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犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

ゲゲゲの調布発信
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自洲法洲

2021年12月19日 | 椰子の実の中
[あらすじ] サンスクリットを学ぶついでに、
東大仏教青年会で「チベット仏教入門」を受講した。
始まってみるとそれは「仏教入門」でもある内容で、
講師はどんどん問いかけてくる。
問答だ。

受講するきっかけの一つは、
河口慧海の『チベット旅行記』だった。
その中にも、チベットでの僧侶の一日の過ごし方が書かれている。

寺院の広場に何人もの僧侶が集まって、
激しく問答を繰り広げる。

講座「チベット仏教入門」の前期では、
講師自身がチベットの僧院で過ごした際の話も
多く紹介されたようで、
そっちを受講すりゃ良かったと悔やむばかり。
最終回だけ聴講したのだが、
現在も僧院での問答の伝統は変わらず続いている様子であった。

そういう場で学んできた人だから、
ZOOMでの入門講座でもばんばん問いかけるのではないか。



仏教信者とは、「仏法僧に帰依する人」のこと。
ほんじゃその仏法僧に重要度の上下は有るか、という問い。

知識が無いので、自分で考える。

僧つまりサンガ、僧侶としての集団生活における戒律も
大事だろうけれど、
出家者ではない者にとってはなんのこっちゃいである。

法つまり真理は絶対、永遠、不変のものだ。
これじゃないか。

仏ってなんだっけ?ブッダつまり悟りのことか。
解脱を目的とするのなら、これが重要かな。
あいや、仏はブッダ個人を指すのか。
じゃやっぱ法だろ。

他の人たちは、知識が有る。
「じすほっすと言うので、法です。」

これにはなんか明確な答えが有るんだな。



講師は中村元訳『ブッダ最後の旅』から引用する。
ゴータマ・シッダールタくん(以下ブッつぁん)が死ぬ間際に
弟子たちに遺したと言われる言葉がある。

「向上につとめた人は『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、
あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない。」
つまり、ブッつぁんに頼って救ってもらうとか考えるなよ、
それにブッつぁんがサンガを導くわけでもないぜ、と言っている。
また、

「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、
法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。」
自分自身で、ただ真理のみを追求しろ、と言っている。

これを自洲法洲じすほっすと言う。
洲は、「砂洲」などと言うように、
流れの中の島のことだ。

「身体について身体を観じ」
「感受について感じを観察し」
「心について心を観察し」
「熱心に、よく気をつけて、念じていて、
世間における貪欲と憂いとを除くべきである。」
身体と感覚と感情を細心に観察しろ、と言っている。

ついでに、
「向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく
一部の感受を滅ぼしたことによって、相の無い心の統一に入ってとどまるとき、
そのとき、かれの身体は健全(快適)なのである。」
とも言っている。



いつも観察して、そして問いを持って、答えを求めて、
考えたり、憶測しないように慎重に区別したりして、
そして観察に立ち返って、
それをやってりゃ仏教の言葉をわざわざ学ばなくても良さそうだ、
これって傲慢?という疑問を持っていたが、
解消した。

教わりたい人は教われば良いけれど、
私は教わってもまるで身に付かないばかりか、
頭にも入って来ない。
自分でなんとかするしかない。

自分で考え出した事や誰かが言っている事などにまやかされないように気を付けて、
あきらかにそこにある真理だけを自分の目で見る。

ただ、迷ったり、時間がやたらとかかったり、
見えてんのに見えてないと考えたりしちゃう、っていう問題は有んのよねー。
ところどころに先達の洲が有ると助かる。

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