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【記事紹介】7月9日 ダイヤモンド・オンライン 「悶える職場~踏みにじられた人々の崩壊と再生(第1回)」

2013-07-09 16:50:20 | 記事紹介
昼夜を問わぬ異常な激務を同僚でさえ見て見ぬふり!
夫の過労死をめぐって組織の闇と戦った妻の25年間

悶える職場~踏みにじられた人々の崩壊と再生 (吉田典史|ダイアモンド・オンライン)
写真:夫を過労死で亡くした馬淵郁子さん(渋谷にて)


今、ビジネスマンは喘いでいる 俯瞰的な報道で真実はわからない

 企業で働くビジネスマンが喘いでいる。職場では競争原理が浸透し、リストラなどの「排除の論理」は一段と強くなる。そのプロセスでは、退職強要やいじめ、パワハラなどが横行する。

 最近のマスメディアの報道は、これら労働現場の実情を俯瞰で捉える傾向があるように思える。たとえば、「解雇規制の緩和」がその一例と言える。事実関係で言えば、社員数が100以下の中小企業では、戦前から一貫して解雇やその前段階と言える退職強要などが乱発されている。解雇にまつわるトラブルは、決して新しい問題ではない。

 にもかかわらず、こうした積年の課題が深く吟味されないまま、「今の日本には解雇規制の緩和が必要ではないか」という論調が一面で出てくることについては、理解できないものがある。

 また、社員に低賃金での重労働を強いる「ブラック企業」の問題も、あたかも特定の経営者が率いる企業で起きている問題であるかのように、型にはめられた批判がなされる。だが、バブル崩壊以降の不況や経営環境の激変の中で、そうした土壌は多かれ少なかれ、世の中のほとんどの企業に根付いていると言ってもいい。

 これまでのようにメディアが俯瞰でとらえる限り、労働現場の実態は見えない。筆者の持論であるが、会社は状況いかんでは事実上、社員を殺してしまうことさえある。また、そのことにほぼ全ての社員が頬かむりをし、見て見ぬふりをするのが現実だ。職場で行われる退職強要やパワハラについて、大半の社員は沈黙を守り、企業内労働組合は抵抗することすらしない。こうした劣悪な労働現場には、社員を苦しめる「狂気」が存在するのだ。

 この連載では、理不尽な職場で心や肉体を破壊された人々、最悪の場合はそれがエスカレートして死に至った人々やその遺族などに取材を試み、彼らの横顔を浮き彫りにしていく。そして、踏みにじられた人々が再生していくプロセスにも言及し、転機を迎えた日本の職場が抱える問題点や、あるべき姿を提言していきたい。

 連載第1回は、ブラック企業で働く若者などを中心に、現在も水面下で増え続けている「過労死」問題に焦点をあてる。日本で過労死認定がなされ始めた頃に話題になった事件の被害者家族は、今、どんな思いで日々を過ごしているのだろうか。



後を追って死ぬことができたらどれだけ楽なことか……。

 「私は許していない。私の心は、あのときに死んだの。遺族の心は、何十年経っても癒えない。彼は、殺されたのだから……」

 馬淵郁子さん(73歳)は、夫の死についてゆっくりと話す。英語に堪能で、時折横文字を交えて説明する。

 「あのときは、夫の遺体を前に何が何なのか、わからなかった。彼の書いたものを見ることができるようになったのは、12年後だった……。その頃に『もう、私たちのところに帰ってこないのね』としみじみ思った」

 夫のカンラスさんは1988年7月、心臓発作(虚血性心疾患)により死亡した。61歳だった。65歳の定年を4年後に控えていた。夫の死は1990年、過労死に認定された。都内では初めての認定(中央労働基準監督署)であり、全国では2人目だった。

 夫が死亡し、4ヵ月が過ぎようとした頃、次女(当時13歳)が作文を書いた。その一部を抜粋し、紹介したい。

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『見ていてください、天国のパパ』

 父が亡くなって四か月がたとうとしています。あっという間でした。今では家の中がとても寂しくなりました。

(中略)

 パパが亡くなってからというもの、食事らしい食事があまり食べられません。最近は、母に文句を言って、ちゃんとした食事を作ってもらいます。

 でも、ほしいものでも少しがまんをしています。中一の私には、ほしいものがたくさんあります。自転車・ステレオ・洋服etc…。けれど、もう楽ができないということを自分で判断しています。

