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スメラ~想いをカタチに~

スメラは想いをカタチにするコミュニティーです みんなの想いをつなげて大きな輪にしてゆきましょう

【エスパドリーユ ―WIZARD OF OZ―】〈34〉

2017-06-20 22:11:49 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
カテドラルを出て、ダリの美術館に向かう前にしばし単独行動の時間をとった。彼女は靴を買いたいと言って、カテドラルの近くにあった雑貨屋に入って行った。自分はダリの美術館の道のりを探すのを兼ねてゴシック地区を散歩した。

20~30分ほどして、彼女と別れたカテドラル前の雑貨屋に戻ると、ちょうど彼女が靴を買おうとしているところだった。この旅の秘かな願望の一つに彼女の出会い、触れ合い、巡り合いがあった。ささやかでいいから、現地の人でもなくていいから「心の通い合い」を体験してほしかった。それこそが旅の最も尊いギフトで、次の旅の推進力につながるもの。単独行動という一人の時間もさることながら、彼女の「靴」というアイテムは、そういう旅のマジックを導き、引き起こす可能性を秘めていた。

彼女の探していた靴は「エスパドリーユ」。

その聞き慣れぬ馴染みのない名前の響きに、脳はSTOPしており、誤った追唱を繰り返した・・・エスパルス・・・エスパドリーム・・・・エ、え、E、e・・・???
何度もその名前を聞き直した。それは明らかにそのアイテムが彼女のものであることを表していた。
それは彼女の旅だった。

「エスパドリーユ ‐espadrilles‐」はフランス語で、その発祥はフランス―スペインの国境に聳(そび)えるピレネー山麓に起源がある。国境というのは得てして歴史上紛争がつきもので、このピレネーを境にある時は、フランスだったり、スペインだったりと国境線は変わってきた。国境線というものは中央の人が作った便宜上のもので、本当の「線」はその自然の中にあり、そこで生活している人のみが感じうる境界のことを言う。ことこの靴に限って言えば、エスパドリーユの語源はカタルーニャ語の「アスパルデーニャ ‐espardenya‐」から由来している。18世紀から主に農民(ファーマー)の間でよく履かれており、カタルーニャの生活の一部だった。言葉や生活がその土地が誰のものであるかを表していた。そいう観点で見れば、エスパドリーユはカタルーニャの民族性を表す一つのアイテムとも受けとれた。その靴底はエスパルトという縄状の紐を組み編みしながら作られていく。その組み編みにカタルーニャの微細な粒子が籠められていた。

最近では日本でも靴屋やアパレルの店頭にもよく並んでいるらしいが、ここバルセロナで自分に合ったエスパドリーユを探すというのは、カタルーニャと彼女をつなぐ一つの物語になりえた。店を遠巻きに覗くと、サイズや色味について店員さんと話している(おそらく)。ときに困った顔をして、ときに笑顔を見せ、ときに顔を引き攣らせ、ときに真剣な顔をする。そしてカタルーニャに出自を持つ店員さんが、彼女の一挙手一挙動に呼応、対応していく。それ程高い買い物ではないが、そこには貴(とうと)い交流があった。彼女はエメラルドグリーンの一足を選んだ。それはオズの魔法使いを思い出させた。そこに自分の介入の余地はなく、それはそれでよく、彼女は彼女のバルセロナの時間を生きていた。この旅の自分自身への贈り物が、このエメラルドグリーンのエスパドリーユ。この靴はここから三茶に運ばれ、ランブラスの石畳ではなく、松陰神社の石畳を歩く。その靴の運命は、彼女によって大きく転回されようとしていた。狂言回しは外でもない彼女だった。そんな彼女自身の旅を垣間見て、少し誇らしく、そしてとても嬉しかった。ほんの少しでいい、心の触れ合いがあればいい。

オズの魔法使いのエスパドリーユが彼女の足を守る。
歩こうその靴で、彼女の道を。私たち二人の旅を。

そんなこんなで、次に私たち二人はダリのミュージアムに向かった。
戻ってきた彼女の顔が美しかった。

【へその緒 ―navel―】〈33〉

2017-06-19 10:13:41 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
ランブラスには地下鉄で向かう。バルセロナには8本の地下鉄の路線が東西南北に駆け巡る。地上で起こる様々な出来事を、ここ地下の地脈・水脈で生成していく。ここはバルセロナの無意識。

闇から光を掬い取る。
無から有を生み育む。

カタルーニャ広場に着くと少し西に傾いた陽の光が生気に満ちて降り注いだ。街はまだ元気で、日差しが眩しかった。ダリの美術館に行く前にしばしランブラスを散策する。石畳の道や細い路地を宛てもなく歩く。この道を、ガウディもピカソもダリもミロも歩いた。コロンブスだってここを歩いた。

東京だって、渋谷だって、三茶だって時間軸を広げれば、著名な作家やアーティストは歩いているはず。そうは言ってもそう喚起、想像しづらいのは街のつくりにあるのだろう。ランブラスの街の臭いはそういう想像力を容易に刺激し、イマジネーションという名の妄想が泉のように湧いてきた。2本の足の裏から入ってくるカタルーニャの「気」。それはそもそも持っている魂との「異」な感覚を想起し、そのコントラストから普段明らかにされていないオリジナルな自分を浮き彫りにした。自分という存在がふわっと浮上した。その浮力は自分を軽くし、この旅の疲労を軽減させてくれた。まだまだ元気だった。

