海岸線に沿って車を進めました。
この道は「遣唐使旅立ちの路」と名付けられているようです。
目の前に姫島が見えています。
姫島は平地がほとんど無い島で、島に人が住むようになったのは、寛永9年(1797年)に大村藩からキリシタンが五島各地へ移住した際とされ、明治には人口も300人を越えていたそうです。
しかし、島に波止場が無く船も出せなくなり、昭和40年に最後の7世帯が島を去って無人島化したそうです。
そして最近は、イシダイ釣りの名所として知名度が高いようです。
三井楽半島先端の柏崎に到着しました。
「柏崎」の解説板に
「柏崎は【備前風土記】に【美弥良久の崎】と記され、遣唐使船の最後の寄港地であるといわれる。
この地区には、船の乗組員たちの飲料水として利用した井戸【ぶぜん河】や遣唐使守護の任にあたった者の霊を祀った【岩嶽神社】など、遣唐使ゆかりの史跡が多く残っている。
また、江戸時代に五島の捕鯨は生成期を迎え、柏崎にも捕鯨の一団が移住してきて、冬場だけを漁期として活躍していたといわれている。しかし乱獲により鯨はいなくなり、幕末にはほとんどの鯨組は解散したと記録にある」
と記されていました。
「辞本涯」と表された碑がありました。
「辞本涯」とは、日本のさいはてを去るという意味で、第16次遣唐使船(804年)で唐に渡った空海の偉徳を顕彰するために建立されたそうです。
そしてその傍らに、空海の像が中国へと続く海を見つめていました。
私の五島の旅はツバキと潜伏キリシタン関連世界遺産が目的でしたが、五島は古く、当時最先端文明を誇る唐に通じる遣唐使船の最終寄港地という役割を担っていたようです。
私はそれを今回の旅で始めて認識することになりました。
そして、
「旅人の宿りせむ野に霜降らば吾が子羽ぐくめ天の鶴群」万葉集
の歌碑が建てられていました。
意味は「旅人が野宿する野に霜がおりたら、私の息子をその羽で守ってあげて、空を飛ぶ鶴たちよ」だそうで、天平5年(733年)に第9次遣唐使船が大阪の難波を出航するとき、ひとりの遣唐使の母が、我が子の無事を祈って読んだ歌だそうです。
近世まで、日本人の「西」の概念が中国であったことを、実感を伴って認識することができました。
三井楽半島の先端の地柏崎は、近年迫害を逃れたクリスチャンが平安を求めた地であると同時に、煌びやかな文明に憧れ、命を懸けて危険な海を渡った勇者達の志を伺い知ることのできる地でもあります。
そして、私はこの場所にくるまで「みいらく」と読む「三井楽」を変わった地名だな程度にしか考えていませんでした。
しかし、下の掲示を見て、三井楽は「みみらく」の意であると知ったのです。
更にネット検索で、「みみらく 【美弥良久】は、日本古代に、西の果てにあって死者が姿を現すと信じられていた島。五島列島南端の福江島三井楽の地にあてたりする。」 の記載を見つけ、
三井楽はみいらくと読むが、本来の意味は「みみらく」であることを知ったのです。
そうですよね「みみらく=死者が姿を現す」をそのまま名地とすれば、住もう思う人はいないでしょうが、そんな場所であればこそ、潜伏キリシタンが暮らし始めたのかもしれません。
柏崎を離れ、三井楽教会を目指し走っていると、農道のようにも思える道のあちらこちらで、椿が赤い花を落としている光景を目にしました。
そしてこれが、単なる偶然ではないことに後で気付かされます。
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