 母が働いて、姉がバイトをして今やっとこ生活ができるくらいです。でも、私はパパがいなかったと言ってひもじい思いをするのはいやです。パパがいたから楽な生活ができたことは感謝しています。

(中略)

 今はまだ無理かもしれないけど、絶対お母さんを楽にさせてあげたいです。お姉ちゃんの結婚する姿、孫、見たかったと思います。けれど、もう見れません。

(中略)

 父のお葬式、初七日、四十九日、母は父のためにどんなお金も出しそうです。

 生活がどんなに苦しくなっても、父にはずかしくなくすることが、一番やることなんです。これからも、母を柱として、頑張っていきたいです。

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「泣けるのはまだ余裕があるから」 突然、夫の死を告げられた妻は……。

 死は、急に告げられた。

 1988年7月2日の午前3時、万世橋警察署(千代田区)から自宅に電話が入る。警官は「遺体の確認に来てほしい」と言う。馬淵さんは夜の明けた後、駿河台日大病院(千代田区)に駆け込んだ。夫が横たわる。冷たくなっていた。

 「涙が出なかった。泣けないのよ……。泣けるのは、まだ余裕があるからだと思う」

 夫は外資系海事会社の日本支社で、鑑定人(サーベイヤー)として働いていた。その日は、千葉県君津市の港で仕事を終え、JR秋葉原駅で最終の山手線に乗り換えようとした。そのとき、心臓発作に襲われ、息を引き取った。

 馬淵さんは、遺体をみつめながら「過労死」であることを確信した。その場には、上司も駆けつけた。動揺していたという。

 馬淵さんは、その場で思った。過労死であることを会社や行政に認めさせたい、と。それが、夫の無念な思いを晴らすことになる。その場で怒りをぶつけることはしなかった。

 「業務上の死であり、過労死であることを認めさせるまでは……。そのためには、会社に様々な書類を提出してもらわないといけない。同僚らの証言も必要になる」

 馬淵さんは、冷静であり続けた。過労死の認定を勝ち取ろうと、署名集めをする。

 「こういう死を許してはいけない。会社はあれほどまでに酷使し、いざ死んでしまうと、業務上の死とは認めない。それは、あまりにも不合理……」

 馬淵さんは農業団体で働き、2人の娘を養いながら闘いを続けた。当時は過労死の存在すら、社会で広く知られていなかった。



深夜であろうと休日であろうと出社 「会社はスレイブ・ドライバーだ」

 夫の職場でのニックネームは、「プロフェッサー」(教授)。生前の写真を見ると、温厚で誠実で、インテリな雰囲気を漂わせる。フィリピンで生まれ育ち、母国語のビザヤン語を始め、英語やスペイン語、インドネシア語などに精通していた。

 馬淵さんは写真に視線を送り、少し照れ笑いをしながら話す。

 「私が当時、50歳。一回り近く年上で、寛大な人だった。彼は心が広い人だから、頼り切っていた。それだけに、彼を失った喪失感は……。後を追って死ぬことができたら、どれだけ楽なことかと思った。けれど、2人の娘(当時18歳・大学1年と13歳・中学1年)がいたから、無責任なことはできない」

 夫は23年間、船の航海士をしていた。船長の資格も持っていた。40代からは、アメリカに本社のある外資系海事会社の日本支社で、鑑定人(サーベイヤー)として働いた。

 港に停泊する船に泊まり込み、船荷、船体、海上火災などの鑑定業務を厳密に行い、鑑定報告書をつくる。

 責任感の強い夫は、仕事に邁進した。船に事故があれば、深夜であろうと休日であろうと職場に向かう。ときには飛行機に乗り、港に向かう。そのような出張から戻ると、夜遅くまで報告書などをつくる。



仕事が押し寄せ、家に持ち帰る 妻が手伝うほどの激務が15年間も

 馬淵さんは、25年前の、6月25日のことを最近のことのように話す。

 「寝ようとしてベッドに横たわった後も、仕事のことが気になるようだった。起き上がり、着替えて君津の港に向かった。仕事を断ることができない性格だったの。長時間の過密労働と、ストレスも大きかったと思う」

