犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

ゲゲゲの調布発信
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「男」「女」「どちらでもない」

2019年04月02日 | LGB&T
昨日は一日。毎月一日には法螺を書いている。
っていうか、四月一日だし。エイプリルフールだし。

昨日書いたことは、例によって、9割方嘘でない。
最後まで書いてみて、一つも法螺を吹いていないことに気付いた。
一体これで法螺と言えるのか?



性別はうまれつき決まっているもの。
という認識が大半のものだと思う。

それが、そうでもない。
性別を変える手術と、そのための法律も、
ゆっくりではあるが整ってきている。
自分がどうありたいか、というところに身体を合わせる、
ということができるようになってきている。

性別も、自分で選択して決定することができるものの一つなのだ。



身体的には女性だけど、自分の認識としては女性であることには違和感があって、
でも男性になりたいわけじゃない。
というふうに言うことにしている。
今んとこ、そこに落ち着いているからだ。
そこに落ち着くまでの変遷や、落ち着いているとは言え揺らぐ範囲についてとか、
今ほんとうにそこで落ち着いて安らかなのかとかいったことについて
語り始めればきりが無い。



性別はグラデーションだ、という言い方がある。
性別は男か女の二つだ、という意識に対して言われる。
しかし、グラデーションの棒だと、両端ができてしまって、
「男らしい男」と「女らしい女」という存在を認めることになってしまう、
という反論がまた出てくる。

文化だけでは語りきれないし、ましてや解剖生理だけで説けるものでもない。



『名探偵コナン』の番組予告が流れる。
「雌雄を決する時が来た!」なんて言っている。
勝負をつけることを小難しい表現でかっこよく言いたかったのだろう。
女と男は陰と陽。
優劣や勝敗を男女で表す言葉に、フェミニストは黙ってんのかな?

古い言葉だからしかたない?
儒教的価値観から出た言葉を使い続けることは
その規範を受け入れることになるのではないか。
何も男女に例えなくとも、
優劣のことは優劣と言い、勝敗のことは勝敗と言えばいいじゃないか。



話が文化的なことにズレちゃった。
自分の身体的な感覚について書こうと思っていても、
文化的なことも無関係ではないのだ。

たぶん、私は自分の雌雄を決することは、当分したくないのだ。
ジェンダーが有ることを踏まえての世の中に、反発したいというか、なんというか。
どっちにも与したくないというか、なんというか。
ふわっとしていたいというか、なんというか。

でも蝙蝠のような気分は不安定でもある。



アンケートによくある、
「はい」「いいえ」と、中間の「どちらでもない」。
性別の記入欄も
「男」「女」の間に「どちらでもない」が有ってもいいな。
私のような者のために。



私がもし、今さらトランスするとすれば、
それは、女性ではなくなるため、だろう。
より明確に、男女どちらでもなくなるために。



「どちらでもない」人たちともっと関われば、
私ももうちょっと安心するだろう。
でもコミュニティって狭くってめんどくさっ。という気持ちが勝つ。
そんなところね、法螺抜き正直言って。

ただ、「どちらでもない」の人の数も増えているような気もする。
また、「どちらでもない」という選択肢が有るということが広まれば、自ずと数が増えると思う。

このことを指して、日本では「X(エックス)ジェンダー」という言葉が有る。
裾野の広い言葉だ。
いいねえ。

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