犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

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母子 配慮篇

2016年01月14日 | 日々
[あらすじ] 母と娘の関係は、癒着する。
と、よく言われる。
述語では、共依存などと言う。
雑に言やあ、相手のせいにし合ってる、なんてなことになるだろうか。

私は今、老母82歳と同居している。
母は絶対に口ごたえをしてはいけない「おとうさま」のもとに育った。
質問することは、相手に疑問をぶつけることと感じ、
文句を言うことになってしまうので、してはいけない。

ましてや、相手に「こうして欲しい」と要望を出すことも、できない。
それはまるで、不平不満を言うことのように感じるのだ。
そしてまた一方で、ひとに気を遣うようにするのが良い、
という価値観もある。

つまり、医者に配慮して欲しい、ということになる。
しかし、日々何をつらいと感じているのか伝えず、
訴えも無く座っている患者に、医者は何もできない。
「今日は忙しかったみたいで、先生はさっさと診察を終わらせたわね」

人聞きの悪い。
何も話さなければ、変化も困ったことも無いのだろうと医者は思って、処方は変わらない。
「他に何か気になることや変わったことや困ったことや言いたいことはありますか?」
と医者はわざわざ聞かない。

医者は他の方法、血圧や血中酸素濃度や心音や歩行の観察や眉間反射などを見て、
判断しているからだ。
本人の感覚は、本人が表現しなければ、伝わらない。
くどいようだが、遠慮している場合じゃない。

相手に配慮してもらいたいのだが、その分、自分もひとに配慮する。
共通の知人が、「お母さんはほんとに配慮の人だから、私なんか及ばない」
などと言う。
しかし私は首をかしげる。

私に対しての母の配慮は、ほとんどの場合、ハズレているからだ。
配慮というのは、的を射なかった場合、お節介にすらならない。
毎日、ハズレの配慮を断るのに、私は疲れきってしまった。
配慮している気持ちに配慮することに疲弊した。

具体的にどんなふうにハズレかと言うと、
母の目の前で私が食事をして、食事を終えたあとに
「お腹すいてない?冷蔵庫に○○があるわよ」といった具合だ。
ありがとういただきます、と言えない。

が、私はここで、今食べたばかりだ見ていなかったのか、とも言えない。
私も親に「口ごたえをするな」と言われて育ったのだ。
こちらが何をしているか見ていないで何が配慮になるのか、私にはさっぱりわからない。
これは年を取って視界が悪くなったからこうなったのではない。

母は若い頃からこうだった。
数十年の時を経て、ついに先日、訴えた。
ご配慮いただいているようだが、ほとんどがズレている。
断るのももう疲れたのだけど?

すると、他人に対してはもっとよく見て考えて発言している、
という返事だった。
なるほど、知人も讃えるわけだ。
私に対しては、身内への甘さから、ちゃんとやっていない、と言う。

ありがた迷惑
と声に出さず腹におさめた。
親の心、子知った。
自覚していることが言葉になれば、それで満足だ。

他人様の場合、いくら配慮がハズレでも、
「あ、今は結構です」のひとことで済んだりもする。
同居していると、四六時中なので疲れるという違いがある。
そう思うと、職場の人がこんなだったら、一番困るかもしれない。

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