 死亡する前の15年間は仕事が押し寄せ、家に持ち帰り、馬淵さんが手伝うほどだった。上司からの指示のものもあれば、取引先から指名で依頼を受けることもあった。

 日本支社には50人ほどの社員がいたが、夫は語学に堪能で、鑑定や報告書の作成などに慣れているために、その代わりになる人が見つからない。

 さらには、社内には労働組合がない。入社時には、人事担当者などから社外の労働組合には入るべきではないと言われていたという。仕事は、夫に集中する。いつも、夫は「会社はスレイブ・ドライバー(奴隷使い)だ」と家で漏らしていた。亡くなる2ヵ月前には、「もう、辞めたい」と口にしていた。

 部長からは休日、家にまで電話があり、仕事の指示がなされた。馬淵さんは夫の身を案じ、居留守を使うこともあった。それでも、夫は休日を返上し、現地に向かう。仕事のスキルが高いがゆえに、次々とこなす。すると、一層仕事が増えていく。また、休日に家に電話が入る。そして出社する。この繰り返しだった。

 馬淵さんは見るに見かねて、「もう、辞めなければダメ」と説得する。しかし、夫は自分の代わりがいないと、仕事を引き受ける。

 大きな病気を患うことはなかったが、晩年は血圧がやや高かった。夫の死後、馬淵さんは、夫が受けた会社の健康診断の結果を3年分、提出することを求めた。高脂血症と胃炎になっていることを知った。

 「鑑定のときには、30メートルほどの船底に降りていく。あの頃は、タバコを止めたこともあり、やや太り気味だった。階段の上り下りが心臓などにも負担になり、心拍数が上がっていたんじゃないのかな。徹夜も多かった……」



上司に呼び出された夫の「最後の姿」 電話をしても取り次いでもらえない

 1988年6月26日、日曜日。2人の上司が、3分おきに家に電話をしてくる。緊急で千葉県君津市の港に向かってほしいという指示だった。

 夫は翌朝早く、君津港から都内の大井ふ頭での鑑定に向かい、その後、君津に戻った。馬淵さんはつぶやく。

 「あのとき、行くことを止めておけばよかった……。今でも、常に後悔している」

 君津で検査する船荷は、鋼材だった。検査は雨が降らなければ、3~4日で終わる。だが、夫からは電話がこない。

 このようなことは、初めてだった。馬淵さんは心配し、会社に1日に3回ほど電話を入れる。「夫を帰してほしい」。電話に出る社員は「カンラスさんは仕事が忙しく、終わらない」と返答する。

 当時は、携帯電話がない。下船して、電話を入れる時間すらないくらいの忙しさだった。仕事はさらに延びる。1週間にわたり船に泊まり込み、対応した。徹夜の作業もあった。

 ようやく、仕事を終えたのが7月2日。夜10時20分、夫から電話が入る。「君津にいる。これから帰る」。これが、夫婦の最後のやりとりになった。夜半過ぎ、JR秋葉原駅の構内で心臓発作に襲われ、息を引き取った。



過労死の認定書をとるべく奔走するも 夫と仲の良かった同僚らは知らん顔

 馬淵さんは、過労死の認定を勝ち取ることが「自らの使命」と信じた。労災の申請を受けた労働基準監督署は、夫の仕事の状況、労働時間、病歴などを調査し、業務上か業務外か(労災にあたるかどうか)の判断を行う。

 馬淵さんは、夫の仕事の状況を証明した書類や陳述書の提出を会社に求めた。それらを確認すると、事実関係として誤りが多かった。誤りがみつかるたびに、修正を求めた。

 その頃、夫が3人分のサーベイヤーの仕事をしていたことを知った。会社は、そのことを隠していた。

 業務上の死であることを立証するために、夫の同僚らに証言を依頼したが、難航した。同僚には、馬淵さんが書いた報告書にサインをしてもらうことを求めたが、なかなか承諾をしない。

 「夫と一番仲がよかった人たちから、証言を得ることが最も難しかった。協力すると、会社から睨まれて災難がふりかかると思っていたのかな……」

 少し考え込む表情を見せて、話す。

 「あのときに痛感した。会社って、組織って本当に冷酷……。会社員が自己保身的になり、会社の上の人たちは社内のことを必死に隠そうとする。これは、世界の国々で見られること。だけど、日本ほどひどい国は少ないと思う」



