犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

ゲゲゲの調布発信
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善意の無関心

2018年05月30日 | LGB&T
[あらすじ] 「同性愛者に理解がある」、信頼している人に、とんちんかんな助言をされた。
「今の生活じゃ出会いは無いでしょ。レズビアンのイベントとかに行きなさいよ。」
いや私は出会い目的で街に出るのは性分じゃないし、
そもそも出会いが無くて困ってはいない。


「理解がある」ようにふるまっていても、実は理解にはほど遠い所にいるのではないだろうか。
「今の生活じゃ出会いは無いでしょ。」とこの人は言ったが、
それは、「今の生活じゃあなたと恋愛できるレズビアンとの出会いは無いでしょ。」
という意味のようだ。
でも私は自分の生活の中で出会った人と恋愛してきている。

この人でなくとも、「レズビアンはレズビアンと、ゲイはゲイと恋愛するものだ。」と
思われているフシがある。
まあ、そう思っておけば異性愛者会は安泰である。
こっちに手出しして来なければ、好きにやっていていいよ、というわけだ。

同性愛者は同性愛者で囲い込んでおけばいい。
でもそれってまさにアパルトヘイトじゃない?
「同性愛者は同性愛者同士恋愛するものだ。」という思い込みは、
同性愛者を囲い込み、異性愛社会と分離するということと
繋がっているように思える。

理解している受け入れている、という態度の人にも、
こういった無理解は有る。
「自分は異性愛者だから、同性愛者と恋愛することは無い。
同性愛者同士やってるんだからそれはそれでやってればいいよ。」
もちろん、このスタンスも悪いことではない。
ほっといてもらえたら私としても万々歳である。
「良い男性に巡り会わなかったのね」とか「オレが治してやる」とか
そんな関わり方をされるより何億倍良いか知れない。

ただ、無関心であることにはかわりない。
「受け入れている」とは言え「そっちで勝手にやってればいい」というくらいの意識なら、
それ以上に興味は持たない。
ゲイがどんな文化を持っているか、レズビアンマザーがどんな生活をしているか、
知る必要が無い。
反対もしないけど、協力もしない。

私が「今の生活」の中でも恋愛できているように、
「自分は異性愛者だ。」と思っている人とも関わってきている。
性愛の指向なんて、流動的なものだと思う。
固定観念と言うが、固定されているのは観念であって、
事実はさほど固定されていない。

ただ、それを認めてしまうと、世の中の仕組みがひっくり返る。
自分の生活もひっくり返る。
具体的に何がどれだけひっくり返るかは、あらためてねちねち書きたい。
世の中を、自分の生活をひっくり返されるというのは、困る。
よほど不満が有る状況でもなければ、「今のまま」が良いものだ。
安泰を揺るがされるような気がして、「同性愛者は同性愛者同士」ということに
しておきたいのではないかと思えてならない。

そんなに怖いことではない。
共存できる仕組みに変えても、異性愛者の既存の権利が損なわれるわけではない。
具体的には同性婚を認めることなどだ。

権利を認めず、追いやって囲い込んで関わらないようにするか、
制度の枠をちょいと広げて、共通の地盤の上で生活できるようにするか。
後者のほうがより平穏だと思う。


次回?は「同性愛者が見えない理由」について考えてみる。

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