[あらすじ] 『トランスジェンダリズム宣言』(2003)の編著者である、よねざわいずみさんに会ってお話ししたよ。
私が『トランスジェンダリズム宣言』を読んだ感想の一つ。
数人の執筆者が専門分野について書いているのが良いが、
全員、トランス女性なのが不満だ。
トランス男性や、ジェンダーが曖昧な人も参加していたら、
もっと視野の広いものになっただろうに。
※
逆の思いも同時に有る。
トランス女性からの視点として、よくまとまった本だ、という見方だ。
一冊の本としてまとめるに当たって、あんまり視野を広げると、
何が言いたいのか的が絞れなくなってしまう。
あまり細分化しても視野狭窄に陥りかねないが、
トランス女性という括りは妥当なところだ。
※
『トランスジェンダリズム宣言』というタイトルは魅力的だ。
このタイトル一つにも、力強い気持ちを感じる。
ただ、「トランスジェンダー」と言ったら、トランス女性以外も含む言葉であろう。
副題にでも「トランス女性の視点から」とかなんとかいったことを添えていたら
私は納得しやすかったと思う。
※
この本を読むより2年ほど前に、
田中玲著『トランスジェンダー・フェミニズム』2006
を読んだ。
感想文をこのブログで書いたつもりになっていたが、
まだ書いていなかった。
感想を書くためには、内容を要約する必要が有り、
また、この本の内容は一般に伝えるためにはいくらか説明を加える必要も有りそうで、
ちょっと私には荷が勝って、後回しにしていたのだ。
田中さんは大雑把に言うとFTM(女性から男性への性別変更者)だ。
これは本当に大雑把な言い方だ。
例えば私が「私はXジェンダーです。」って言うのも大雑把で、それと同じように大雑把だ。
ひょっとすると本人はMではないのかもしれないし、FTMという言い方がお嫌いかもしれないし。
なんてなことを踏まえつつ、大雑把に。
自分のジェンダーについて大雑把ではなく書くとどういうことになるかというと、一冊の本になる。
それがこの本だと私は思う。
この本では、田中さんの個人史や思想について述べられている。
それも2006年の時点での、ということになるのだろう。
※
私はこの本も共感するところが多く、繰り返し読んだ。
思春期の自分の身体に対する違和感とか、
戸籍をはじめとする様々な制度への疑問とか、
家族制という社会通念と、そのおおもとが何かということとか。
ただ、一人のFTM個人が書いているところが弱い、と感じた。
複数の人の視点を交えれば、説得力が高まりそうなのに。
たとえば一章だけでも、座談会か、対談でも良いから入れたら、
客観性が増さないか。
※
これまた、逆の思いが同時に有る。
性とは、実に個人的な体験である。
ある個人がしっかりと自分に向き合って、
ある程度の正直さをもって語る、という表現が必要だと思う。
でないと、他者には想像もつかない。
いやそもそも、他人の性のあり方について想像する、ということが間違っているか。
間違っているというか、普段、それはあまりしようとしない。
お互いあんまり相手の性については想像しないようにしようね、
という暗黙のルールが有る。
だから、性の問題は沈潜しやすい。
そこを明らかにする作業が必要だ。
今の時代もいまだに必要だ。
そのためには、個人が自身を語る本は必要だと思う。
※
よねざわさんとお話ししていたら、
この『トランスジェンダー・フェミニズム』は、実は
『トランスジェンダリズム宣言』に対してのアンサー・ソングとしての著作だ、
ということを聞くことができた。
田中さんは、『宣言』に対して、執筆陣がMTFしかいない、といった点で批判して、
FTMの立場からのトランス論として『トランスジェンダー・フェミニズム』を書いたのだそうだ。
なるほど、それなら両者が対照的なのに納得がいく。
それぞれがそれぞれの役割を果たしていると言える。
※
補完的な2冊だと言えるが、
もちろん、この2冊でトランスジェンダーを語り尽くしているわけではない。
トランスの裾野は広い。だだっ広い。
それぞれの裾でそれぞれが仕事して、
何年かおきに総括的な案内本でも出るような、
そんなような活気をぼんやりと想像しつつ。
