[あらすじ]
症状が起きているとき、身体の中で何が起きているのか。
現代医学だったら、ここの血流が悪いとか、それは自律神経の働きでとか、
副腎からのホルモンがとか、それは脳からのホルモンがとか、
そういった説明になる。
中国古代医学だったら、ここに冷えがあるとか、それは氣の滞りのせいでとか、
氣が逆上しているとか、それは肝の作用でとか、
そういった説明になる。
どちらも、病気の時に身体がどう働いて症状が出ているか、ということ
つまり病態とか病理とかいったものの説明だ。
病気とは何か、病気の原因は何か、ということには迫っていない。
しかし、しばしばこれが原因だと間違えがちだ。
「鬱病は脳の中のセロトニンの量が減っているのが原因です」という言い方は
正しくない。
「鬱病の時は、脳の中でセロトニンの量が減っています」ということが
わかっただけだ。
セロトニンを増やしてやる薬を飲めば症状は軽減する。
しかしそれは鬱病の原因に対処したわけではない。
原因にも対処しなければ、服薬は症状との追いかけっこに過ぎない。
氣滞から出た反応点に適切な刺激を与えることによって
氣滞を消したので、症状も無くなった。
それは見事な治療になる。
しかしではなぜそこに氣滞ができていたのか。
そこに迫らなければ、再発してしまうのではないだろうか。
多くの、さまざまな病気について、同じことが言える。
科学が進み、医学が進んで、病気の時の身体の働きについて、
目に見えないホルモンや神経の働きまで解明されてきた。
しかし、病態はあくまで病気の本体ではない。
病気の本体、原因は何か。なぜ人は病気になるのか。
そこはまだ科学に乗っていない。
科学に乗せるのが難しいものって、
知恵によってとっくに答えが出ていたりする。
わかりきっているような気がする。
科学的に解明されていない、という言い方をすることで
現代人の目はかえって曇っている。
つづく
症状が起きているとき、身体の中で何が起きているのか。
現代医学だったら、ここの血流が悪いとか、それは自律神経の働きでとか、
副腎からのホルモンがとか、それは脳からのホルモンがとか、
そういった説明になる。
中国古代医学だったら、ここに冷えがあるとか、それは氣の滞りのせいでとか、
氣が逆上しているとか、それは肝の作用でとか、
そういった説明になる。
どちらも、病気の時に身体がどう働いて症状が出ているか、ということ
つまり病態とか病理とかいったものの説明だ。
病気とは何か、病気の原因は何か、ということには迫っていない。
しかし、しばしばこれが原因だと間違えがちだ。
「鬱病は脳の中のセロトニンの量が減っているのが原因です」という言い方は
正しくない。
「鬱病の時は、脳の中でセロトニンの量が減っています」ということが
わかっただけだ。
セロトニンを増やしてやる薬を飲めば症状は軽減する。
しかしそれは鬱病の原因に対処したわけではない。
原因にも対処しなければ、服薬は症状との追いかけっこに過ぎない。
氣滞から出た反応点に適切な刺激を与えることによって
氣滞を消したので、症状も無くなった。
それは見事な治療になる。
しかしではなぜそこに氣滞ができていたのか。
そこに迫らなければ、再発してしまうのではないだろうか。
多くの、さまざまな病気について、同じことが言える。
科学が進み、医学が進んで、病気の時の身体の働きについて、
目に見えないホルモンや神経の働きまで解明されてきた。
しかし、病態はあくまで病気の本体ではない。
病気の本体、原因は何か。なぜ人は病気になるのか。
そこはまだ科学に乗っていない。
科学に乗せるのが難しいものって、
知恵によってとっくに答えが出ていたりする。
わかりきっているような気がする。
科学的に解明されていない、という言い方をすることで
現代人の目はかえって曇っている。
つづく
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