ホテル、アムレイ・サンパウの一室では粛粛と物語が編まれていた。前日同様長い一日を終え、まだホテルも決まっていないにもかかわらず、PCのキーボードを叩いていた。本当は旅の記録でも残したほうがいいようなものだが、旅と同じ位この物語を編む行為は大切だった。なぜなら想いをカタチにするということは、想いが先、カタチが後と考えがちだが、実は想いもカタチもエネルギーが加わると、時空を超えてしまい、どちらが先でも後でもなくなってしまうのだ。今回の旅は、通常の自分の意識レベルではとっくのとうに諦めている旅だった。差し押さえ決定時点でgive upだったはずだった。それが諦めきれない。どうしてもなんとかしたいという気持ちが湧く。それは、もう既に起こった未来が、お前が今何とかしないと体験したはずの未来の存在がなくなる。何とかしろ!ということなのだ。だからその帳尻や辻褄を何とかするために、カタチが想いに働きかける。様々な知恵、出会い、シンクロニシティ、メッセージがサポートとして現れてくる。自分が受けた恩恵や幸運は過去・未来を包含した自分の全人生という叡智と今の自分が繋がったときにギフトとして齎される。【三茶物語】はそのギフトを物語化することで、二人の出逢いを繋留(アンカリング)させたかった。なぜそうしたかと言えば、始まりを定義することで、より強固な関係性が築かれるからということ。そしてルーツが明らかになることで2人のアイデンティティが確立するからだった。「アイデンティティ」―「個」、「関係性」―「複数」という点から見れば、二人の関係性にアイデンティティを付与するというのは妙な感じがするが、これは二人の命の融合を意味する。それは融合の起点。新しい歴史の始まりで、二人の「古事記」の象徴だった。
ただ物語を「捧げ物」としての締め切りは過ぎていた。一文、一文字でも物語を進め、献上したかった。
献上することは、その当時の自分に力を与えることに繋がった。その力は確実に今の自分にも繋がっている。旅を乗り切るにはその力が必要だった。
【三茶物語】を継続できた理由は、―書く―という衝動があったことが大きい。またこんなに忍耐力のない自分が書き続けられた背景として、ブログという媒体を使って書いていたことがある。ごく少数ではあるが読んでくれる方がいた。彼らは内と外を繋ぎ留める重要な役割を果たしてくれた。そこにあるIPの数、そしてコメントはオンタイムで今の自分に影響を与えた。また見ず知らずの方のFB(フィードバック)は外部からの刺激でいつもと違うところからの感謝と喜びが湧き上がった。またそれはWEBという人工的無意識空間の存在を明らかにし、そこにもシンクロや出会いがあることを再認識させた。
物事の始まりを思う時、イエスの誕生を考えた。マリアの処女懐胎で生まれたイエス。そんなことはあり得ないとずっと思っていた。神話を創る上での一つの「作用」で、「演出」「仕掛け」であると。しかし理想と現実、意識と無意識、過去と未来の境界が曖昧になり、ひいてはなくなり創造の起点に立ち返るとあり得なくなくなる。元々はなにも無いところから始まるのだ。「無」というより「空」。キャンバスに引かれる一本の線が世界を創る。レポート用紙の一文字が物語を語り始める。88の鍵盤の一音が交響曲を奏でる。シンプルなエネルギーのユニットが「空」に命を与える。生物・科学的見地の議論はし尽くされてきた。時間という軸をずらし、物事の源泉を見つめると、過程ではなくカタチの中にしか答えはない。であればどうする?それはカタチに聞くのだ。
「Where are you from? ―貴方はどこから来たのですか?―」と。
「空」に「問う」とき、シンプルなエナジーが透きとおった瓣(はなびら)のように漂い始める。「問う」ことが、「問い」の連続体が存在の原点に通じていくのだ。
なぜこんなにもバルセロナなのだろう?
なぜこんなにも彼女に心魅かれるのだろう?
なぜこんなにも書く衝動に駆られるのだろう?
なぜマリアはイエスを処女懐胎できたのだろう?
なんで?どうして?なぜ?
なぜの嵐が「空」に見えない空気を生み出す。それは見えないが、確かにある。
そんな妄想の麻薬はバルセロナの夜を走らせた。
【三茶物語】は終盤を迎えていた。捧げものの献上が見えてきた。旅の最中に本当の旅の始まりの訪れを感じていた。明日は彼女とモンセラートに行く。また湧きおこる新しい「問い」を見つけに行こう。
飛行機でもらった赤ワインをあけた。記憶も思考もなくなった。「空」ではないが、「空」のようになった。
ただ物語を「捧げ物」としての締め切りは過ぎていた。一文、一文字でも物語を進め、献上したかった。
献上することは、その当時の自分に力を与えることに繋がった。その力は確実に今の自分にも繋がっている。旅を乗り切るにはその力が必要だった。
【三茶物語】を継続できた理由は、―書く―という衝動があったことが大きい。またこんなに忍耐力のない自分が書き続けられた背景として、ブログという媒体を使って書いていたことがある。ごく少数ではあるが読んでくれる方がいた。彼らは内と外を繋ぎ留める重要な役割を果たしてくれた。そこにあるIPの数、そしてコメントはオンタイムで今の自分に影響を与えた。また見ず知らずの方のFB(フィードバック)は外部からの刺激でいつもと違うところからの感謝と喜びが湧き上がった。またそれはWEBという人工的無意識空間の存在を明らかにし、そこにもシンクロや出会いがあることを再認識させた。
物事の始まりを思う時、イエスの誕生を考えた。マリアの処女懐胎で生まれたイエス。そんなことはあり得ないとずっと思っていた。神話を創る上での一つの「作用」で、「演出」「仕掛け」であると。しかし理想と現実、意識と無意識、過去と未来の境界が曖昧になり、ひいてはなくなり創造の起点に立ち返るとあり得なくなくなる。元々はなにも無いところから始まるのだ。「無」というより「空」。キャンバスに引かれる一本の線が世界を創る。レポート用紙の一文字が物語を語り始める。88の鍵盤の一音が交響曲を奏でる。シンプルなエネルギーのユニットが「空」に命を与える。生物・科学的見地の議論はし尽くされてきた。時間という軸をずらし、物事の源泉を見つめると、過程ではなくカタチの中にしか答えはない。であればどうする?それはカタチに聞くのだ。
「Where are you from? ―貴方はどこから来たのですか?―」と。
「空」に「問う」とき、シンプルなエナジーが透きとおった瓣(はなびら)のように漂い始める。「問う」ことが、「問い」の連続体が存在の原点に通じていくのだ。
なぜこんなにもバルセロナなのだろう?
なぜこんなにも彼女に心魅かれるのだろう?
なぜこんなにも書く衝動に駆られるのだろう?
なぜマリアはイエスを処女懐胎できたのだろう?
なんで?どうして?なぜ?
なぜの嵐が「空」に見えない空気を生み出す。それは見えないが、確かにある。
そんな妄想の麻薬はバルセロナの夜を走らせた。
【三茶物語】は終盤を迎えていた。捧げものの献上が見えてきた。旅の最中に本当の旅の始まりの訪れを感じていた。明日は彼女とモンセラートに行く。また湧きおこる新しい「問い」を見つけに行こう。
飛行機でもらった赤ワインをあけた。記憶も思考もなくなった。「空」ではないが、「空」のようになった。