スメラ~想いをカタチに~

スメラは想いをカタチにするコミュニティーです みんなの想いをつなげて大きな輪にしてゆきましょう

【鶏と卵 ―chicken or egg―】〈24〉

2016-10-27 09:05:13 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
ホテル、アムレイ・サンパウの一室では粛粛と物語が編まれていた。前日同様長い一日を終え、まだホテルも決まっていないにもかかわらず、PCのキーボードを叩いていた。本当は旅の記録でも残したほうがいいようなものだが、旅と同じ位この物語を編む行為は大切だった。なぜなら想いをカタチにするということは、想いが先、カタチが後と考えがちだが、実は想いもカタチもエネルギーが加わると、時空を超えてしまい、どちらが先でも後でもなくなってしまうのだ。今回の旅は、通常の自分の意識レベルではとっくのとうに諦めている旅だった。差し押さえ決定時点でgive upだったはずだった。それが諦めきれない。どうしてもなんとかしたいという気持ちが湧く。それは、もう既に起こった未来が、お前が今何とかしないと体験したはずの未来の存在がなくなる。何とかしろ!ということなのだ。だからその帳尻や辻褄を何とかするために、カタチが想いに働きかける。様々な知恵、出会い、シンクロニシティ、メッセージがサポートとして現れてくる。自分が受けた恩恵や幸運は過去・未来を包含した自分の全人生という叡智と今の自分が繋がったときにギフトとして齎される。【三茶物語】はそのギフトを物語化することで、二人の出逢いを繋留(アンカリング)させたかった。なぜそうしたかと言えば、始まりを定義することで、より強固な関係性が築かれるからということ。そしてルーツが明らかになることで2人のアイデンティティが確立するからだった。「アイデンティティ」―「個」、「関係性」―「複数」という点から見れば、二人の関係性にアイデンティティを付与するというのは妙な感じがするが、これは二人の命の融合を意味する。それは融合の起点。新しい歴史の始まりで、二人の「古事記」の象徴だった。

ただ物語を「捧げ物」としての締め切りは過ぎていた。一文、一文字でも物語を進め、献上したかった。
献上することは、その当時の自分に力を与えることに繋がった。その力は確実に今の自分にも繋がっている。旅を乗り切るにはその力が必要だった。

【三茶物語】を継続できた理由は、―書く―という衝動があったことが大きい。またこんなに忍耐力のない自分が書き続けられた背景として、ブログという媒体を使って書いていたことがある。ごく少数ではあるが読んでくれる方がいた。彼らは内と外を繋ぎ留める重要な役割を果たしてくれた。そこにあるIPの数、そしてコメントはオンタイムで今の自分に影響を与えた。また見ず知らずの方のFB(フィードバック)は外部からの刺激でいつもと違うところからの感謝と喜びが湧き上がった。またそれはWEBという人工的無意識空間の存在を明らかにし、そこにもシンクロや出会いがあることを再認識させた。

物事の始まりを思う時、イエスの誕生を考えた。マリアの処女懐胎で生まれたイエス。そんなことはあり得ないとずっと思っていた。神話を創る上での一つの「作用」で、「演出」「仕掛け」であると。しかし理想と現実、意識と無意識、過去と未来の境界が曖昧になり、ひいてはなくなり創造の起点に立ち返るとあり得なくなくなる。元々はなにも無いところから始まるのだ。「無」というより「空」。キャンバスに引かれる一本の線が世界を創る。レポート用紙の一文字が物語を語り始める。88の鍵盤の一音が交響曲を奏でる。シンプルなエネルギーのユニットが「空」に命を与える。生物・科学的見地の議論はし尽くされてきた。時間という軸をずらし、物事の源泉を見つめると、過程ではなくカタチの中にしか答えはない。であればどうする?それはカタチに聞くのだ。

「Where are you from? ―貴方はどこから来たのですか?―」と。

「空」に「問う」とき、シンプルなエナジーが透きとおった瓣(はなびら)のように漂い始める。「問う」ことが、「問い」の連続体が存在の原点に通じていくのだ。

なぜこんなにもバルセロナなのだろう?
なぜこんなにも彼女に心魅かれるのだろう?
なぜこんなにも書く衝動に駆られるのだろう?
なぜマリアはイエスを処女懐胎できたのだろう?

なんで?どうして?なぜ?

なぜの嵐が「空」に見えない空気を生み出す。それは見えないが、確かにある。
そんな妄想の麻薬はバルセロナの夜を走らせた。

【三茶物語】は終盤を迎えていた。捧げものの献上が見えてきた。旅の最中に本当の旅の始まりの訪れを感じていた。明日は彼女とモンセラートに行く。また湧きおこる新しい「問い」を見つけに行こう。

飛行機でもらった赤ワインをあけた。記憶も思考もなくなった。「空」ではないが、「空」のようになった。


【黒いマリア ―Montserrat―】〈23〉

2016-10-21 00:32:29 | 【バルセロナの紺碧(azur)】

「絶対なんとかなるって。」
そう言った。というかそう言ってみた。
彼女は何も言わなかった。というか何も言えなかった。
鏡という抽象的で形のない概念よりも、安心できる見通しを望んでいた。

折角だからということでグエル公園に行ってみた。ダリが「砂糖をまぶしたタルト菓子みたいだ。」と言っていた門衛にある小屋も、ガイドブックに載っている中央広場も、グエル公園のシンボル的存在のモザイクのトカゲも、非日常から受ける感動ではなく、現実の事物の中に当然いるような感じがした。本当はこの夢のような公園を気持ちよく散歩したかった。
ただそこには夢ではなくリアリティ、もっと言うと現実が横たわっていた。その現実は落ちこぼれの高校時代に一人弓道場に佇んでいた自分に繋がっていた。行き場のない自分が辿り着いた弓道場は誰もいなかったが、やり場のない気持ちを受け止めた。何も答えてもくれない、何の慰めの言葉もないが、その時間をしっかりと抱きしめた。夕暮れ時のグエル公園は世界遺産の特別な観光地ではなく、日常の中にある居場所がない人のための「0〈零〉」の場として存在した。無力の通り径(みち)を避けずに歩いた。どんなに嫌でも逃げたくても、その径を歩くことが唯一の光への産道だった。グエル公園は通過儀礼の場になった。

19:00を過ぎるとようやく日没の気配が広がった。彼女もこんなことになるとは夢にも思っていなかった。グエル公園からサンパウ病院までの帰り道を地下鉄ではなく歩いて戻ることにした。2駅分見知らぬ街を地図と携帯をたよりに歩いた。往生際の悪い自分は帰る道々、ホテルの看板を見つけては飛び込んでみた。結果は同じだった。とある信号待ちで彼女がつぶやいた。

