夢の続き・・・

法政大学ラグビー部・旅行・犬・自然を
こよなく愛し、ささやくブログ

風林火山紀行(信濃路編2)・・・長谷寺

2010年05月03日 15時35分42秒 | 旅行
4月25日 長谷寺を訪れた。
場所は長野県上田市真田町長4646

ここは真田幸隆夫妻と息子昌幸が眠るお寺だ
(真田幸隆)

このお寺は1547年 真田幸隆が晃運和尚を開山として招き、創建したお寺だ。

まだ桜が咲いていた。散り桜であるが、綺麗だ

庭も綺麗だ

庭を見ながら右手に通路があり、登って行くと真田幸隆夫妻と息子の昌幸のお墓があった。
夫婦で同じお墓と言うのは、考えてみるとあまりないな
なんともほのぼのとしていて良い


真田幸隆(1513年生-1574年6月8日没)は、信濃小県郡の小領主であったが、武田氏の小県侵攻による海野平合戦で破れ、上野国へ敗走する。後に武田氏の家臣団となり旧領を回復する。
この時、身命を賭して武田家に仕えるという覚悟をあらわす意味で六紋銭の旗を用いたようだ。

この小国の領主が武田24将の一人となっている。

上田原で宿老の板垣・甘利を失い、武田晴信の前に立ちはだかった村上義清。
晴信は諦めず、1550年義清の砥石城を攻めるも世に言う「砥石崩れ」でまたしても
敗北
この強敵に大きな働きをしたのが、幸隆だ。
翌年幸隆の智謀で砥石城はわずか1日で攻略されたという。
1553年村上の最期の居城葛尾城攻めにも活躍し、ようやく村上を追い出し、信濃を手中に収める。村上義清は、越後に逃亡。越後の虎上杉謙信に助けを求める。
こうして川中島がスポットを浴びる
真田幸隆は、川中島の合戦でも活躍、このように多くの功を挙げ、信玄の絶大な信頼を得る。こうして小国の領主から、昌幸、更には信幸・幸村兄弟へと真田の名を天下に轟かす大きな礎を築いたといえる。もっとも幸隆以外にも嫡子信綱、次男昌輝といった悲劇の子たちの労があることを忘れてはならない。
この小国領主真田幸隆は、家を守るため必死に武田信玄に仕えた結果、後の真田の舞台があるのだ。
幸隆お見事

最新の画像もっと見る

コメントを投稿