バルセロナは古代ローマの植民都市バルキアから始まる。時間軸で見ると、2000年前まで遡る。その当時からここランブラスのある旧市街はその中心地で、中でもゴシック地区はその臍(へそ)とも言えた。そして細い臍の緒の小路を辿って行き、さらに真ん中に歩を進めていくとカテドラルがあった。バルセロナのカトリックの信仰は、このカテドラルで守られ、育まれ、広がった。サグラダ・ファミリア以前、ここはカタルーニャの信仰の支柱だった。そして今もカトリックの歴史と伝統の象徴になっており、また信仰そのものも時空を超えて息づいている。ゴシック式建築の壮麗な聖堂は、1448年に今の形が完成しているので、その着工の1298年から起算すると、ほぼ中世の盛紀を通して建築されている。当時の最新、最高の技術と職人、そして信仰から募られる寄付金によって作られた。

1298年から1448年まで150年かけて改築されたカテドラル。
1882年から2026年まで144年かけて建造されるサグラダ・ファミリア。

ここにもカタルーニャ民族の源流が感じられる。一代を越えて、いや当時であれば二代、三代に跨いで受け継がれる「意志」と「技術」。カテドラルもまたカタルーニャのエスプリの象徴だった。中に一歩入るとそこは現代の時間の呪縛から解放され中世にまで飛ぶ。静寂にあるかすかな響き。沈黙の中に流れる微小な調べ。回廊のステンドグラスはサグラダ・ファミリアのファンタジックな高揚とも違い、厳かで深い濃光を内部に湛えていた。

カテドラルの中で、何千何万のヨーロッパの人たちと同じように自分も祈ってみた。東洋のZIPANGから来た男は、その光が新約からだけではなく、旧約聖書の世界観から注がれている気がしていた。祈りの「気」で満たされていた。壁画もレリーフもステンドグラスも一切がカトリックの宇宙を構成していた。

祈りを忘れたものが祈りを思い出し、
祈りを知らなかったものが祈りが何であるかがわかる。

それがカテドラルだった。憧れのヨーロッパというより求めていたヨーロッパという宇宙だった。重力が外よりも重く、そのズシリとした重さが祈りをアンカリング(繋留)させた。深く集中できた。中世もまた自分の中にあった。


【蝶々 ―psyche―】〈32〉

2017-06-16 14:47:51 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
列車に乗っていると、爽やかな陽気と心地よい揺れで彼女がうとうと眠り始めた。無理もない、昨夜はまともに眠れていないのだから。向かいに座っている彼女を見ながら昨日のことを思い出していた。

マリアの口づけを見て気づいたのが、私たち二人にはもう何か月もそういうことがないということだった。いわゆる二人の営みも。それもまた無理はなく、二人とも忙しく、そして別々に寝ているのだから当たり前と言えば当然だった。そんな中で昨夜は彼女が素直にベッドに入ってきた。彼女を抱きしめることこそすれ、一つになれなかったのは明らかに「機」の逸失だった。

すぐに眠りに落ちる自分、しばらく眠れなかった彼女。腕を組んで目を閉じ、「んーーー!」と唸った。
その「んーーー…」は思いのほか深く、そのまま自分も陽気な睡魔に沈んでいった。

目を開けるとそこはトンネルの中、というより地下鉄の路線に入っていた。もう間もなくでザンツ駅に着く。ここからスペイン各線へ繋がる列車が発着する。マドリード!グラナダ!パリ!物語が始まる駅だ。次回は電車に乗る旅をしよう・・そう思った。ザンツから地下鉄5号線に乗り換えアムレイ・サンパウホテルに向かう。バルセロナの地下鉄も身体に馴染み始めていた。ホテルには2時過ぎにチェックイン。例の40代の四角い眼鏡をかけたMGRがフロントに立っていた。預けていた荷物を受け取り部屋に向かう。その部屋も一昨日前に泊まった部屋同様に窓からサンパウ病院のドーム状の屋根が見えた。ほんの一日だけなのに、この部屋が懐かしく「homeーホームー」のように感じられた。

荷物の重さから解放されると、二人で一つのベッドにバタンと寝ころんだ。するとモヒートのミントリーフの香りが漂い、透き通った空気が鼻腔を刺激した。五感が研ぎ澄まされ敏感になった。それは自分だけでなく、彼女もまたそうだった。そして彼女の手を握り、口づけをした。すると二人は青い炎になった。ミントリーフの香りは室温を3℃下げていたが、二人はモヒートのわずかなアルコールで静かな青い炎になった。
満月の夜の潮(うしお)の変わり目の 寄せては返す波のよに 青い炎はゆらゆら揺れた。

一つ、二つ、三つ・・・・・・・
一つ、二つ、三つ・・・・・・・・
一つ、二つ、三つ・・・・・・・・

ぶつかり、溶け、はじけ、結び、青い炎は一つになった。
その青い炎はパチパチと音を鳴らして揺れていた。
その青く一つになった炎に、どこからともなく蜻蛉(かげろう)の群れが一つの団を成し、炎の回りを飛んでいた。
青い炎が強く燃えオレンジの灯になったとき、群れから一羽の蜻蛉が、その灯に入っていった。
オレンジの灯はほんの少し驚いて、また一回りその灯を大きくした。