「しげぞうは、旅行じゃなくて旅がしたかったんだね。」

その言葉を聞いて、いいとか悪いとかではなく、彼女が本当の自分を理解したことがわかった。複雑な気持ちになったが、「わかる」ということで、夫婦としての関係性が一歩先に進んだ。

ホテルの近くのレストランに行って食事をした。パスタとサラダとピザをオーダーした。口数は少なかったものの胃が満たされることで少し落ち着いて来た。そして明日の予定を話した。

「予定どおりモンシェラートに行こう。」

モンシェラート行きは、珍しく彼女の希望だった。滞在日数が少ないのとホテルが決まっていないことを知っていた自分はバルセロナ市内で時間を使う方がいいと思っていた。モンシェラートはバルセロナから北西へ50㎞離れたところに位置し、カタルーニャ鉄道で約1時間ちょっとかかる。さらにロープウェイで、山の中腹まで10分かけて登っていく。何だかんだ移動と滞在込みで1日は使うのは見えていた。出発前の自宅でどこへ行きたい?と渡した地球の歩き方で、彼女はモンシェラートのページを開いて見せた。何の根拠もなく直観だった。直観は五感や理性よりも重要な判断材料になる。特に旅においてはなおさらそうだった。下調べもほとんどしなかったがそこに2日目に行くことは決めていた。

そして宿泊先をバルセロナ市内にすることを諦めた。バルセロナの郊外、もしくはモンシェラート付近で見つけることにした。範囲を広げれば何とかなるよと彼女に声をかけた。彼女は今日の動きでいよいよ野宿かと気をもんでいた。駅のベンチで寝ることを想像していた。

バルセロナ郊外はより情報が少なくなり、交通の便も本数が少なくなる。出たとこ勝負で何ができるか?

そうなる予定ではなかったが、彼女はいよいよ本格的に旅行から旅の奔流に乗ってきた。彼女は自分と夫婦になることの意味を少しずつ気がつき始めていた。自分だけなら選ばない道を歩いている。見たことがない風景、したことがない体験が彼女の人生に起こっていた。受け容れる、身を任せる、他力本願の流れがどういうことなのかを噛みしめていた。

ただモンシェラートには彼女の意思があった。彼女がコミットしようとしている何かがある。これは自分が彼女を知る冒険でもあった。

モンシェラートには「黒いマリア」がいた。


【鏡 ―reflection―】〈22〉

2016-10-19 09:30:54 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
グエル公園はガウディが1900年に着手し、1914年に完成した住宅地。1984年にはユネスコの世界遺産としても登録されている。そもそも住宅地造成目的で計画されていたが、売り出す予定だった60戸は結局3戸しか売れなかった。その3戸ですらも一つはグエルの名前があるように、ガウディのスポンサーであり最大の理解者だったグエル自身が買い取り、もう一つはガウディ自身が住宅として居を構えた。つまり関係者以外では1件しか売れなかったことになる。計画やコンセプトとしては大失敗だった。1918年にグエルが他界するとその4年後、遺産として相続したグエル家は公園としてバルセロナの市民に開放し今日に至る。

そのグエル公園だが、モデルニスモ絶頂期で、ガウディもまた建築士としてアーティストとして充実期でもあったため、その完成度は出色(しゅっしょく)だった。そしてまた建築方法・工程も含めて斬新だった。自然から学び、調和を重んじて造られたこの住宅地は、環境に配慮され、廃材や壊れたタイル、道路工事のために使われた石を再活用して造られていた。まさにエコロジーでエコノミー、21世紀の今日に通じる建築コンセプトである。つまり100年早すぎた。バルセロナの市民はその時代に100年先の未来を日常見ていて、それが身近にあった。グエル公園は、住宅地という実際的な機能よりも公園にすることで人が生きていくうえで大切な想像性を刺激し触発してきた。カタルーニャ出身のアーティストはピカソ、ミロ、ダリを始めとしてあまたいる。その由はこのようなインスピレーションの源泉が此処彼処にあるからということもあるだろう。ピカソはガウディに反発していたが、単に好き嫌いではなく、ガウディが提示した未来に、自身のイマジネーションを侵されたくなかったからではないかというそんな仮説や妄想が湧き上がった。日常の中にアートがある。バルセロナを見ると、経済性よりも、芸術性ひいては人間性の可能性の追求こそが本来の投資であることを示す一つのモデルになっている。アートが人財を創る。他方でその答えを得るには100年時間がかかるという一つの事例にもなっている。サグラダ・ファミリアもまた完成まで144年という時を費やす。人を育てる、魂を進化させるとは、かように時間がかかるものなのだ。スピード重視、効率化、いかに短期間で利益を上げていくか、その訴求が時代を進化させてきた側面もあるが、真価得るには時間がかかる。宅地造成、不動産投機としては大失敗だったグエル公園は、人間形成・観光資源としては計り知れない益をもたらした。そして特筆すべきはこれからもその価値や益は膨らんでいくということだ。そう考えるとこの公園の新しい価値を自生的に生み出すこのメカニズムは、今日の私たちも大いに学び吸収すべきと思われる。

そしてそのバルセロナの磁場に惹きつけられるように人は集まり、そこで何かを表現しようとした。今向かっている“コリントス”の日本人の支配人もその一人かもしれなかった。

地下鉄3号線でレセップス駅に向かう。もう18:00を回っていた。この時間でもまだ外は明るかったが、その日のホテル探しはこれが最後になる。なんとかここで決めたかった。駅から地図と道路標示をたよりに15分ほどでなんとかコリントスにたどり着いた。その前を気づかないうちに1、2回往復していたようだった。それも無理はなく、ホテルらしい看板は見当たらず、いわゆるバルセロナの地元の方が住むような3階建てのマンションだった。建物は石造りで構えもよく、雰囲気も悪くはない。呼び鈴を押すと初老の髭を生やした支配人が下りて来て下さった。

「先ほど連絡したものです。部屋は空いていますか?」と聞くと、「空いています」とのことだった。日本語での会話だ。
ただ残念ながらやや広めのその庭はかなり荒れていた。かつては生きていた植物たちが元気がなさそうだった。泊まる手続きの前に、部屋を見せて下さいとお願いした。支配人は私たちを連れて案内して下さった。その庭を通り過ぎ、中に入るとキッチンが見えた。雑然としてこれもきれいとは言い難かった。部屋はまずシングルの部屋を案内されたが、青く塗られたその部屋にはいい気の流れを感じられなかった。ツインの部屋もあり、それを準備するとのことだったが、今は別のゲストが長らく使用しており、そのお客様に部屋を移動してもらうとのことだった。頭に?マークが無数に溢れた。ホームページで見たテラスにも連れて行ってもらったが、美しいのは景観で、足元は手入れや清掃の跡が見られなかった。

