三井楽半島に別れを告げ、県道233から国道384号に入って走り始めるとすぐ、右手のこんもりした丘の上に朱色の遣唐使船が置かれているのが見えました。
車を降りて、丘に登り遣唐使船に近づくと、
「遣唐船と三井楽」の表題で、次のような解説が掲げられていました。
「優れた中国文化を学ぶため、唐に遣わす遣唐船は五島列島で日本最後の風待ちとしました。当時我が国の造船・渡航技術は未熟で遭難も多く、中国渡航は決死の覚悟が必要でした。
順風が吹き、出航し、三井楽の柏の岬を過ぎると縹渺たる大海原が広がります。
四隻に分乗した、大使や学問僧ら5百人を超す乗組員は今生の見納めになるかかもしれない日本最後の地、三井楽の浜と緑の島影を瞼の裏に焼き付け、万感の思いをこめて東シナ海に乗り出して行ったに違いありません。」
園内に、文学博士で文化功労者の故犬養孝が揮毫した万葉歌碑を見かけました。
そのまま読んでも、すぐには理解できませんが、
「王の遣(つか)はさなくにさかしらに行きし荒雄ら沖に袖振る」
という万葉集の一首が刻まれていました。
万葉集に、この歌の背景の説明が記されています。
わかり易く意訳しますと、
荒雄という力持ちで心優しい船乗りが、仲間から、王が命した、船で対馬を往復する仕事の代わりを頼まれます。
命がけの仕事ですが、仲間の懇願に負けて仕事を引き受けることにしました。
ところが船は港を出た後、突然の嵐で転覆し、荒雄は舟ごと海に沈み帰らぬ人となったのです。
自分が命じられた仕事でもないのに、仕事を引き受け、命を落とす不運に見舞われたのです。
その悲しみを、荒雄の妻子が、あるいは山上憶良が代わって詠んだと、万葉集の中に説明が記されています」
そして、万葉集に記された「筑前国の志賀の白水郎の歌十首」の最初の歌が歌碑の一首で、
「王に命じられたわけでもないのに、無理して行ったばかりにこのような目にあい、沈みゆく船の上で、妻子に別れの袖を振っているぞ」というのが、その歌の趣旨です。
興味のある方は「筑前国の志賀の白水郎の歌十首」でネット検索してみて下さい。
当時は、対馬に船でゆくことさえ命がけだったようです。
五島列島を潜伏キリシタン関連遺産の視点から見た場合と、遣唐使船の最終寄港地の視点から見たときとで、周囲の景色の彩が異なって見えます。
どちらも事実に基づきますが、物を見る時の印象が、どれほど先入知識に影響され易いかを改めて認識させられました。
「みみらく=死者が姿を現す」などという言葉のフィルターを外し、自らの目で事実と真実を見定める意識を忘れたくないものです。
10分程も走ると、水ノ浦教会に到着しました。
水ノ浦では江戸末期に移住した潜伏キリシタンが仏教徒を装いながらキリスト教信仰を続けてきました。
そして明治元年12月25日、信者の家での祈りの場に役人が踏み込み、30余名の男性が捕らえられ、信者の家を牢屋敷としてつながれました。主だった8人は4年の長きにわたって拘束されたそうです。
その後、禁教が解けた7年後の明治13(1880)年に最初の水ノ浦教会が建てられ、昭和13(1938)年に現教会に建て替えられたそうです。
現水ノ浦教会は、名工鉄川与助の設計、施工による、白亜の美しい教会でした。
国道384を走り続けていると、小さな入り江に浮かぶ島に小さな鳥居を見つけました。
玉之浦で玉之浦教会と神社が共存する様子を見てきましたが、明治6年にキリスト教禁制の高札が撤去されて、五島に教会が建てられ、仏教や神道との共存が進んでいったのだろうと思います。
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