それを合図に84本の鐘が上下左右、劈(つんざく)くほどに鳴り響いた。
その余りの大きさに、音と音は重なり合い、悠音(ゆうおん)の中で無音になった。
その祝福の鐘の音に包まれて、オレンジ色の灯は丸くなり、球になりなり、くるくるくるくる廻り始めた。
そして最後は黄金色のハチミツの海になった。
それは永遠のハチミツだった。

しばらくすると私たちはその永遠のハチミツから帰還した。二人でそのハチミツを瓶詰にして、いつかホットケーキに使おうと笑って話した。

二人でシャワーを浴び、また旅に戻った。もう3時30分を過ぎ、時間は刻々と時を刻んでいた。でもまだ日は高い。ランブラスへ行こう。ダリに会いに行こう。

私たち二人はいそいそと再びアムレイ・サンパウを飛び出した。そこはまだバルセロナで、カタルーニャの風が吹いていた。それは夢のような現実で、信じられないような真実の中を生きていた。今の中に過去と未来が凝縮されていた。全てがそこにあった。


【カフェ ―vision―】〈31〉

2017-06-14 23:02:33 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
そしてロヨラが、カトリックへの信仰に目覚め、想いを育み、黙想したのがここマンレザにある聖イグナシの洞窟「ラ・コバ・サン・イグナシ」。そんな聖地が目前にあるとは露知らず、お腹を空かせた二人は朝食が食べられるところを探していた。もちろんその洞窟のある教会を目指していたわけではなかったが、ちょうどその裏手の一画に朝から営業しているカフェがあった。まだ時間が早かったせいか観光客はもとより地元の人もいないところに二人はお邪魔した。完全に貸し切り状態だった。ロヨラの洞窟の話は知らなかったが、このカフェもどこか洞窟のような作りだった。

そこでは両腕に孔雀のTattooを入れて、右目が白濁しているマダムが笑顔で迎えてくれた。その笑顔の向こうにその日の最初の客がアジアの外国人であることへの戸惑いが微かに垣間見えた。ただそれは接客業であろうとなかろうと、違う言葉を話す、違う人種の、違う文化圏の人に遭遇すれば誰しも感じる違和感でそれはナチュラルな反応とも言えた。そこに嫌な感覚はなかった。ピザトーストと紅茶(Black tea)を頼むと、レンジの中に入っている受け皿のような器にえらく大きなピザトーストが出てきた。朝にはちょっと重たかったが、これからの濃密なスケジュールをこなすには、この高カロリー摂取も意味があるような気がした。朝食を食べながら午後と帰りの予定を二人で考えた。残された時間はこれからの午後と夜そして明日の午前中に限られていた。ややもすればせわしなく、せかされるような気分になりそうなものだったが、このカフェが持つ独特な時の流れと紅茶が気持ちを落ち着かせた。もうホテルの心配もいらないという安堵感が心を穏やかにさせた。私たち二人とマダムの3人、その空間は二人のために用意された場所だった。

そうこんな感じ。こんなイメージと思いながらこのカフェの時間を味わっていた。

自分がやりたいcaféの広さや天井の高さ、造りや素材。
住むとは違う非日常があり、でも居心地がいい。
自分の家や部屋とも違う、自分に浸れるその時間が、自身を浄化し新しい自分を生む心のスペースを作る。
時の流れを1.5倍遅くする。
ため息ができる。あくびができる。深呼吸ができる。胸を打つ鼓動すらも穏やかになる。
吸う息、吐く息も普段より少し深くなる。
コーヒーの湯気が見える。トーストにバターを塗り、サクッとほおばる。
お茶を飲んで手帳を開いたり、お気に入りの雑誌をぱらぱらと捲ってみたり。
飾っている絵をぼーっと眺めていたり。
いつもなら手にしない詩集に触れてみたり。
三日坊主の日記を思い出したように書いてみたり。
パウダールームも清潔で、花が活けていて、リセットできた自分を確認できる。
帰りにはマスターや店のスタッフと軽く世間話。
そんなことを妄想・夢想していた。

午前中の陽の光が優しく店内に差し込んでいた。午後の予定のメインどころは、ランブラス通りの散策にした。昨日は彼女の希望のモンシェラートだったこともあり、今日は自分が行きたいところに行くことを勧めてくれた。本当はビーチに行きたかったが時間のことを考えてそのことを言うのは控えた。その代り一ケ所行っておきたいところがあった。それがダリ美術館。サルバトール・ダリの美術館と言えば、カタルーニャ州のフィゲラスにあるダリ美術館が本家本元だったが、バルセロナ市内にもプライベート美術館ではあったがダリの作品ばかりを集めたダリ美術館があった。2006年に上野のダリ回顧展に行って以来のダリの作品群との再会。ガウディと同じ位ダリの世界観もカタルーニャで見ておきたかった。彼女はその案に関しては二つ返事で賛成してくれた。胃も気も十分に満たされた。

マダムに勘定を済ませ、お別れを言ってから店を後にした。空は相変わらず快晴で気持ちがよかった。カフェを出てから数分でカルデネ川に着き、川沿いの道を歩きレフォルマ橋を渡るとそこはもうマンレザの駅だった。10分ほど待つとバルセロナ行きが到着、慌てることなく列車に乗れ、向かい合わせの席に無事座れた。切符も例の地下鉄の回数券が使えて有難かった。順調だった。自分がここカタルーニャで流れている。カルデネ川の流れに同調し、何の阻害もなく抵抗もなく流れている。

