都会のたぬき日記・合唱とか料理とか

上京10年目。たまに演奏会を聞きに行ったり、東日本大震災で被災した地域へ歌いにいったり。趣味は料理になりつつある。

鎮火失敗

2007-05-10 02:16:39 | 携帯から
今年で大学を卒業(予定)、来年は就職が決まれば地元に帰る。
だから、最後の最後にカンタートで歌ってみようと決意したわけでした。
有り難いことにオーディションも受かり、本番までの1ヶ月半は想像以上に充実した日々。

出来ないことが楽しくてしょうがないんです。
やらなければいけないことがたくさんあるし、何故それをしなければいけないかも自覚しているから飽きることがない。
絶対に上手くなる可能性しかないことを確信して練習をしたのは初めてでした。


大きなホールで歌ったことは今まで何度もありました。
1000人以上の聴衆を前に歌うときは、緊張と良い音楽を「聴かせなければいけない」プレッシャーに襲われ、普段の練習のように考えながら歌うことが出来ないことがほとんど。
耳は無駄に開いてるから、残響拾って遅れたり、傷を見つけて混乱したり…思い出すとステージ上で自分の足で立ってたことってないかも。
フワフワ意識が飛んでる感じ。心ここに在らずってやつ?

ところが今回は、初めて音楽に「集中」して歌えました。
人数も多くないから自分の声がもろに影響する、でも言い訳なんて出来ないしそんなんプライドが許さない。
→練習でやったことを確実に歌う
→練習期間短いし体は覚えてない
→頭フル回転、思い出せ―!!緊張してる場合じゃねー!!

初めて聴衆がカボチャに見えました(笑)
プレッシャーは客席ではなく周りのメンバーと指揮者から来るんですよ!
今までやってきたことを無駄にしたくないっていうのもあって。
こういうの、「楽しく歌うのが一番」星人は疑問を持ちますかね。
でもね、責任は強く感じたけど本番は楽しかったんですよ。
会場に生まれる音楽と、初めて面と向かって出逢えた気がしました。
今までがちょっと無責任過ぎたかなぁ…反省。


とにもかくにも初めてずくし、新しい発見ばかり。
最後に貴重な体験をさせていただき、これで心置きなく合唱離れを…












出来るわけがありません。







もっともっともっともっともーっと歌いたいよ――――――――――――――――――!!!!!!
という気持ちにさせていただきました(怒)


あ、あわわまずーい…とにかく今は合唱祭に向けてテンションを平常値に下げないと…。
困ったなぁ…。

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4 コメント

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Unknown (aki)
2007-05-14 17:23:09
貴女の文章,興味深く拝見させていただきました。

わたしは合唱経験もなく,趣味でクラシック音楽をかじった程度の者で,貴女のように多くの音楽経験をつんでいらっしゃる方に申すのも失礼ですが,気になることがありましたので意見させてくださいませ。貴女は歌い手が楽しんで唄うのを嫌っていらっしゃいますね。「音のために音を鳴ら」すとおっしゃっていますが,それでは貴女の音楽には主体性/個性は存在しないということでしょうか? そして歌い手が「楽しい・心地よい」と感じていない音楽は果たして聴衆にとって楽しい,心地よい音楽でしょうか?
合唱をやっていらっしゃるとのことですので,ソロと違って個性を前面に打ち出すことは出来ないでしょうが,個人がその楽曲から感じ取ったものを声で表現することはないのですか? その表現するものが個性だと思うのです。おそらく「音のために音を鳴ら」すだけでなく,そこにアーティストが楽曲から受け取ったメッセージを唄うことが,文字通り「音を楽しむ」音楽ではないでしょうか。
ですが,別の文章ではまた「プライド」をかけて唄ってらっしゃるとお書きですね。プライドをかけて唄うことが果たして「音のために音を鳴らし,生まれた音楽と出逢って初めて自分を感じる」ことになりますか? プライドをかけて唄うことこそ,個を主張することであり,それは貴女が忌み嫌う,ある意味での「傲慢で自分本意な音楽」ではないでしょうか?

