意思とは裏腹に完成をさせない力がはたらいていました。
今すごく嬉しいのです。勝負事や競争が好きではない自分ですが、完成させない力に勝てたのです。だからこれは勝利宣言です。乗り越えた。さあ、次へ行こう。
子どもの誕生がかかっていただけにやめられなかった。
そして夫婦の関係性も変わっていった。日常の小さな危機の積み重ねが大きくなり、お互いがわかりあえなくもなっていた。だからこそもう一度コミットする必要があったのです。何に?彼女にそして彼女を選んだ自分に、彼女を幸せにすると誓った自分にです。
詳細は省略しますが、心も身体も離れ離れ、繋がっていた「食」も彼女の乳腺炎により別のものを食べるようになり、寝食も途切れました。子育て、育児は当たり前のことながら彼女にとって初めてのこと。眠れない、体調も不良、ぼんやりした経済的な不安が重なればおかしくなるのは寧ろ自然の成り行き、当然の結果でした。こどもは本当に本当に可愛く貴く、今までにない喜びと責任感をもたらしてくれたけれど、その反動として、夫婦の関係性については決していいとは言えず、はっきりいえばダメだったと思います。
そこでやったことが、本を読むということでした。川上未映子の「きみは赤ちゃん」そして村上春樹の「ねじまきどりクロニクル」。「きみは赤ちゃん」は、産前産後の女性の気持ちを理解するために。彼女はこの本にかなり救われていました。当時言葉のコミュニケーション、つまり会話がなかった私たちだったので、彼女のところに降りていくには、彼女が感じたいいものを知ることしか思いつかなかったのです。
彼女の無意識につながるには、潜っていくしかなかったのです。だから夫婦の関係性を取り戻す「ねじまきどりクロニクル」を読むことはシャドウ・ワークだったのです。このことも本当はここにUPしようとも思っていたのですが、それはこの物語がそれを遮っていました。それはそれでよかったと思います。一人でそのシャドウ・ワークを生きていました。日常を生きながら、井戸に入っていたわけです。
若いころなら、引きこもることもできるのですが、今は仕事も大事だし生きるためのお金も必要。徹底的にダメになれず、ある一定のテンションを維持しながら表のペルソナで社会の海を泳ぐのです。46歳になった今だからでしょう、ずうずうしく折り合いをつけられるようになれました。
子どもが1歳半を過ぎたころくらいでしょうか、今度はぶつかり合いが何度かありました。お互いつらいはつらいのですが、自分なんかは会話がないよりましだったと思います。ただ言葉で感情を表現すると極論が表出します。「離婚」「別れる」「もうだめかもしれない」ありがちです。望まないけど、感情はここまで来ているという叫びなわけです。そこをどう受け止めるか。でも湧いた感情は真実、言葉の言霊(ことだま)は力を持つので、そちらに行動を引き寄せようとします。そこを返す「力」が必要なのです。それがコミットメントでした。旅の後半が彼女にシフトしたのは本当の話なのですが、実生活の営みが影響していたことも間違いありません。「バルセロナのAzur」はある家族の起点の物語で、家族の証、運命(さだめ)の原点を明らかにしたものです。
物語の中に書きましたが、「三茶物語」も含めて、これは古事記なのです。バルセロナはもう数年過ぎ、もう霞んでいます。だからこそこの神話ができることで、これからつづく私たち家族の数千年に命が宿るのです。
というわけで、長くかかった言い訳でした。ごめんなさい。
しばらく物語の固い文体とはお別れして、また自分に戻りたいと思います。
何人の方が読んで下さったかはわかりませんが、長いお付き合いありがとうございました。
不思議なもので、自分のことを書くにしても読み手を意識するのです。その視点がこの物語を完結させる動力にもなりました。
心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。
これで本当に「バルセロナのAzur」おしまいです。
FIN