ゲストを迎える態勢がそこにはなかった。またこれからお世話になろうとするその部屋に、誰かが直前までいたというのも気になった。妄想でしかないが、バックパッカーは旅の途中、目的を見失い、移動から移動の旅そのものに没入していくことがある。これを沢木耕太郎氏の代表作「深夜特急」には“沈没”という言葉で表現されていた。宿も宿泊者もまたその存在と目的を共有していた。重力がここだけが重くかかっていた。それは私たちの存在や目的とは違うというメッセージを際立たせた。そういう訳で、予算も希望通り、部屋が空いているにもかかわらず、コリントスに宿泊するという選択肢を自ら断った。そしてそれは、プランDをなくし、“No plan,No room”になったことも意味していた。

コリントスの支配人、またそこに宿泊していたバックパッカー、彼らもまたバルセロナに何かを感じ、触発されてここに集った人たち。そしてそこで生活し、生計の糧を得ている。恐らく、もし自分が一人だったら、20代のころだったら、そこに喜びを見出していたかもしれなかった。想いに沿って海外で宿を経営している事実に感銘していただろう。そしてそのバックパッカーもまた仮に本当に沈没していたとしても日々を生きるその姿にかっこいいと思っていたかもしれなかった。さらにはその姿は自分と重なった。

コリントスにはかつての自分が映っていた。しかし今の自分はそれを選ばなかった。彼女を守るというのもあったが、それよりそこが今の自分の居場所ではないと思ったからだった。

次の鏡が必要だった。私たち二人が映っている「今」の鏡を求めていた。





【プランD ―ace in the hole―】〈21〉

2016-10-16 09:46:22 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
こんな状況ではお金のことに目を瞑るのは当たり前。
それどころか空いてない。オプションがない。
ということで已むお得ない。

プランDを出すことにした。それはとある日本人経営のバックパッカー宿だった。
ゲストハウス系、ユースホステル系も日本にいた時から探していた。理由としては安いというのもあったが、ゲストハウスならではの体験というものがあるからだった。確かに二人部屋でないことが多いし、一部屋に4つベッドがあるドミトリー式で相部屋になることがほとんど。プライヴァシーに関してはあまりない。

ただそこで得られる出会い、交流、情報は活きている。もう二度と会うことはない彼らが無形にもかかわらず、確かな存在として質感をもって自分のどこかで活きている。覚えていたいという意思、忘れたくないという想いを持たなくても自然と残っている。いい記憶だけでなくいやな思い出もまた人生に帰納する。それはゲストハウスを含む旅全体を含めてのことなのだが、一晩を過ごし朝食を取るという日と日をつなぐ「場」というのは大事だったりするのだ。

今回の旅の目標の一つに、彼女に出会いと交流を味わう体験をしてもらうというのがあった。そういう経緯もあり、前向きに安宿・ゲストハウスの線でも探していた。ただ1日を前にしたこの状況では、ゲストハウスのドミトリーさえも一人が1万円ほどで、満杯な有様だった。地球の歩き方に掲載されているゲストハウスもまた同様に満室で八方塞がりだった。

そんなゲストハウス探しの中で、1件だけここなら空いていて、結構面白いんじゃないかと思える宿があった。その名を“コリントス”と言った。なぜ空いているかと思ったかといえば、WEBでの著名な旅行・ホテル検索サイトには出てこない。つまりホテル探しをしている人の目からは除外されているのでその情報に辿りつけない。そして一般の検索サイトでも日本人が経営しているといこととと、HPの更新が止まっていることでよっぽどピンポイントで探している人でないと見つけずらい。検索用語で言うロングテイルの中でも「超」が二つ付くくらいなので、なかなかリーチできない。恐らく日本人が経営しているというのもあり、グローバルで見るとHIT数も限定的かつ局地的だった。
そして面白そうだと思った理由は、まずは立地で、グエル公園の近くだったこと。そして坂の中腹の住宅街にあるので屋上のテラスから地中海が望めること。そして日本人の方がいれば言葉の心配がいらないからだった。他方でWEBでの評判はいいものもあれば、あまり芳しくないものも散見された。いいか悪いか、それは賭けだった。パートナーのいる旅行としては、あまり賭けはしたくなかったこともあり、自分の候補からは消えかかっていた。プランDは特殊なシチュエーションがゆえの選択肢だった。

バルセロナ市内で心当たりを探しつくした旅行会社の方に、コリントスに連絡入れてもらうようお願いした。その名前を見て、こんなところがあるのかと若干驚いていた旅行会社の方も半ばダメ元の境地で電話をして下さった。すると、部屋が空いていた。しかもツインの部屋で€70(7,500円)だった。ただ旅行会社とコリントスの支配人のスペイン語によるやり取りを見ていると、当初は空いている事実に対する驚きはあったものの、後半は表情が曇りがちになっていた。そして電話を切ると、私たちにこう言った。
「部屋は空いています。ツインで€70です。ただおそらくこちらは市の未認可の私営の宿なので、こちらからの予約はできません。」

その時二つの考えが頭をよぎった。一つは、既定・既存の外まで視野を広げれば活路はあるという考え。もう一つ気になったのは、あの旅行会社の方の曇った表情だった。その眉間には「これは危ない」ということを物語っていた。

そうはいってももう明日のこと。とにかくそこへ行ってみることにした。あとは二人の目で確かめるしかなかった。旅行会社の方は、お金にならない困っている旅行者に30分ほど誠意ある接客して下さった。別れ際その美しい旅行会社の方は、くれぐれもお気をつけて、よいご旅行をと見送って下さった。その言い回しと誠意があった接客姿勢が、次のコリントスへ向かう自分の心にひっかかっていた。

選択肢はないが、安易に決めるのはよそう。そう思った。
そして二人は再び地下鉄に乗り、グエル公園方面へ向かった。



【振り子 ―pendulum―】〈20〉

2016-10-14 10:32:35 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
サグラダ・ファミリアにいた時間は正味2時間ぐらい。並んでいたり、おみやげものを物色したりも含めてだから、堪能まではいかないが、程よい滞在時間だった。棟の上までも行けなかったし、予習不足でガウディの眠っている地下礼拝堂もロザリオの間がどこかもよくわからなかった。そしてガウディコードと呼ばれる、クロスワードパズルのような数字のマジックスクエアーもまだ響いてこなかった。それでもファーストインパクトとしては十二分、いい意味でたくさんの余白を残した。

