ジャーナリスト活動記録・佐々木奎一

※ブログ下記移転しました(2015年7月以降)
http://ssk-journal.com/

日記 白村江の戦

2015年01月28日 | Weblog

 

 強力な一撃を加えるだけで中国は屈服する、と唱えて日中戦争に突入した昭和前期の日本は、米国への真珠湾攻撃のときも、同様の思考回路だった。「昭和史」(著:半藤一利/平凡社刊)によると、山本五十六は「真珠湾攻撃をもって敵を完膚なきまでにたたき、それを機に講和へ持ち込もう」という腹だったという。

 こうした日本人のメンタリティには根深いものがあるかもしれない。というのは司馬遼太郎氏の「街道をゆく三 韓(から)のくに紀行」に、「白村江の戦」についての記載がある。

 「白村江の戦」とは六六三年、唐・新羅の連合軍対百済・日本連合軍の、朝鮮半島南西部・白村江での戦を指す。この戦争は水戦となり、状況判断を軽視した日本は、敵軍に無謀に突込み大敗。戦は四度に及び、日本軍は「その舟四百艘を焚く、煙焔、天に漲(みなぎ)り、海水、皆赤し」と「旧唐書」にある。(「国史大辞典」(吉川弘文館)より)

 このいくさについて、司馬氏は、白村江に着いた日本の水軍の先鋒が、恐れも知らず全軍突入して簡単に敗れた後、会議をした様子を、こう記している。

 「『たいしたことはあるまい』と、日本側の諸将軍はくちぐちにいった。

 『わが水軍が、それぞれ先を争って猛進すれば唐の水軍はしりぞくだろう』というのが、結論であった。

 日本人のいくさの仕方はこの時代から本質としては変わっていない」


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。