流れている。

【ロヨラ ―coconuts―】〈30〉

2017-06-11 11:33:13 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
旅の予定の欠片(かけら)もなく、予期せぬ展開で導かれたマンレザ。実はここマンレザは日本人の光と闇を形作る上で非常に大きな役割を果たした「かの地」だった。それは15世紀から16世紀まで遡(さかのぼ)る。私たち二人と同じように、黒いマリアに導かれモンシェラートに向かった一人の男がいた。イエズス会の開祖‟イグナチウス・ロヨラ“、その人である。ビルバオのあるバスク地方出身で、このマンレザに辿り着く前は貴族であり騎士(ナイト)だった。彼はモンシェラートを訪れ、ヴェネディクト派キリスト教の深い信仰に心打たれる。その後ここマンレザで、自分自身の在り方と使命について向き合うことになる。身分を顧みず、戦を捨て、ジーザスに帰依することをここに誓った。それがイエズス会の始まり、端緒になった。彼はジーザスの信仰をスペイン本国は元より、ヨーロッパ、アジア、新大陸アメリカにまで広げる決意をし、それを自身の使命と定めた。当時はグラナダを取り戻したことでレコンキスタは終了していたが、イスラムの影響は依然として残留していた。さらにはカルバンが興したプロテスタントの流れから、ローマ教皇を柱としたカトリックはその権威や方向性を失いかけていた時期でもあった。カトリックの思想を命尽くまで啓蒙し世界の片隅の一人に到るまで届けようとしたロヨラは、異端で稀有な存在感ながらローマ教皇からも受け入れられた。

日本にキリスト教を齎(もたら)したあのフランシスコ・ザビエルもイエズス会の重要なメンバーであり、キーマンだった。ザビエルもまたバスク出身で、パリ大学在学中にロヨラと出逢い、運命を共にすることになる。イエズス会の創立は1534年、ロヨラ、ザビエルを含む7名で「モンパルナスの会議」を開き、カトリックへの永遠の忠誠を誓い、ここにイエズス会の歴史が幕を開け世界にその思想は広がることになった。1549年にザビエルが種子島に訪れたのは、そのモンパルナスの誓いから15年で、いかに彼らが本気で命を懸けていたのかがよくわかる。黒いマリアのヴェネディクト派・カタルーニャの信仰の強さはもうこの時から見えない粒子として日本に入ってきた。

それは名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実のように、想いの無人島から何万里もこえ、幾年もかけて運び込まれた。その想いは生命力を宿し、時空を超えどこかで彼女と繋がっていた。魂のDNAに潜んでいたその粒子がここマンレザに私たち二人を導いたのかもしれなかった。この導きに私たち二人はもっと耳を傾けるべきだったが、その時はロヨラのことなど微塵も人参ほどもなかった。

私たち二人はMASIAを出て朝食ができるところ探していた。前日の夜から食べていないこともあってお腹がすいていた。

― 故郷の岸を離れて、汝(なれ)はそも波に幾月(いくつき)―


【シングルベッド ―firecracker―】〈29〉

2017-06-09 22:58:30 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
ふと気が付くとゲストハウスのベッドで眠っていた。服も着ているし、薄手のブランケットも被っている。なくなったはずの自分の存在を確かめる。手足があり、心臓の鼓動もあった。すると違う心臓の鼓動が聞こえてくるような気がした。その気配の方に身体を動かし横を向くと、隣のベッドで彼女がぶるぶる震えていた。すると表で爆竹がバンバン鳴っている音が聞こえてきた。それはそんな遠くでもなく、むしろこのMASIAの近くで轟いていた。立て続けに鳴ったかと思えば、しばらく止み、また数十分後にはまた鳴った。さらには男たちの笑い声も時に交じってくる。その笑い声にはアルコールの臭いがし、MASIAの窓と薄いカーテンに向けられているように感じられた。

ただその騒ぎには合点がいった。それは例のスペイン国王杯でFCバルセロナが勝利し、優勝したからだった。スコアは3-1、あのメッシがビルバオのゴールを揺らし、我がホーム‟カンプノウ”で見事に優勝を飾った。カタルーニャの魂FCバルセロナの勝利はここマンレザでも当然祝杯される。熱狂的な一部のファンが、酔っ払い、笑い、爆竹を鳴らす。それについて自分などは、さすが本場スペインと楽観的でいられたが、由(よし)を知らない彼女はそうはいかなかった。男の笑い声は身の危険を煽り、爆竹はピストルの音に聞こえた。部屋に鍵はついていたが、トイレに必ずついている程度の鍵で、マイケルジャクソンのスリラーのPVに出てくるゾンビなら、いとも簡単に突き破れそうなドアだった。メッシのゴールは日本から来た、初めてカタルーニャのゲストハウスに泊まる彼女の不安も揺らしていた。

自分は被っていた毛布を開いて、彼女を自分のベッドに導いた。すると彼女は素直にベッドに入ってきた。自分たち夫婦はいつしか長いこと違うベッドで眠っていた。その原因は自分の嚊(いびき)と寝息だった。お互い仕事を持ち、朝や夜の帰りも違っていたこともあり、共に暮らす中で微妙なずれが生じていた。日々のリズムは自分を作る、故に彼女は自分のペース、自分のスペースで眠ることを望んだ。微妙なずれも積み重ねれば、些細な隙間から甚大な距離に広がっていくもの。それは寂しいことでもあった。一つ屋根の下で、山手線一駅分の距離があった。ただこの時は安宿の小さいシングルベッドに入ってきた。一瞬、付き合ってまもなくの頃を思い出した。大丈夫だよ、大丈夫だよと囁き、彼女の頭を二度撫でた。それはまるでヘミングウェイの映画、『誰がために鐘は鳴る』でゲイリークーパーがイングリッドバーグマンにしてあげたように。そして彼女の頭を撫でながら、再びストンと眠りに落ちた。それは深い眠りだった。