そして次に進まなくてはいけなかった。

昼はガウディ通りのカフェテラスでサンドイッチとパスタを食べた。陽よけのパラソルの下で、通りすがるバルセロナの人たちや旅行者、カフェで働く人たちを眺めながらのランチタイム。サグラダ・ファミリアを視界に入れながらラテを味わう。こんな贅沢は夢のようでもあった。お会計の時、El compte , si us plau.〈エル コンタ シイ ウス プラウ〉と言ってみた。これは「お勘定をお願いします。」のカタルーニャ語で地元の言葉。この東洋人は何を言ってるのかなと首を傾げていたボーイさんだったが、2回、3回繰り返して言うと、表情が緩み笑顔になった。そして正しい発音のEl compte , si us plau.をゆっくり言ってくれた。ボーイさんは去り際に、グラシアスにつづいて何か言葉をつづけて見送ってくれたが何を言ったかはわからなかった。でもそれはカタルーニャに歩み寄ってくれてありがとうというような感じだったと思う。一瞬のことの中に、異国を超える通い合いがあった。

そして午後は30日の宿探し。
どんなに感動に酔いしれても現状は変わらない。
時計はもう2時を指していた。

自分ではホテルのプラン探しのイメージが3つあった。
一つはネットでホテル探しをしていたとき気になっていたホテルがあった。HOSTAL OLIVA、このホテルは20世紀前半のエレベーターがあり、ヨーロッパというか、バルセロナに来ているという感じが味わえると思えたからだった。一度メールを出して、満室で断られていた経緯はあったが、現地で本当にダメなのかを確認したかった。
二つ目は、地球の歩き方に載っていた日本語観光案内所に相談するというもの。日本語で情報が得られるのは大きい。三つ目は現地の日本の旅行会社を訪ねるというもの。ここまで来た以上はある程度の予算は覚悟してでも決める必要性に迫られていた。もう一つ選択肢があったが、予算を目を瞑れば、そのカードは切らなくて済むだろうと思っていた。今までの経験則上もなんとかなるという思いもあった。
そうはいっても明日のこと、勝負どころは午後の動き、ちょっとしたスリルものだった。彼女もまたどこかで不安を感じていて、時の経過とともにそれは大きくなっていった。新婚旅行から徐々に旅に変わっていった。

ホテル探しも彼女に楽しめるように考えた。そもそもバルセロナは街並みが美しく、歩くだけで新鮮だった。サグラダ・ファミリアから地下鉄の5号線に乗り、二駅でディアゴナルという駅に着く。その駅を出るとグラシア通りにぶつかり、それを南下するとカタルーニャ広場まで行ける。このグラシア通りは有名なショッピングエリアで、道中にはガウディの建築物、「カサミラ」「カサバトリョ」もある。HOSTAL OLIVAはカタルーニャ広場の手前あたりにあるはずだった。

できるだけ時間は有効に使いたいし、せっかくバルセロナにいるのだからその街並みや風を味わいたかった。彼女にも退屈することなくホテルが決まればこれにこしたことはないと思っていた。楽しめる、そう思っていた。

ただ自分はもう気はそぞろで気が気でなかった。タイムリミットはカウントダウンだった。世界遺産、ガウディの名作にして傑作の「カサミラ」も「カサバトリョ」も感動できなくなっていた。そして笑顔も引きつり始めてきた。決まらない宿探しは初めてではなかったが、それは一人の時で、今は相方、パートナーがいる。アウェイの中でも見通しはつけたかった。

そんな中で一つ気づいたことがあった、というか目についたものがあった。それは赤と白の模様が入ったサッカーのユニフォームだった。サグラダ・ファミリアあたりでもいくつか目に入ったが、グラシア通りをカタルーニャ広場に近づく程に目に入る回数が増えていった。感動の後の不安は振り幅が大きく、そのもやもやした焦りはガウディの作品をもってしても払拭されなかった。それでも逐一その赤と白の縦縞は目に飛び込んできた。

第一のプラン、HOSTAL OLIVAに到着。何人かの人に道を聞いて、やっとたどり着く。ご縁と運命を求めて呼び鈴を押すも、“No room.”のメッセージ。あっけなく撃沈。

さらに第二のプラン日本語観光案内所に向かうも、ガイドブックに載っていたその場所にはなくなっていた。空振り。ボクシングで一番スタミナをとられるのがこの空振りらしいが、自分が放った一撃は見事に空振った。

いよいよ持ち札がなくなり最早頼りは日本の旅行会社のみ。またグラシア通りに歩いて戻ると時計は17:00を指していた。幸い5月末から6月はバルセロナの最も日照時間が長くまだ明るかった。旅行会社を見つけると日本人のスタッフの方が出迎えて下さった。日本語が新鮮で懐かしくもあった。彼女もまたそう感じていたようで、表情が少し明るくなった。

スタッフの方に要件と事情を話した。対応された方は、ショートカットの女性で、品があって美しい方だった。それでいて彼女の対応の随所にビジネスの修羅場、海外での難事を収めてきた強さを感じさせた。

「30日のホテルを探しています。全然見つからなくって・・」
するとスタッフの方はその理由を教えてくれた。

「この日はバルサとビルバオの国王杯の決勝があるんです。」

バルサとは世界のフットボールクラブの中でも世界最大級のFCバルセロナのことを言い、ビルバオとはアスレチック・クルブを指し、スペイン北部にあるバスク州のサッカーチームのことだった。国王杯とはコパ・デル・レイといい、1903年より始まったスペイン国王杯という伝統あるカップ戦だった。スペインリーグと言われるリーガ・エスパニョーラよりも歴史があり、リーグ戦ができる前は最も権威あるタイトルだった。優勝チームにはスーペルコパ・デ・エスパニョール(スペイン最強決定戦)の出場権やUEFAヨーロッパリーグの出場権が与えられる。

その時は、国王杯のこともビルバオのこともよくわかっていなかったが、その事情がサッカーであると知ったとき全てが腑に落ちた。ビルバオのサポーターが一挙にバルセロナに集結し、ホームでリーグを制していたバルサは受けて立つというシチュエーション。カタルーニャ県方々からも熱心なファンがカンプ・ノウスタジアムに集まってきていた。

スペインにとってのサッカーとは、健全に民族の優位性を示すことができる一大事といっても過言ではない。特にこの国王杯は名前に象徴されているが、スペイン国王を冠としている。スペイン内戦後のフランコ独裁政権の時もこのカップ戦は行われていた。当時のスペイン王は、イタリアに亡命していたにもかかわらずその名を守り開催されていた。

20世紀のスペイン史とフットボールは、その時のスペインの方たちを知るためには不可欠な要素で、聖域とも言えた。歴史の変遷の中で唯一超越的に民族のアイデンティティを表現できた。先のオリンピックもそうだがスポーツは国家、民族、宗教を超えられる領域で人間性の共通言語であり、フィジカルな魂の発露でもある。その一大イベントが明日ここバルセロナで催される。