会社って、組織って本当に残酷 日本の社会は根底に愛が足りない

 馬淵さんは、いざとなると日本人の多くの会社員が、自己保身のあまり、職場の不当な行為を覆い隠す傾向があることは、宗教観と関係があると指摘する。

 「宗教観が他の国と比べると、希薄だから、他の人への愛がないように見える。日本の社会はその根底に、愛が足りないように思う」

 馬淵さんは過労死の認定を得た後、1990年5月、「東京過労死を考える会」を結成した。さらに1991年に「全国過労死を考える家族の会」を結成した。そして、過労死で死亡した人の遺族から相談を受け始めた。遺族は、うつ病になる人が多かった。「自殺をしたい」と漏らす人もいた。「遺族ならば、それが普通のこと」と説明する。

 過労死の遺族からの相談を受ける際、自分が会社と交渉していた頃を思い起こすことがあった。

 「大企業も、証拠書類はなかなか出さない。タイムカードすら提出しない。ときには偽造をする。社員も証言することを拒む。自分には、過労死が降りかからないと思い込んでいる……。会社という組織は冷酷なの」

 また、世の中の過労死の実態は、夫が死亡した25年前と比べて悪化していると見ている。

 「社員がリストラなどで減り、1人が抱え込む仕事量が増えている。しかも、仕事ができる人に集中する。そして、パワハラがエスカレートする。社員や企業内労働組合は何も言わない。サービス残業なんて、勤務の記録にすら残らない。これでは認定もされない。私には、実質的な殺人に見えるの。人が死んでいるんだから……」

 夫を亡くした直後(1991年11月)、他の遺族らと無念な思いや、喪失感、空しさなどを赤裸々らに綴ったのが、『日本は幸福(しあわせ)か―過労死・残された50人の妻たちの手記 』 (全国過労死を考える家族の会 )だ。当時、静かに話題となった。54人の未亡人の声なき声に目を通すと、職場のあり方は今も何も変わっていないことがわかる。

 馬淵さんは「過労死防止基本法」制定に向け、100万人の署名を集めている。現在、44万に達した。超党派の国会議員に制定を呼びかけ、制定に向けて、同制定実行委員会が闘いを展開中だ。

 25年前は、日本で「過労死」という言葉が知られるようになった時期であり、その後、精神疾患などになった挙げ句の「過労自殺」といった言葉も浸透し始めた。これらの事件の労災申請は、過去最多の水準で推移している。今年5月には、国連が日本政府に対して、過労死防止対策の強化を求める勧告を出している。

 忘れてならないのは、25年前よりは労災認定の基準などが緩和されてはいるものの、闘うことを諦め、泣き寝入りをした遺族が相当数に上っていることだ。さらに、一部の企業が「生活保障金」などといった名目で、一定のお金を遺族に支払い、死に至った経緯などを封印したケースもある。

 これは決して他人事ではない。現在、「ブラック」と呼ばれる職場で理不尽な働き方を余儀なくされている社員も、こうした「過労死事件黎明期」のケースを紐解きながら、日頃から対策を考えておいたほうがよかろう。



踏みにじられた人々の崩壊と再生

 この連載では毎回、記事に登場する取材対象者の「崩壊と再生」を私なりの分析で捉え、記事末で述べることにする。今回は、25年以上の長きにわたって、馬淵さんがかつての夫の会社に厳しい眼差しを向け続ける背景を私なりに考えてみたい。それは、過労死が家族の心にいかに深い傷を残すか、ということへの問題提起であり、その課題が解決しない限り、遺族の再生は始まらないと言える。


 1.死者や遺族の尊厳を徹底して否定する社会への怒り

 馬淵さんの話をうかがうと、2年前の震災で家族を失った一部の遺族とオーバーラップするものが多かった。震災後に筆者が取材した遺族は、子どもを死なせた幼稚園や小学校などに異議申し立てをしていた。家族の死は「自然災害」によるものではなく、「人災」だったというものだ。

 馬淵さんも、夫の死は心臓発作によるものと心得ながらも、「死に追いやる何かがあった」という疑いを持った。そして、労災認定を勝ち取るために動いた。

 遺族が不信感を持ち、怒りを持つ大きな理由の1つはここにある。死に至る状況をつくりながらも、組織が真相を封印しようとする。経営陣や社員らは御身が大事と言わんばかりに無関心を貫く。

 生前は、死亡した社員(家族)を散々利用しておきながら、死後は一転してその社員がいなかったかのように扱う。そこでは、死んだ人やその遺族の尊厳が徹底して否定される。ここが、大きな問題なのだと思う。