朝目覚めると、とてもきれいな青空が広がっていた。窓を開けると爽やかな風が頬を撫で知らない鳥が気持ちよさそうに囀(さえず)り心地よかった。彼女はまだ眠っていた。今日はスペイン滞在3日目。明日は帰るだけだから貴重な一日だ。パッキングをして着替えていると、朝の陽ざしも手伝って彼女が目を覚ましてきた。彼女によると前夜のお祭り騒ぎは暫くつづいていたらしく、眠りについたのは空が明るくなり始めたころだったとのことだった。眠そうな彼女には申し訳なかったが早目のチェックアウトでバルセロナに戻ることにした。何だかんだ移動で一時間半はかかるし、午後の時間も貴重だった。

ここMASIAに宿泊し、シャワールームの不思議もありつつ深く眠れたのは、この旅の疲れというよりも、旅行取り止めから再開、昨日までのホテルのブッキングの顛末で、一連の心の曇りが解消されたからだった。自分を消すほどの深い眠りを心身魂で求めていた。どんなにポジティブに考えたって、見る角度を変えたからって、無意識はちゃんと自分の不安を認めていた。日々一定量のネガティブとプレッシャーとともに生きていた。それは一つのカルマの解消を表していた。その解放が黒いマリアの光を自分の無意識に引き寄せた。

身体は軽くなり、心は開いていた。
本当の旅の始まりの気がした。



【マンレザ ―Manresa―】〈28〉

2017-06-08 19:12:36 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
マンレザの駅は二つある。一つはマンレザ、もう一つはマンレザ・バクスチャー。2路線電車が走っていることから二つあるわけだが、駅どうしの距離はそう離れていない。例えていうなら、埼玉県の川越と本川越のようなイメージだろうか。
モンシェラートから6駅目の所にマンレザ・バクスチャーがあり、WEBで調べたところによると歩いて7,8分の所にそのゲストハウス、「HOSTAL LA MASIA」はあるとのことだった。陽が高いスペインの太陽も、茜色の夕日になっていた。古城の城壁があり、アップダウンのある石畳の道にその夕日はとても似合っていた。とある小学校の横を通ると子供たちがバスケットボールをしていた。放課後の1シーンにどの国にも相通じる普遍性を感じた。iPhoneの地図を頼りに安宿に向かう。目新しい風景にもかかわらず初めて訪れたこの土地を楽しむよりも、その場所に辿り着くまでは予断を許せない心持ちだった。二人で手探り、目探り、足探りで安宿を目指した。なんとか人に尋ねることなくそこに到着できた。

外観はやはりホテルというよりもマンションのような出で立ちで、カタルーニャの学生が住んでいる「寮」のような感じがした。石造りの4階建ての建物で、レセプトの入口だけは木製でお伽話が始まりそうな扉だった。中には20代の小柄でフレンドリーな女の子が受付に立っていた。

Hola!  We‘ve reseraved here today. 「こんにちは! 今日予約したものです。」
Can I check your passport? 「パスポートはお持ちですか?」
Sure, here it is. 「ええ、こちらです。」

レセプトの女の子はPCで予約を確認し、料金が前払いであること、部屋が2階の角部屋であること、最後はレセプトに寄らず、鍵を開けたまま帰っていいことを簡単な英語で説明してくれた。40€を前払いで支払い部屋に向かった。ちなみに二人で40€(約5,000円)は素泊まりとはいえ破格の安さだった。1階は簡易食堂になっており、2階以上が客室だった。その部屋はおよそ6畳程度の広さで2台シングルベッドがありベッドとベッドの間に、簡易的な小さな机があり、壁には絵が飾っていた。トイレとバスタブはさすがになかったが、HOTシャワーが備えられていた。ただそれ以外は何もなく歯ブラシもタオルも自前でホテルによくあるレスランのメニューのような覚書や設備案内やサービスの箇条書きもなく聖書も置いていなかった。正直ロマンチックでもなければ、いわゆる新婚旅行の宿泊先としてはどちらかと言えば適しているとは言えなかった。ただゲストハウスがどういうものかといわれれば、「HOSTAL LA MASIA」はその例に挙げるとしたら格好の安宿だった。2階の部屋の前にはちょっとした共有スペースがあり、小さなTVと本棚、そして三人掛けのソファーがあって、宿泊客のちょっとした社交の場になっていた。ここもまたバックパッカーホステルにありがちで、自分としてはフィット感があった。寧ろそういうところを望んでいた。一方で彼女の感想はと言えば、「値段の割には、まあまあだね」というコメントだった。その反応も無理はない。何しろこういう安宿は初めてのことなのだから。

日も暮れて、すっかり夕飯時ではあったものの、駅からMASIAの道のりを思い出すと、開いている店も食事できるレストランやカフェも見当たらなかった。外に出るにしても、とりあえずシャワーを浴びてそれから考えようということで、先にバスルームを使わせて貰った。石鹸もないホテルということで日本から持ってきた洗顔フォームで全身を洗った。安宿のポイントはシャワーの圧力。ちょろちょろでもなく、強すぎもなく及第点の圧力と湯の温度でまずまずだった。