なるほどあのサッカーのユニフォームはバルサの対戦相手のものだったのか・・・・。

それはわかったし、腑にも落ちたがそのことでより現実が明らかになった。絶望の二文字がちらつき始めた。スタッフの方々は心当たりに電話をかけて問い合わせてくれたが、それらはこちらでも確認済みのところばかりで、コネクションと直接交渉にあたる一縷の望みを除けば、答えは予想できた。

― ない ―

そんな時にはこう思うようにしている。

人生とはそんなものだと。
そしてこれからが本番なのだと。

振り子は希望と絶望を行ったり来たりするもの。確かに絶望の先には希望がある。
ただここではまだ絶望に振り切れていなかった。


【背景 ―reason―】〈19〉

2016-10-10 09:03:47 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
また素潜りのように深く潜っていく。深く、深く。

そう時は、1870年代、時代は混沌しており、華やかでもあり、物騒でもあった。
当時のバルセロナ(カタルーニャ)は独立こそしていなかったが、スペイン(カスティリーヤ)と対立していた時より経済的には豊かになっていた。
貿易、繊維業が盛んなバルセロナは、スペインと対立時はできなかった大西洋・アメリカ大陸への進出も可能になり、既存の地中海路線に加えてより規模は大きくなった。自由貿易ができるようになっていて資本家の経済は豊かに回っていた。
地中海、大西洋とバルセロナは輸出入の拠点となりバルセロナは経済的な力を蓄え始めていた。
折しも18世紀末、イギリスに端を発した産業革命はヨーロッパ各地に広がり、
農業から産業、工業化をすすめていき、働き方は変化し、工場での労働が増えた。
資本家―労働者。雇うもの―雇われるものの間で大きな格差ができた。

機械化が進み、より生産性の価値が重視され、長時間の労働を低賃金での雇用がざらに見られた。労働者を守る法律もなく、資本家に言われるがままの雇用だった。
科学や機械の影響が大きくなり、神より人間の力を信じる無神論的考えも広がり、キリスト教をベースとした宗教性は希薄になりつつあった。
格差は今までと違う貧困と価値観を生み社会は混乱し始めていた。

ダーウィンの種の起源、マルクスの資本論、共産主義の考えが流布し一つのうねりとなった。中には、資本家の打倒と労働者の解放を目指して、手段を択ばず、暴力や戦いを厭わないアナーキスト無政府主義者も頭角を現していた。

他方で資本家が豊かになったことで、建築、芸術、文化の面ではモデルニスモが見事に花開き、後世に誇れる作品群や芸術家たちを輩出した。

その影としての流れ、「闇」の力が水面下で蠢いていた。いや「闇」ではなく、ただ未成熟が故の熱さを伴う混沌だったのかもしれない。ただ仮にそれが未成熟であったとしても、その時の闇は今日まで引きずっているのも確かだ。

だからこそ、その時代を見つめることは重要で、その混沌の中でその時代の人がどうやって拠り所を見出していったのか。どこに光を感じていたのか。この19世紀の世紀末に顕在化した「闇」に戻ることで、悪しき水脈を断つヒントが隠されている。

実はサグラダ・ファミリアはその当時の拠り所であり、小さな光だった。もちろん建築以前であり、形になっていない。だからある意味「夢」であり、「VISION」とも言えた。
アントニ・ガウディ作と知られているサグラダ・ファミリアだが、実は彼は2代目の建築士でガウディからスタートしたわけではない。そこには時代の背景とプロデューサーと初代の建築士がいた。

その時代の背景とは先に述べた混沌であり、世界が大戦に動いていた流れである。そんな時、ある書店経営者の方が立ち上がる。彼はボカベーリャといい、当時の無神論や破壊的な思想を憂い「聖ヨセフ帰依教会」なる市民団体を作る。するとその会員数は当時の不安定な世相を反映し、10年で50万人の会員数を集めた。混乱の中多くの市民が心の奥底で拠り所や信仰を求めていた。サグラダ・ファミリアはその協会の祈る場としての教会だった。

ボカベーリャは教会の理念として、社会の最小単位である「家族」に焦点をあてた。当時の混沌とした社会情勢の中で立ち返る地点として、「家族」の在り方や関係性こそが、複雑で足元をすくう時代の潮流を原点回帰させ、かつあるべき方向に向かわせる力を持っていると考えていた。

人間性や個性、アイデンティティーは「個」とみられる向きがあるが、その環境や関係性、役割によって大きく影響されていく。自分自身の真の平安や安定は、自分を含めた環境も満たされて初めて実現する。その環境の範囲を「家族」に位置付けたのが「聖ヨセフ帰依教会」の視座でサグラダ・ファミリアの理念に繋がっていった。日本語に置き換えると、サグラダ・ファミリアは「聖家族贖罪教会」、その名前に理念が刻まれている。「家」「家族」がコンセプトで御本尊、イエス、マリアそしてヨセフも包括して「家族」が奉られている。

教会に足を運ぶとわかるが、一般的にはイエスやマリアの像が祭壇の中央に祀られているもの。一方サグラダ・ファミリアは趣が異なり、特にイエスの養父ヨセフがフューチャーされている。世界に星の数ほどの教会が溢れているが、こんなにもヨセフが重宝されている教会は少ない。

ヨセフは処女懐胎したマリアの人生を守り、神の子イエスの成長を支えた。
当時イスラエルを支配していたヘロデ王は、世界の王様として誕生したイエスを殺害するために、同時期に生まれた子供たちを殺戮する暴挙を起こした。その話を聞くと、家族でエジプトまで逃亡した。その逃避行を守ってきたのが養父ヨセフでもあった。
成長したイエスのその後の活躍や奇跡の数々は枚挙に暇がないが、サグラダ・ファミリアは、イエスの奇跡たちを支えたこのヨセフの献身的な家族のへの想いの象徴とも言えた。サグラダ・ファミリアはお父さんの無償の愛が表現されている教会だった。

1882年聖ヨセフの日である3月19日、最初の石が置かれ、サグラダ・ファミリアの建設は始まった。

「闇」を光にかえるコードは、「家族」という単位が鍵を握っている。

当時だけではなく、今も。

個人というアイデンティティーは家族の中で育まれ形成される。その在り方、関係性の中に悪しき水脈を断ち、新しい流れを生み出すヒントがある。

そして今ここサグラダ・ファミリアにいる。そのときは何もわかっていなかったが。その光や想いの中を浴していた。
それは言葉でも意味でもなく、無意識で肌や皮膚を通して吸収されていった。

ここにいる意味はわからなかったが、ここにいることが正しいと思えた。
ステンドグラスの七つの色が日の光を通して万華鏡のように注ぎ、教会内を包んでいた。

満たされ、満ち溢れた。


【驚駭(きょうがい) ーSagrada Familiaー】〈18〉

2016-10-06 07:58:35 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
サンパウ病院の正門を振り返ると1本の通りが伸びている。
その通りの名をガウディ通りという。
その向かう先には巨大な要塞がそびえ立っているのが視界に飛び込んできた。
400mも先にあるにもかかわらず、その大きさに興奮している自分がいた。

「でかい!」

間違いない、あれがサグラダ・ファミリアだ。人が造った建造物でこんなにショックを受けたのは40数年の人生で初めてだった。

でかい!そして美しい!

