三井楽教会は、1880年(明治13年)に最初のゴシック様式の木造聖堂が建てられ、1971年に老朽化とシロアリ被害の為現教会に建て替えられました。
三井楽教会のシンボルである、貝殻や陶器などを用いた壁画が色鮮やかです。
教会内部のステンドグラスも見事だそうですが、私は中に入ることはしませんでした。
次いで、道路の案内表示を頼りに、嶽家牢屋敷跡を訪ねました。
嶽家牢屋敷跡は明治元年の五島崩れの時に、ひとりの信者の宅地に投獄した場所で、その跡地には解説文が掲げられていました。
「1868年11月14日、代官所の役人が嶽地区の18名を捕え、善三郎の住宅を牢獄として閉じ込めた。
後日代官所に引き立てられ、拷問を受けたが、一人の棄教者も出ないため、再度一ヶ月間投獄された。
その後、追及の手が町内塩水・嵯峨島・大川・淵の元・貝津の各集落にまでのび1871(明治4)年までの37世帯、162名が迫害を受けたとされる。
家の敷地跡は広場となっていて、石碑や解説文がなければ、誰もここが牢屋敷跡とは分からないかもしれません。
次に、聖母の大椿を目指しましたが、事前に調べた住所は「五島市三井楽町岳」という大雑把なものだったので、ナビは全く役にたちません。
しかし、長崎鼻灯台の九州自然歩道案内板に表示された位置を記憶していたので、勘を頼りに車を走らせると、
聖母の大椿を示す標識を見つけることができました。
路肩に車を停めて、椿に覆われた道を進んで行きます。
歩を進める道は、赤い椿の花で埋め尽くされていました。
そして、椿のトンネルを数百メートルも進むと、「聖母大椿」の表示を伴う古木が枝々に花を飾っていました。
「聖母大椿」には先客がおられ、お話を聞くと、静岡県の御殿場から来られた方達で、私と同じで、椿サミットに参加する予定だったそうです。
三井楽で予定した全ての訪問を終えて、次の目的地を目指していると、「岳地区椿防風林入り口」と記された白い標識が目に留まりました。
そして近くに「岳・渕ノ元地区の椿林」の解説する掲示を見つけました。
「三井楽は古来畑作中心の農業によって発展してきました。干藷生産が九州一を記録したこともあり、昭和45年に生産額は1憶4千万円に達しました。岳地区は北低南高の地形で、夏は台風、冬はシベリアおろしの北風が激しく、防風林は畑作に不可欠です。この地区は多くが200年前に旧大村領から移住したキリシタン信者で、当初から椿は防風林を目的に育成され、信仰の証として大事に守られています。」 と記されていました。
そうだったのですか。
柏崎から三井楽教会への道で、椿が沢山の赤い花を散らせていた訳が分かりました。
畑へ通じると思える道へ車を進めてみると、全ての道がヤブツバキの防風林に包まれていました。
かなり広めの耕作地の周囲を囲む背の高いヤブツバキが防風林としての歴史を語っています。
私は全国に椿を訪ねる旅を続けてきましたが、これほどの規模のヤブツバキ防風林を見たことがありません。
伊豆大島にツバキ防風林が、宮古島のサトウキビ畑にツバキ防風林が、房総半島の大原町で、住宅の生垣としてツバキが活用されますが、三井楽半島の岳・渕ノ元地区のヤブツバキ防風林は国内最大級規模かもしれません。
ヤブツバキは日本固有の樹木ですから、国内最大級であれば世界最大級ということになります。
このヤブツバキ防風林は、潜伏キリシタン達が、死者が現れると地と伝わる、サツマイモしか作れない風吹き荒れる荒野を開墾し、畑の周囲にヤブツバキを植えながら、平和な暮らしを築き上げた証であり、まさに「潜伏キリシタン関連世界遺産」の一部をなす、と言っても過言ではありません。
岳・渕ノ元地区のヤブツバキ防風林、文化財としての保護を提案したいと思います。
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