私が『トランスジェンダリズム宣言』を読んだ感想の一つ。
数人の執筆者が専門分野について書いているのが良いが、
全員、トランス女性なのが不満だ。
トランス男性や、ジェンダーが曖昧な人も参加していたら、
もっと視野の広いものになっただろうに。
※
逆の思いも同時に有る。
トランス女性からの視点として、よくまとまった本だ、という見方だ。
一冊の本としてまとめるに当たって、あんまり視野を広げると、
何が言いたいのか的が絞れなくなってしまう。
あまり細分化しても視野狭窄に陥りかねないが、
トランス女性という括りは妥当なところだ。
※
『トランスジェンダリズム宣言』というタイトルは魅力的だ。
このタイトル一つにも、力強い気持ちを感じる。
ただ、「トランスジェンダー」と言ったら、トランス女性以外も含む言葉であろう。
副題にでも「トランス女性の視点から」とかなんとかいったことを添えていたら
私は納得しやすかったと思う。
※
この本を読むより2年ほど前に、
田中玲著『トランスジェンダー・フェミニズム』2006
を読んだ。
感想文をこのブログで書いたつもりになっていたが、
まだ書いていなかった。
感想を書くためには、内容を要約する必要が有り、
また、この本の内容は一般に伝えるためにはいくらか説明を加える必要も有りそうで、
ちょっと私には荷が勝って、後回しにしていたのだ。
田中さんは大雑把に言うとFTM(女性から男性への性別変更者)だ。
これは本当に大雑把な言い方だ。
例えば私が「私はXジェンダーです。」って言うのも大雑把で、それと同じように大雑把だ。
ひょっとすると本人はMではないのかもしれないし、FTMという言い方がお嫌いかもしれないし。
なんてなことを踏まえつつ、大雑把に。
自分のジェンダーについて大雑把ではなく書くとどういうことになるかというと、一冊の本になる。
それがこの本だと私は思う。
この本では、田中さんの個人史や思想について述べられている。
それも2006年の時点での、ということになるのだろう。
※
私はこの本も共感するところが多く、繰り返し読んだ。
思春期の自分の身体に対する違和感とか、
戸籍をはじめとする様々な制度への疑問とか、
家族制という社会通念と、そのおおもとが何かということとか。
ただ、一人のFTM個人が書いているところが弱い、と感じた。
複数の人の視点を交えれば、説得力が高まりそうなのに。
たとえば一章だけでも、座談会か、対談でも良いから入れたら、
客観性が増さないか。
※
これまた、逆の思いが同時に有る。
性とは、実に個人的な体験である。
ある個人がしっかりと自分に向き合って、
ある程度の正直さをもって語る、という表現が必要だと思う。
でないと、他者には想像もつかない。
いやそもそも、他人の性のあり方について想像する、ということが間違っているか。
間違っているというか、普段、それはあまりしようとしない。
お互いあんまり相手の性については想像しないようにしようね、
という暗黙のルールが有る。
だから、性の問題は沈潜しやすい。
そこを明らかにする作業が必要だ。
今の時代もいまだに必要だ。
そのためには、個人が自身を語る本は必要だと思う。
※
よねざわさんとお話ししていたら、
この『トランスジェンダー・フェミニズム』は、実は
『トランスジェンダリズム宣言』に対してのアンサー・ソングとしての著作だ、
ということを聞くことができた。
田中さんは、『宣言』に対して、執筆陣がMTFしかいない、といった点で批判して、
FTMの立場からのトランス論として『トランスジェンダー・フェミニズム』を書いたのだそうだ。
なるほど、それなら両者が対照的なのに納得がいく。
それぞれがそれぞれの役割を果たしていると言える。
※
補完的な2冊だと言えるが、
もちろん、この2冊でトランスジェンダーを語り尽くしているわけではない。
トランスの裾野は広い。だだっ広い。
それぞれの裾でそれぞれが仕事して、
何年かおきに総括的な案内本でも出るような、
そんなような活気をぼんやりと想像しつつ。
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