顔を洗っていると、少し変わったことが起こってきた。洗顔フォームで小さなシャボンが右の鼻に丸く風船のように膨らんでいた。2cmぐらいのそのシャボンは鼻から息を吹き込めば少し膨らみ、吸えば小さくなり、大きくなったり萎(しぼ)んだりした。子供のころ学校の手洗い場でレモン石鹸を使ってシャボンを作って遊んでいたころを思い出した。シャボンは少しの刺激で簡単に壊れてしまうもの。静かに呼吸をして、そのシャボンの膨らみを楽しんだ。面白がって空気を慎重に入れていくと。その膨らみが自分の顔程までになり増々嬉しくなった。するとそのシャボンは息を吹き込むまでもなく自発的に膨らみ始め、鼻からも放れ、しまいには自分の身体を包み込むまで大きくなった。いつしかその薄い膜の中に自分は入っていた。天井を見上げると、肌色電球の明かりの加減でシャボンが虹色に輝いた。自分の頭がまともではないことはわかっていた。ただその時は見る角度を変えると虹色に輝くポイントがあり、おかしくなっている意識を認めるより、その瞬間を捉えることに夢中になっていた。そして再び虹色のポイントを見つけたその瞬間、マリアに口づけした時に放たれた光がシャボンの中に入ってきた。その美しさに心奪われるとそのシャボンがパチンと消えた。と同時に記憶の線がプツンと途切れ、自分という存在もはじけて消えた。


【接吻 ―petó―】〈27〉

2016-11-30 10:40:31 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
修道院の前の広場には沢山の人が集まっていた。突き抜けるような澄み切った青い空の下で、司祭がお話をされていた。用意されていた折りたたみの椅子は満席で立ち見の方もたくさんいて、儀式を邪魔せぬように後方の壁づたいに教会を目指し歩いた。通常だと黒いマリアを参拝するには長い列を作って待つのが普通のようだったが、この日はこのミサのため、比較的短めの列で少し待てば会えるような感じだった。ディズニーランドのファーストパスのようにミサの行われている広場を抜けると5分ほどで館内に入れた。外の陽気とは打って変わって、キンと空気が引き締まっていた。ナポレオン軍によって破壊された教会は戦後建て替えられ、スペイン内戦を経て今日に至る。内壁のレリーフ、絵画、像、建築様式はモデルニスモ以前の18世紀から19世紀かけて再建されているため、今まで見た建築物とは趣が違った。1000年間の歴史の蓄積が見えない空気の中に成分として館内を満たしていた。なぜかはじめてラサのポタラ宮を訪れた時の感覚に似ていた。同時代の音楽を聴くと違うジャンルの曲なのに近しい匂いがするのと同じように、そこには同時代の魂の香りが通じていた。祈りの膨大な累積から精製される聖なるエアーは時空を超えて宗派を超越して繋がっていた。

黒いマリアまでの行列は20分程度で、穏やかな歩みの中、中世、近世のカトリックの空気をゆっくりと味わえた。順番が回って来るころには旅行者ではなくすっかり巡礼者になっていった。一人、一人が黒いマリア像の前に立ち祈りを捧げる。黒いマリアはイエスとされる子供とともに右の手に球体のボールを持っていた。像はクリアケースで覆われていたが、マリアのボールのところのみ直接触れることができた。2メートル弱のマリアを見上げ、ボールに触れ、祈る。

「生きとし生けるものすべてのものに感謝します。森羅万象すべてのものに感謝します。そしてこの瞬間に感謝します」

そう祈って、彼女に変わった。彼女を背にして数歩前進して振り返ると、彼女がマリアにキスをしていた。一瞬目を疑った。確かにそれは口づけだった。

するとマリアの持っていたボールがスワロフスキーのボールのようにきらきらと光を放ち回り始め、無数の七色のプリズムが彼女を包んだ。瞬(まばた)きをするとそのプリズムは消え、自然光の元の照明に戻っていた。刹那の出来事ゆえ、目の錯覚かもしれなかった。ただ一瞬だったが光が時の流れを一時停止した。
我に帰り次の瞬間湧いた疑問は、こうだった。

「いつだろう、最後にキスをしたのは・・・」

七色のプリズムの不思議より、この疑問が浮上するくらい彼女とのそういったスキンシップはなくなっていた。夜の営みなど遥か彼方だった。浄土真宗で保守的な彼女が公な場で
したその行為は、自分にはかなりの驚きだった。それは彼女の無意識がモンシェラートの黒いマリアにコミットしていることを表していた。彼女が旅行に行く前からそこに何か感じていると思ってはいたが、自分が想像している以上に広く、大きく、深かった。

「何を祈ったの?」
「世界平和。」

彼女の回答は一言、この4文字熟語だった。抽象度が上がって真意が何かを推し量りかねていたが、それはそれでいいと思っていた。とにかくここに来たことが間違いないということだけは確信できた。修道院をでると観光旅行者に戻りみやげもの屋を物色した。彼女が生き生きしだした。冷蔵庫につけるモンシェラートを象(かたど)ったマグネットを買って喜んでいた。

時は16:00を回っていた。今日はこれで終わりでなく、先ほどブッキングした安宿に行かなくてはいけなかった。その宿はマンレザというところにあった。これからは予定外の所に向かう。ガイドブックにも載っていない未知の土地。新しい経験を二人で作る。それは不安を伴うものではあったが、望むところだった。靴の紐を結びなおした。


