犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

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遺品とともに整理されていく

2020年01月27日 | 日々
私は、親戚づきあいをほとんどしていない。
世の人が親戚づきあいをしているのを、横眼で見ては、
なんだかよくわからない、と感じている。

わりに近くに住んでいるので、親切にしてくれる親戚がいる。
それはありがたいと思う。
しかし、それは友人知人と付き合うのと、感覚として違わない。



親戚づきあいの話を聞くと、
いとこ世代がいる人ほど、付き合いが濃厚になっているような気がする。
やはり、同世代が付き合いやすい、ということなのか。

母は四人姉妹の一番下だった。
父は兄弟の中では下から二番目で、母とは再婚であった。
当時は高齢出産と言われる、母が36歳の時の子だったこともあり、
いとこ世代は皆、自分よりずっと年上だった。

もともとの内向的な性格もあって、法事などが有っても
いとこと遊ぶということでもなかった。



親戚の集まりが有っても、誰が誰なのやら、よく分からなかった。
母が小声で名前を教えてくれたが、それだけのことだ。



亡父の書斎を片付けていると、古い写真や手紙の束や日記帳などが出てくる。
その一部分は、肝癌で他界した前妻の物であった。
彼女の写真や彼女からの手紙という意味ではない。
彼女の所有物を、保管してあった、という意味だ。

その人との間に、男の子が一人いた。
その子が幼いうちに再婚し、数年後、私が生まれた。
兄とは12歳違いであった。

その兄は、私が小学2年生の終わりに、
一人、運転する車で、高速道路の壁に突っ込んで死亡してしまった。



兄は母親が違う、ということを母から聞いたのがいつだったか、憶えていない。
ただ、兄の存命中ではなかったはずだ。
憶えていないので、中学生になっていたか、もう少し幼かったか。



古い写真の中に、見憶えの有る親戚の顔を見つける。

考えてみると、親戚の大人たちは、私に対して自分をどう自己紹介して良いものか、
困っていたのではないだろうか。
「あなたの死んだお兄さんを産んだお母さんのお父さんですよ。」
ってわけにもいかんもんね。



そんな次第で、父の前妻のほうの親戚に、親戚らしい親しみを感じることは無く、
ついでに他の親戚も似たような遠い感じを持ち続けることになった。

そんなふうに思う。



また、自分の性的指向が同性に向き、性自認はすっきり女性とも思えないと自覚してからは、
ますます親戚というものが面倒になった。
親戚なんてものは、異性愛有ってこそ成立し、盛んに広がるものだ。
そこに自分は、どう位置すれば良いのか、分からない。
いまだによく分からない。
分からなくてもいい。
また、わざわざ親戚に対してカムアウトして位置をはっきりさせる気も、全く無い。
そういうことをしたら、親戚の中のどこかの子どもの希望になったり、
誰かの価値観をちょいと変えることも有るかもしれない。
けれど、そこまでして付き合う気も、また無い。
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