癪に障るようでしたら無視していただいてかまいません。お答えいただけましたら幸いでございます。
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コメントありがとうございます (たぬき)
2007-05-17 01:41:34
すみません、現在携帯から更新しているためコメントに気づくのが遅くなりました。



むかーしむかしの記事を参照にするといろいろくみ取って頂けると思うのですが

(といってもちょっと多いですね…)

私が聴衆になるとき、音楽に出逢える演奏と演奏者にしか出会えない演奏の二通りを感じます。

主体性というのは確かに過去芸術において様々な立場を取ってきましたが

ルネサンス以降その地位は驚くほどに持ち上げられ、媒体(作品)とイデア(真理)は完全に主体の陰となってしまいました。

ドゥシャンが「泉」と題して家庭用の便器を出展したのは

そういった主体の絶対性を打ち砕きたかったからではないかと言われています。

(美術に関してはにわか知識ですので突っ込み募集です)



ただ、美術との違いは音楽は「瞬間芸術」であるということ。(Aokikunさんより拝借致しました)

私が演奏側になるとき、自分は音楽の媒体だと思っています。

楽譜も、極端に言ってしまえば作曲者も、全ては一瞬に生まれる音楽のための媒体ではないでしょうか。

じゃあ、主体はどこに?というのは私の卒論の課題でもあり(汗)未だにはっきりしないのですが

ただ、媒体である私自身がなければ音楽は存在しないということははっきりと言えます。

表裏一体?はちょっと違いますが、自分の存在そのものが生まれる音楽をそれたらしめていると感じた瞬間が世界の始まり(これはブーバー…)だなぁと思うのであって

決して自分の存在を無にとかそういうことではござりません。

神学的話ですが、神に出会う場所として自分自身が存在するというのと似ている気もします。

むしろ、確固とした私(ich)がなければ何者にも出会えないわけなので…

ただこれを主体としてしまえば、それは途端にselfishなものになる気がするのです。

そのとき、生まれた音楽は自己を浮き立たせるための単なる「手段」にしか成り得ない気がしてしまって。

でも私自身がえらく感動した様々な演奏は、決して手段などではなく

私と出逢う確かなものとして存在していました。

媒体としての曲、歌い手全てがなければ存在出来なかったものだと思います。
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携帯の限界… (たぬき)
2007-05-17 01:59:09
歌を歌っていて楽しいということは当然私も感じますが

「どうして楽しいのか」と考えれば、私の場合は良い音楽に出逢えるからでしょうか。(陳腐な言葉ですがとりあえずは)

音楽が前に進んでいないと、やっぱりどこか楽しくない。

かといって、仲間うちだけで軽く声を出して歌うときはそれはそれで良いもんなんですよ。



というよりも、私にとって歌を歌うのが楽しいことは至極当然のことで

わざわざそれを主張する気持ちがよくわからないのですよ。

(ついでにプレッシャーがどうのと書いてますが、この記事に書いてある本番は超!楽しかったですよ?)

あとプライド云々は、オーディションで選んでいただいたわけだから「言い訳禁止・弱音を吐かない」という責任の方の意味であり歌に直結している分けではありませんので…。

(というより単なる負けず嫌いなだけです…すみません…)



これより更に詳しくは過去の愚痴記事を読んでいただくと何かしら書いてあるので。

貴重なご意見ありがとうございます。

また何かありましたら遠慮なくお願いします。

ただし携帯更新なのでその辺はご了承ください?
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しつこくすいません (たぬき)
2007-05-17 02:16:23
歌い手が楽しんで歌うことは嫌っていませんよ!

歌い手が楽しんでいることをわざわざアピールすることがダメなのですよ~。

「歌うために一番大事なことは楽しむことだ!歌ってて楽しいのが一番大事だ!」

これが私には

「生きるために一番大事なことは息をすることだ!生きてて呼吸をするのが一番大事だ!」というトンチンカンな主張に聞こえるのです。

そりゃあそうだけどさ~…えぇ~?みたいな。

読み返して大きな誤解があったので、つい。

失礼いたしました。
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