 この極端な組織防衛や自己保身には、職場や社会から強い批判が浴びせられ、歯止めがかからないといけない。しかし、私が知る限り、そのような人はごく少数だ。

 馬淵さんは取材で、「日本の社会に愛がない」と指摘する。その愛は、不当な行為などを許さない、という意思と置き換えてもいいのかもしれない。馬淵さんが怒りを持ったのは、会社や行政だけではなく、日本の社会や日本人の意識のあり方だったのではないだろうか。


 2.過労死を生みながらも誰にも何も言わせない構造の矛盾

 生前、馬淵さんの夫には仕事が集中した。3人分の仕事をしていた。言い換えれば、社員の仕事の量や担当する仕事、つまりは職務範囲、そして配置転換や人事異動、ノルマ(目標)、人事評価などを経営サイドが自由に扱える構造がある。

 過労死を生む理由の1つは、ここにある。社員の仕事の量や担当する仕事にチェック機能が働かない。せめて社員の仕事の量や担当する仕事、そして配置転換や人事異動などについては、労使双方でもっと丁寧に話し合い、相互理解を進める必要がある。

 現在は、大企業から零細企業まで、社員が担当する仕事の範囲や量、ノルマなどは経営サイドのやりたい放題と言える。それに社員が抵抗できないからくりもある。人事評価には、かつては「情意考課」、今では「行動評価」が盛り込まれている。

 つまり、「協調性」「規律」「積極性」「リーダーシップ」などである。これらの評価項目があると、はむかう社員を「協調性がなく、規律を乱す」として排除することもできる。

 大企業では、遅くとも1980年代前半には成果主義的な人事評価が始まっている。30年以上が経っても、経営サイドはこれらの「行動評価」を評価項目から外さない。中には「自己啓発への取り組み」といった項目に、「行動評価」を巧妙に忍ばせている企業もある。

 こうして生活態度や私生活に介入し、ある意味で拘束をし、経営サイドに言いなりになる社員を育成しようとしている。

 ここ十数年、企業が唱えた「会社員よ、プロフェショナルになれ!」といったスローガンの矛盾は、ここにある。本当に職業意識を持った職業人にしていこうとするならば、生活態度や私生活に介入する「行動評価」は止めるはずである。ところが、それを30年以上手放さない。

 一方で、社員の仕事の量や担当する仕事、そして配置転換や人事異動、ノルマ(目標)、人事評価などを経営サイドが自由に扱う構造は温存させる。ここに優秀な人に仕事が集中し、過労死になったとしても、誰も何も言えない構造がある。

 馬淵さんの夫は、こうした因習の犠牲になったと言えないだろうか。


掲載元:ダイアモンド・オンライン|悶える職場~踏みにじられた人々の崩壊と再生[第1回]



***「過労死防止基本法」制定実行委員会が求めていること***********************

  「過労死」が国際語「karoshi]となってから20年以上が過ぎました。
  しかし、過労死はなくなるどころか、過労死・過労自殺(自死)寸前となりながらも
  働き続けざるを得ない人々が大勢います。

  厳しい企業間競争と世界的な不景気の中、「過労死・過労自殺」をなくすためには、
  個人や家族、個別企業の努力では限界があります。
  そこで、私たちは、下記のような内容の過労死をなくすための法律(過労死防止基本法)の
  制定を求める運動に取り組むことにしました。

  1 過労死はあってはならないことを、国が宣言すること
  2 過労死をなくすための、国・自治体・事業主の責務を明確にすること
  3 国は、過労死に関する調査・研究を行うとともに、総合的な対策を行うこと

署名へのご協力のお願い
私たちは「過労死防止基本法」の法制化を目指して、「100万人署名」に取り組んでいます。
署名用紙」をダウンロードしていただき、必要事項をご記入いただいた上で、東京事務所もしくは大阪事務所まで郵送をお願いしたいと思います。

まずは過労死のことや過労死防止基本法を多くの人に知っていただきたいので、ツイッターでつぶやくなどして広めてもらえると助かります。記事の一番下についているボタンからも気軽にツイートできますので、ぜひともご協力お願い致します!
 

連絡先】 ストップ!過労死 過労死防止基本法制定実行委員会
HP:http://www.stopkaroshi.net/
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1 コメント

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めぐみです! (めぐみ)
2013-07-18 20:55:12
このあいだコメントしためぐみです!覚えてますか?覚えていてくれた嬉しいですw(o^-^o) ウフッせっかくなのでメールできませんか?私ブログとかやってないのでお話がしたいです、アドは sumire4785あっとyahoo.co.jpです、待ってますね!(*・・*)ポッ
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