【潮目 ―booking―】〈26〉

2016-11-19 09:43:25 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
気持ちを切り替えてモンシェラートを散策することにした。基本的には修道院なので敷地面積としてはそこまで大きくはない。宿舎、美術館、みやげものや、カフェテリア、30分もあれば一通り回りきれる。この日は何か大きなミサがあるらしく、修道院前の広場にステージが組まれたくさんの椅子が並べられていた。メインの修道院内の参拝は午後からにして、少し早めのランチをとることにした。旅行者や巡礼者が集まれる集会場があり、その中にカフェテリアがあった。ちょっとした社員食堂や大学の学食のようなホールで、好きな食べ物を選び、会計したらセルフサービスで好きなところで飲食ができる。パスタ、ピザ、パエリア、パン、サンドイッチ、サラダ、お肉、いろんな種類のお惣菜がずらりとならんでおり、きょろきょろ目移りした。ついつい色んなものとってしまって、会計が二人で40€ぐらになりランチにしては贅沢をしてしまった。バルセロナに着いてからの初パエリアはここモンシェラートのカフェテリアで食べた。味はというと、何というか、可もなく不可もなくで、ふつうだった。ただ食事というのは時にその場の空気や、誰と食べるかが大事なこともあり、味は2の次になることは往々にしてあるもの。スペインでパエリアを食べるという事実が、ここでは思い出のポイントだった。二人とも満腹になり気持ちよくなった。ちょっとしたシエスタ気分で、うとうと昼寝でもしたくなる陽気だった。ただそういう訳にもいかなかった。ここでも宿が見つからなかったので、PCを開いて検索を開始した。もう少しバルセロナから離れて、モンシェラートよりも奥地を探すことにした。旅の工程としては移動の時間が増えもったいない気もしたが、そうもいってられなかった。遂にといよりとうとう彼女も一緒になって探し始めた。彼女は旅に巻き込まれ、その渦中にいた。二人で何とかしなくてはという気持ちになっていた。これは変化だった。すると1件安宿が見つかった。しかもツインで40€。ランチと同じくらいの値段。この安さが多少心配になり、彼女に聞いてみた。

「ここでいいかな?」
「もう選んでられないよ。」

至極もっともな意見だった。写真が数枚載っていたが悪くはなさそうだった。そして予約のクリックを押した。あとはもう行ってみてだ。

かくしてずっと振り回され続けたホテル探しはここで終わった。まだ行ってもいないし見てもいなかったが、心の重荷が一つなくなった気がした。闇がまた一つ解消された瞬間だった。

気持ちも新たに修道院に行くことにした。黒いマリア像に会いに。その私は、かの私ではなく、私の知らない私だった。

9世紀、羊飼いの少年が黒いマリア像をこの岩山にある洞窟で発見した。誰が、いつごろ、そしてなぜ黒いマリアをモンシェラートの洞窟に忍ばせたかは誰も知らない。天から降ったか、地から湧いたか、その出自はマリアの処女懐胎にも似てミステリーだった。
当時のスペインは後ウマイヤ朝、イスラム帝国の治世だった。イスラムは宗教に寛容で、カトリックも信仰は尊重されていたと言われている。ただ信仰を続けるにあたっては条件があった。それは「ジズヤ」と呼ばれる人頭税、つまり税金を支払わなくてはならなかった。中には税金が払えなくてイスラム教に改宗する人も少なくはなかったと言う。そして新しい教会を創ることは原則禁止とされ、カトリックの男性とモスリムの女性が結婚するのは禁止、イスラムの男性がカトリックの女性と結婚するのはなんのお咎めもなかった。信仰はあったがそこには制約があった。

そんな時代に羊飼いの少年はモンシェラートの洞窟に入っていった。少年が洞窟に入ったのは気まぐれか、導かれてか、はたまた好奇心か。それとも何かつらいことがあって慰めを求めてか。それはわからない。ただ黒いマリアとの出逢いが、カタルーニャのカトリックの信仰心に光を灯したのは間違いない。村人たちはマリア像を近くの町に運ぼうとしたが動かなかった。そういう訳で、のこぎり山の中腹モンシェラートにマリアは祀られ修道院ができた。イスラムの統治はレコンキスタが完了する1492年までつづいたが、その支配下の時代もそれ以降も、キリスト教の聖地として拠り所として信仰の灯(ともしび)を守りつづけてきた。その象徴が黒いマリアだった。

私の知らない私が、カタルーニャのエスプリ―魂―に会いに行く。
それはもう完璧なタイミングだった。


【のこぎり ―she saw―】〈25〉

2016-11-07 12:34:51 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
“Hola!―オラ!―”
スタッフの方の挨拶が気持ちよく響く。
朝食が用意されているホールは欧米人の方ばかりだった。
朝食を食べ、腹ごしらえをする。何しろのりしろ今日は野宿かもしれない。
しっかりエネルギーを補充しなければ。そんな気持ちでクロワッサンやハムエッグを食べた。

出発前にここアムレイ・サンパウで31日と1日の予約をした。そして荷物を預かってもらえないかとお願いしてみた。支配人はもちろん!と快く預かって下さった。明日、明後日の見通しがつけば、安心して今日に集中できる。臨戦態勢は整った。