写真ではなく実物を目の当たりにし、その400mの距離を凌駕するインパクトがあった。今からそこに向かおうとしている。そしてその内部にも入ろうとしている。童心がざわめき、少年の自分が踊りだした。とんでもなく、凄いものを体験しようとしている。DNAまでもが異常な反応を示していた。
そんな時、冷静な直感が頭をよぎった。この大きさのこの感覚は、どこかで見たことがある。そんなはずある訳ないのに、デジャヴかはたまた勘違いか?しかしサグラダ・ファミリアはこの直感など消し去るぐらいのスケールの大きさだった。ガウディ通りを歩む足どりは軽く、早歩きになった。そして近づくに比例してその重厚な存在感はより大きくなって行った。

サグラダ・ファミリアには3つのファサードがある。ファサードとは、建物を構成する主な3つの側面のこと。「生誕」「受難」「栄光」を冠においたファサードがある。「栄光」のファサードはまさに絶賛建築中で、その全容は明らかになっていないが、「生誕」と「受難」のファサードは完成している。各ファサードには4塔ずつ、12使徒の鐘楼が天空に向かって屹立する。完成時には、さらに高い4つの「福音者の塔」、「聖母マリアの塔」、そして高さ170mに及ぶ「イエスの塔」がバルセロナの街に聳え立つ。サンパウ病院から見えるのは、生誕のファサード。これはアントニ・ガウディが生前に完成させた唯一のファサードでイエスの誕生の喜びを表したもの。400m先で、そのディテールは見えないものの、その存在感、またそのメッセージの大きさはオーラを伴って街全体を包み込んでいた。東京タワーやスカイツリーより高くはないが、それは建築物というよりむしろ魂が宿った生命体だった。がゆえに五感を超えて魂に響いた。

サグラダ・ファミリアの磁場に吸い込まれるように、その周りには観光旅行者で溢れかえっていた。生誕のファサードは近くに行くと、その詳細が見えてきて、今度は思考が停止し始めた。あまりにもの大きさと繊細さに、もう脳はオーバーヒート気味だった。その門が全て聖書の物語で形成されているのがわかったのは帰国後、サグラダ・ファミリアの映画を観たり、色んな資料を読んだあとだった。ただただその石に刻まれた彫刻一つ一つの集合体に圧倒されていた。
その日は平日の午前中の10:00過ぎにもかかわらず入館チケットを買うのに30分待った。受難ファサードから工事中の栄光のファザードを囲む感じで行列のラインはできていた。日差しが少々厳しくなっていた。
塔の上まで上がるチケットもあったが、それを待つと15:00になるということで今回は諦めることにした。午後のホテル探し次第では、また戻ってきてもいいと思っていた。

受難のファサードから中に入ると、そこは巨大な教会だった。建物の全容からは、そこが教会であるとは推し量りかねられたが、中はパイプオルガンがあり、祭壇があり、訪問者が祈る椅子がたくさん並べられていた。壁面には大きなステンドグラスがいくつも並んでおり、外光が七色に変換されて優しく館内に注がれていた。建物を支える柱は直線ではなく曲線で建物を支えていた。幾何学的な緻密・綿密な構造計算なしにこの巨大な教会の建築が不可能なのは明らかだった。建築美、様式美、構造美が3身一体となって、全てが支え合い、補い合い、調和し合いし、完全性が実現化されていた。荘厳で、圧倒された。気持ちが純化されて行った。クリスチャンでないにも関わらず、祈りを捧げた。

「生きとし生けるもの、全てのものに感謝します。森羅万象全てのものに感謝します」

そして、すったもんだありながらこの空間に彼女と二人で辿り着けたことに心から感謝した。
ここはある意味ゴールでもあった。
世田谷のソウルBAR、BABY BABY BABYでかわした、スペインに行きたいというたわいもない会話が成就した。
自分の中での約束は果たされた。

彼女はステンドグラスやまたそこから注がれる光に満たされていた。そしてたくさん写真を撮っていた。
おそらく、自分がスペインに行きたいと言ったことは忘れている。過去の想いは過去で、今の想いは今感じていることが全て。新しい彼女が、今のサグラダ・ファミリアを堪能している。それが大事なことだと思った。

なぜバルセロナだったのか?なぜカタルーニャだったのか?なぜサグラダ・ファミリアだったのか?

その答え合わせは、日本に帰ってから。答え合わせというよりも、答えを見いだすことが今後の自分の人生で必要なことでもあった。

その答えの一つは、サグラダ・ファミリアの時代にあった。

【サンパウの朝 ーa morningー】〈17〉

2016-10-04 23:52:23 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
いつもと違う朝の気配で目が覚めた。普段ならまどろみを堪能し、なかなか起きれないのが日常のはずだが、旅の非日常は両瞼をぱっちりと開かせた。朝の6:30だった。

身体は軽くなっていた。バルセロナは東京より重力がかかっていない感じがした。
彼女はぐっすり眠っている。静かにカーテンを開け窓を開いた。すると・・・・
世界遺産のサンパウ病院が目の前に広がった。朝焼けで、赤いレンガが優しく光っていた。どこかから鳥のさえずりが聞こえた。一瞬でバルセロナ感に包まれた。夢ではない、間違いなくスペインにいる。予約をするとき、部屋によっては、サンパウ病院が見えるというのはわかっていた。彼女にその部屋を準備したかったが、いかんせん予算のこともあり、どの部屋があたるかは時の運だった。希望していた部屋で、心底嬉しかった。彼女のためとはいいつつ、自分が一等喜んでいた。朝から感動していた。その光景は一気にスイッチを入れた。

部屋を一人で出て、ホテルの周りを散策した。東京はこれからが梅雨だという時だったが、バルセロナは地中海性気候で空気はほどよく乾き天気がよかった。石畳の歩道をNBの茶色のスニーカーで歩いた。バルセロナの朝だ。金曜日、早めの通勤をしている人の姿があった。幾つか開いている雑貨屋やカフェがあった。アジアの旅行者が早朝街を歩いている。おのぼりさんよろしく、しばらく、首を動かし、目をきょろきょろさせて歩いていたが、10分もすると、地に足がつき街に溶け込んだ。街の風景になっている自分がいた。