荷物をバッグ一つにまとめてホテルを出た。地下鉄2号線、3号線と乗り換えてスペイン広場へ向かう。スペイン広場は昨日よりたくさんのビルバオサポーターとバルサのサポーターがうろうろしていた。やはり一大イベントだった。彼らは聖地カンプノウに向かいフットボールのミサに参加する。我々は聖地モンセラートに向かい黒いマリアに会いに行く。この異種相違する二つの聖地だが大きな共通点があった。

それは言葉―カタルーニャ語―。

1939年スペイン内戦後、ファシズムを推し進めていたフランコが独裁政権をとると、公の場でのカタルーニャ語は禁止された。言葉を失うということがその民族にとってどれだけ屈辱かは想像を絶する。仮に大阪の人から大阪弁を奪い去ることを考えてみれば、それがどれだけ愚かで、文化的損失を招き、アイデンティティを傷つけるか容易に察しがつくだろう。
フランコ時代、言葉を奪われたカタルーニャだったが、カンプノウ・スタジアムだけは例外だった。"ヴィスカ バルサ!(万歳バルサ)"を気兼ねなく発することができた。これはフランコ体制の抑圧に対するガス抜き的配慮で、サッカーというスポーツの場であえて民族の欲求不満を発散させた。中央のレアルマドリードは当時のフランコ体制側のチームで、FCバルセロナはその対極にあり、この2チームが対戦するとフットボールというスポーツの枠を越え、民族・体制を賭けた戦いになった。カンプノウでカタルーニャ語は蘇り、アイデンティティは爆発できた。カンプノウが聖地というのもあながち間違っていないし大袈裟でもない。バルサはカタルーニャ民族主義の象徴だった。1975年にフランコが亡くなり、イタリアに亡命していたファン・カルロス1世がスペインに戻り議会君主制が敷かれると、カタルーニャ語は復権し、公の場でも自由に話ができるようになった。

もう一つの聖地モンセラートもまたこの言語の障害をずっと乗り越えて、その信仰同等にカタルーニャ語を守り続けてきた。フランコ政権時もそうだが、17世紀にナポレオン軍がカタルーニャを侵略した時もその困難を乗り越えた。ナポレオン軍はバルセロナやタラゴナの都市部に加えて、民族の精神的支柱であるモンセラートを攻撃した。人としては赦し難き攻撃も、兵法としては優れていた。カタルーニャに致命傷を与えるにはこの地ほどインパクトのあるところはなかった。ただその時の司祭や修道士たちはカタルーニャ語で祈りを捧げ続けた。どんな状況でも逆境でも言葉と祈りを守り貫き通した。言葉、「言霊」はここで維持保存されてきた。

カタルーニャではすべての道はモンセラートにつづいていた。モンセラートは日本で例えるなら「伊勢神宮」がそれに近い。モンセラートがパワースポットであるとか、黒いマリアが願いを叶えるという話以前に、聖地巡礼の場なのだ。勿論観光客も集まるが、主はカトリックの信者の方や、カタルーニャ人の聖地巡礼がそもそもの来訪の目的だった。

目指すはモンセラート行きの電車が到着するMonserrat-Aeri駅へ。日本で買っておいた回数券がここでも使えてありがたかった。
約1時間の列車の旅。旅行者の方が家族連れで何組も乗っていた。車中では2回ほど物乞いの方が、歌を歌いにやってきた。物乞いは確かにめんどうくさいが、そういう行為が容認され、それをも否定しない余白や余裕がカタルーニャ鉄道の中にはあった。

麓(ふもと)の駅に着いたらロープウェイに乗り換える。駅から見上げるとそこにはのこぎり山、モンセラートが私たちを見下ろしていた。自然の隆起で形成されたその岩山は、人の歴史の何倍も長い年月をかけて現在の姿を表している。そののこぎりの歯は赤く、逞しく、厳しそうだった。ロープウェイは15分おきで、10分程度で山の中腹にある修道院まで辿り着く。車内は家族連れやトレッキングをしようとしている乗客で満杯だった。ロープウェイは天界と下界を繋ぐゴンドラだった。下界今世での自分の行いの審判がここで下されると妄想すると、このゴンドラの揺れは自分の心の揺れに同調した。高いところが苦手な彼女だったが、自分の妄想とは相反して楽しそうだった。徐々に身体が浄化されクリアになっていくような気がした。ゴンドラが無事到着するとまず、観光案内所に直行した。多少高くてもホテルが空いてればここで宿泊を決めたかった。ただ無情というか、当然のごとく土曜日の巡礼者で溢れている聖地の宿舎に空室はなかった。No宿 ―野宿― が、また一歩近づいた。

案内所を出て空を見上げた。すると紺碧の青い空が高く広がっていた。陽の光がさんさんとモンセラートに降り注いでいた。現実は何も変わっていなかったが、その現実を受け留める気持ちが変わった。

「これはこれでいいんだ。」

そう素直に思えた。聖地の空気がそういう気持ちにしてくれた。前日までのカサミラやカサバトリョ、グエル公園で何も入ってこなかった感じとは違い、五感も六感も開いていた。目の前の現実をよしと認め、自然や街並みを美しいと感じ、きっと何とかなるという確かな予感も受け取った。これから起きることと、起こすことが、小川で回る水車のように流れる力と回る力を一つのエネルギーにしていく過程と同軌していった。

このモンシェラートや黒いマリアに何かを感じた彼女の直観を信じよう、そう思った。