朝はホテルで簡単な食事が用意される。朝食はホテルでと思っていたがカフェに目が止まった。どうやら朝メニューがあるらしい。店頭の看板やメニューの写真を見ていると、友達同士の2人の少年に声をかけられた。一瞬警戒心が走ったが、朝の清々しい空気が固い閉ざそうとする心をほどいた。どうやら「ここで朝食食べたいんだろ、これこれも食べれるからお店に入ってみなよ。」といってるようだった(多分)。押し売りでも物売りでもなさそうだったから、「朝食はホテルで食べるんだ。また夜にでも来てみるよ。」と返してみた。英語とカタルーニャ語のたわいもない会話。心のふれあい通い合い。そんな瞬間が豊かさを膨らませた。海外ならではの体験。初日のスタートは気持ちよく始まった。

部屋に帰ってシャワーを浴びると、彼女が起きてきた。そして窓の外の朝のサンパウ病院を見て、すごく喜んでくれた。付き合って5年、籍を入れて半年経ってわかったことがある。出会った頃は、前向きで、革新的で、想いがたくさんあるそんな印象だったが、実際は違った。慎重で、保守的、やりたいことよりもやりたくないことが先に出てくる。食べたいものははっきりしなくても、食べたくないものははっきりしていた。行きたい所よりも、行きたくない所は意志が前に出た。コミットするより流れに任せる。勿論それが悪いとか、合わないと言っている訳ではない。そういう彼女を選び、愛しく想い、助けられている自分がいる。それは間違いない。そんな彼女とうまく折り合わせるには独特のコツがあった。それは、そんな彼女が行きたいと思える所を探し、食べたらおいしいと思ってもらえることに、自分がどれだけ喜びを発見できるかということ。彼女が喜ぶ、その指標は相当よい、ーvery good!ーということになる。彼女の相当よいを集めると、質の高い新しい価値を作れるのではないかと密かに思っていた。いや今も想い続けている。

ホテルから眺めた、サンパウ病院の風景は、彼女にとっても相当よかった。朝の少年との交流同等に、とても嬉しい瞬間だった。

朝食はビュッフェだった。ホテルのロビーの奥にカフェと宿泊者の朝食が準備されている広間があった。実はこのホテルの楽しみの一つは、本棚のあるカフェだった。そのカフェの中を通って広間に行くのだが、あの本棚がなかった。正確にはなかった訳ではなく、そこには本棚と本を描いた壁紙が貼られていた。壁紙を写真で本物だと勘違いした訳だった。そこに物語は繋がらなかったがともかく、このホテルに導く条件としては大きな役割を果たした訳で、事実よりも大切な真実を大事にしようと思った。
「この本棚壁紙だったね。」そういって、二人で笑った。

朝食はビュッフェで、学生食堂のような感じだった。好きなパン、トースト、クロワッサン、コーンフレーク、卵、ソーセージ、チーズ、サラダなど自分で好きなものを、自分の望む分量だけとって行く。コーヒー、紅茶、フレッシュジュース、簡単なデザートも並んでていて、朝食には申し分なかった。携帯で写真などを撮ったりして、食しつつ、本日予定を打ち合わせする。
大まかな流れは、
徒歩圏内の、サンパウ病院とサグラダ・ファミリアを午前中に。
午後は、翌日のホテル探しをスペイン広場周辺で。
その後はグエル公園に行く。
基本移動は徒歩と回数券がある地下鉄で。

実質の滞在日数は丸3日と半日。
午前中のサグラダ・ファミリア訪問は、メインディシュは最後にとっておく二人の選択としては異例だった。時間はこの旅の何よりの資源だった。その貴重な資源を午後のホテル探しに充てるのは勿体ない話だったが、今回の旅を実現する上では覚悟はしていた。ただそうはいっても現地につき実際探す現実を目の当たりにすると神経は引き締まった。だからこそ午前中二人の目的地に行き、満たされてからそのハードルに向かいたかった。

朝食後第一の目的地サンパウ病院に向かった。この病院はモデルニスモ時代の建築家の巨匠モンタネールにっよって1902年から建築され、1930年に息子の手によって完成された建造物。「芸術には人を癒す力がある」との理念のもと、建築の伝統を土台として発祥した個性的建築様式で建造された病院。その規模14万5000平米、48の建物で構成されている。ホテルの窓から見えたドーム上のレンガ屋根はその48の建物の一つだった。サンパウ病院に行くというより、サンパウ病院の囲う塀に添って歩いて、正面に辿り着くという行程で実際はサンパウ病院にいたことになる。途中の商店やスーパーを何件か寄り道して物色する。数百メートルも歩けば正面の門に着いた。病院というより、美術館や教会を想起させる建物はまさに病院という存在を超えていた。病院という役割・使命・機能を考慮すれば、こんなにも時間やお金や人材を投下し建築する必要性はない。しかしそこに理念を持ち、意味を与え、価値に昇華させるところに芸術の力がある。その背後にある献身性、宗教性は、人が事物を超えて魂の存在であることを証明している。その具現化したカタチが目の前にある。消化しようにもしきれない大きさを、私達二人は観光旅行者然として写真など撮る。
うきうきしてるので地から足が浮かんでいる。この時は、世界遺産との認識があるだけで、モンタネールの理念もモデルニスモのこともよくわかっていなかった。それだけに初めに来たこの場所は、いかにもツーリスト(観光旅行者)としての訪問だった。そしてこの時が一番ハネムーンらしい時間だった。そして天気も晴れやかで心地よい風が吹いていた。街路樹の緑も優しかった。



【宿 ―arrival―】」〈16〉

2016-10-04 01:05:57 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
イスタンブールーバルセロナ間を結ぶTK1856便は満席だった。飛行機も今まで乗ってきたものより小さめでぎっしりだった。それでいて日本人がいないものだから二人ぼっちの気がした。ただ二人は二人だから彼女の存在は心強く、また自分がなんとかしなくてはという程よい緊張があった。

機が離陸し水平飛行に入ると食事が運ばれた。行きのバスの中で食べたおにぎりを含めるとこれで本日4食目の食事となった。胃袋のメーターは満タンだったが、それでも食べるのはちょっとした貧乏性とすべての機会を逃したくないという貪欲さが自分のキャパシティーを超えさせた。やはり非日常なのだ。

食事を終えるとここからは具体的な到着後の流れを確認する。予定では23:15着だったが、0:00ちょうどになるとのアナウンスが流れた。

予算の都合上送迎は頼んでいない。機が遅れるということは公共交通機関に乗れない可能性を示唆した。空港と市内を結ぶスペイン鉄道/RENFE空港線はもうこの時間は走っていない。またタクシーは使うつもりもない。となると頼みの綱は深夜1:00まで走っている空色のAEROBUS/空港バスのみだった。そのバスでバルセロナの中心街・スペイン広場まで行き、そこからはホテルまでタクシーで行く。一人で荷物をとってからのイメージを想像していた。頭の中でバスバス・・・・とつぶやいていた。

そしてホテルに着いたら着いたでもう一山あった。そう、あの30日の宿泊の件だ。現地につけば何とかなるのプランAは宿泊先のアムレイサンパウのキャンセル待ちと交渉を現場ですることだった。ホテルとしてみれば連泊のお客様は歓迎のはず。であれば30、31日も予約することで何とか部屋を都合できないかという算段だった。夜はもう深夜に向かっていたがそこを通らないことにはホテルでの休息はありえなかった。

瞬間瞬間、意思判断を下して動く。脳内で行われている作業は日本にいるときと変わらないはずだったが、環境が変わると脳内のOSは自動的にアップデートされていた。集中力が高まった。フライトの時間は4時間余りだったが、今度は眠ってもいないのに早く時間が過ぎた。時の麻痺感覚はその長さや重さを測り兼ねていた。でもまあそれはそれでよかった。無事にホテルに辿り着けるのならば。

到着は時間が少しだけ遅れたことを除けば概(おおむ)ね順調だった。心配していた荷物の受取も彼女とベルトコンベアをにらめっこしすぐ発見できた。

さあここからが始まりだった。到着ロビーを出てすぐ、掲示板のBUSの3文字を探す。バスバスバス・・・。

比較的容易にバスのサインボードは見つかった。そして到着した人の流れを見ても、バスで市内に向かう人は多かった。その人の流れと看板の矢印を辿り、空港の外に出る。バス乗り場だ。チケットは券売機での購入。その列に並び、初めて€(ユーロ)を使う。一人5.9€(740円)。もの言わぬ券売機にも関わらず緊張する。後ろにも人が並んでいる訳で、迷っていると待たせることになる。本当にこの紙切れはチケットに変わるのか。ささいなことでもドキドキした。後ろからタバコの臭いがし、煙が複数流れた。イラっとしたが、ここはもうバルセロナ、受けた刺激を感情のまま反応するのは控えた。バスの券売機周りで喫煙することが常識なのか非常識なのかもわからない。不満も批判も土台となるできあがった価値観だけで判断するのはリスクが伴った。ホームではなく、アウェイであることを自覚する必要があった。観察とひと呼吸がこの地に馴染む上での知恵だった。そうこうしていると誰かに助けを求めるまでもなくなんとかチケットは買えた。後は並んで待つのみ。

空色のAEROBUSは空港とバルセロナ市内を結ぶリムジンバス。旅行者が利用するホテルがもっとも多い、スペイン広場、ランブラス通りに向かうこともあり、地元の人もいるのだろうが、海外からの旅人がほとんどだった。国籍も人種も多様だった。幸い座席に座ることができ、中央にある荷物置き場にも無事スペースを確保できた。バスの中での席の譲り合いや、荷物置きのスペースを旅行者同士でテトリスのように積み上げる様子が見られた。誰にも強制されない好意による秩序だった。見ていて気持ちよくもあり、さっきのタバコの煙のことはすっかり忘れてしまっていた。

市内に入ると夜とはいえヨーロッパの街並が見えた。街灯の明かりで照らされている建物や街路樹が、おとぎ話やファンタジーではなくリアルに目の前を通り過ぎて行った。ドキドキしていた。

バスを降りたらタクシーを見つけ、ホテルまで向かう。ボラれないように、騙されないようにしっかりしなくてはいけない。iPhoneでホテル【アムレイ・サンパウ】の住所を準備した。バルセロナに着いた喜びや興奮とともに冷静さと防衛心も同居していた。ほぼツアーでしか海外を旅したことのない彼女だったが、思いのほか落ちついてついて来てくれた。できるだけ次はこうするというのは伝えるよう心がけた。それは彼女のためでもあったが、時差や空間移動で混乱している自分の脳やマインドを落ち着かせる効果もあった。バスは30分程でスペイン広場に到着。停留所の目の前にタクシーが並んでいた。ここでも観察とひと呼吸。性格の良さそうな、騙さないような人を選ぶ。できれば少し英語が話せれば言うことなしだった。

I ‘d like to go Amrey San Pau HOTEL. Do you know this place?
(アムレイ・サンパウ ホテルに行きたいんだけど、この場所知ってる?)

そう聞いて、iPhoneの住所を見せた。すると知ってる、知ってると答えた。
スペイン語はわからなかったが、知ってるということは伝わった。ここまで来たらもうまな板の鯉、信頼して荷物をトランクに入れ、タクシーに乗り込んだ。車内では、

How long does it take to there?
(ホテルまでどれくらいかかりますか?)

と尋ねた。騙されないように予防線をはった。10minutes、運転手さんはそう答えた。その答えと直感で、この運転手さんを信頼した。本当に10分程でホテルに着いた。いい運転手さんだった。降りるとき少しチップを渡した。この運転手さんのおかげで今日の目的地まで無事到着できた感謝の心付けだった。そして名も知らぬこの方はこちらに来てから初めてお世話になったスペインの人になった。

ホテルに到着しロビーでチェックインをする。恰幅(かっぷく)のいい、40代の支配人が対応してくれた。英語が通じて助かった。予約番号を伝え、部屋の鍵をもらい、例のことを尋ねた。

Do you have room for the 30 and 31 night ?
(30日と31日、部屋は空いてますか?)st

その支配人は眼鏡に手を当て“No.”と答えた。

How about 31st?(31日はどう?)

We available for 31st.(31日ならご用意できます。)

ここもそうか・・・。なぜか30日は埋まってる。その理由が何であってもプランAは消えた。ここで30日が決まれば言うこと無しだったが、そうは問屋は卸さなかった。何事も全てうまく行くことなどない。旅とはそういうもの。

ともあれ、東京からバルセロナに到着しなんとか宿まで辿り着いた。ホテルは思いのほか広く、清潔で、シャワーの水圧も申し分なかった。それを彼女はいたく気に入りご機嫌はよかった。彼女はシャワー浴びてくるとバスルームに向かった。

荷物を解く前にPCを出した。 着替える前に物語を確認したかった。ベッドに身を預けると、身体のゼンマイはブリキのおもちゃのようにピタッと止まった。目が閉じられると、時間が巻き戻りをし始めた。44・43・42・41・40・・・・年のカウンターと時間のカウンタがーすごい勢いで逆回りし始めた。PCのスイッチがONになることはなかった。身体が動かなくなり、思考は停止していた。0ゼロに還ろうとしていた。

サンパウ病院近くのあるホテルの一室で、一人の日本人が泥のように眠っていた。
長い長い28日が終わった。