読書の記録

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終わらざる夏 (ネタばれあり)

2013年08月09日 | 小説・文芸

終わらざる夏

浅田次郎

 

 たいそう評判を呼んだ小説。文庫化を待っていたら3巻ものになって現れた。

 太平洋戦争末期における占守島の戦いを扱っている。
 占守島というのは千島列島の北端、すぐその先にはカムチャッカ半島がある。

 とはいうものの、実は戦闘場面はこの小説の主眼ではない。実に本編8割くらいまで進まないと戦闘は始まらないのである。

 では、この小説は何かというと、太平洋戦争末期の異常な国家総動員と、その総動員に翻弄され、不条理と悲しみと耐え忍ぶひとりひとりの国民の姿を丹念に描いたものである。召集される小市民だけでなく、誰を徴兵するか決める立場の者、赤紙を届けにいく者、留守を預かる者、地方に疎開するその子ども、引率の先生などひとりひとりをクローズアップしていく。
 巨大かつ虚無といってよい太平洋戦争末期の抗うことのできない絶望的な潮流の中をひとりひとりが生きている。

 で、戦争というものは畢竟このようにひとりひとりを襲う不条理な悲しみの上に遂行されるのだ、ということがこの小説ではいやというほど味わされるのではあるが、一方で、この小説は大事な人、愛する人を守ることができた人、守ることができなかった人の話でもある。
 もしかしたら、隠れた主題はこちらかもしれない。

 本書の主人公は翻訳書の編集者である片岡直哉ということになるだろうが、彼とともに占守島にむかったのが医師の菊池忠彦と、歴戦の軍曹、鬼熊こと富永熊男である。

 菊池は「守ってきた人」だった。
 彼は、徴兵のための健康検査を担当していた。彼は、その人が徴兵されると家が立ち行かなくなるような場合、わざと病気持ちの診断書を発行し、徴兵不合格にさせた。そうすることで、その人の命やその家族を守った。
 だが、彼のこうした行為はやがて官憲の知るところとなり、そして占守島に赴くことになる。

 鬼熊の唯一の身寄りは母親であった。
 彼は非常に素行の悪い乱暴者であったが、出征の日、一世一代の大狂言で、この貧しく弱い母親が飢えることのない環境下をつくって占守島に行った。

  片岡の息子、譲は疎開先で供え物のつまみ食いをした譲以外の級友全員の罪を被り、級友を守った。
 その譲は、近所に住む上級生、吉岡静代に守られ、疎開先から東京への逃避行を始める。その静代は、やくざ上がりの岩井に守られ、上野駅まで無事に帰還させる。譲は母親の久子と再会を果たす。

 占守島には缶詰工場で働く女子挺員が400名近くいた。ソ連上陸を目前に控え、決死の脱出行で彼女たちを守ったのが、缶詰工場の主任である森本と軍関係者、中でも小舟で荒海の航海を負った岸上等兵だろう。

 この岸上等兵も三陸の貧しい出自から守り守りぬいて果てにこの北洋に来た人物である。

 

 守ろうと思って悪戦苦闘しながら守り切れなかった人たちもいる。

 疎開先の教員、小山と浅井は銃後の不条理に悩みながら、教育と子どもの将来を信じ、軍国教育と一線をひいて指導を行い、玉音放送の際も子どもたちにその真実を伝えた。そういう意味では、彼らも子どもたちを守った。
 しかし一方で、彼らは譲と静代の逃亡を許し、その後のエピソードは本小説からは現れない。この教師二人は大奮戦したものの、譲と静代を守ることができなかった。

 我が村での徴兵される者を決め、赤紙を発行する立場にある佐々木曹長は、母親に鬼と言われながらも苦渋の仕事を続ける。そんな呪われた己の運命に玉音放送の日に泣き崩れる。守りたいのに守ることのできない絶望的な苦悩が佐々木曹長にはある。

 片岡直哉の妻久子は実母に守られない幼少時代を過ごし、それがために今なお母を恨み、その果てに実弟は南洋で玉砕したことを後から悔いる。実弟を守ることができなかったと思うのである。そして夫の出征に改めて何もできず、ただ新宿の街かどで千人針に立つ自分に泣く。

 大事な人が死地に赴くことは必ずしも自分ひとりのせいではないが、しかし自分が守れなかったからだ、と思ってしまうのは人情だろう。

 

 最も守ることができなかったのは流れ流れて占守島に赴任した戦車乗りの大屋准尉だ。
 彼は戦車乗りこそ自分の使命と自分を言い聞かせてしまったがために、満州の厳しい大地に後妻である千和をひとり残してしまった。その後の満州はソ連の猛軍に蹂躙されることになる。
 大屋はそのことを悔みながら、しかし戦車乗りに憧れた少年兵中村とともに最後の戦いをソ連軍と交わし、そして果てる。
 個人的には、この小説の膨大な登場人物の中でも、この満州に残されたか弱い千和と、戦車にあこがれながら身長が足らず最後まで味噌っかす扱いされた中村がもっとも不憫に思えた。

 

 そして、あまりにも多くの人を巻き込んだこの占守島の攻防で、既に無条件降伏を果たしたにも関わらず、日本軍がソ連軍とたたかったのは、祖国のいわれなき蹂躙を守るためであった。
 昭和20年8月17日、つまりソ連軍が占守島に上陸してきた時点で占守島に無傷の強力な戦隊が保存されていたのは歴史的事実である。
 終戦直前の日本は、お話にならない脆弱な武装で無謀な攻撃と無残な敗退を繰り返してきたわけだが、奇蹟か神のいたずらか北方の辺境の小さな島におそらく太平洋戦史上でみても超強力な軍隊が占守島にいた。
 これがもし他の戦場のようなありさまだったら、今頃北海道はロシアだったかもしれない、とまで言われている。事実、満州の関東軍は壊滅し、民間人含めて大きな犠牲を生んだ。また、樺太でも真岡電話交換手事件のような悲劇の敗走劇があった。

 400人の女子挺員を守った占守島の日本兵は、けっきょく最後は武装解除し、生存者は全員捕虜としてシベリアに連れて行かれた。シベリア抑留もまた、太平洋戦争の不条理の大きなもののひとつである。彼らの多くがまたシベリアの大地で命を落とし、残った生存者が日本に戻ったのは何年も先である。日本という「国」が対米の戦後政策の中で、対ソ問題が遅れに遅れ、シベリア抑留の日本人の保護が後回しになったのである。

 

 こうしてみると、いちばん人の命を守らなかったのは「国」である。
 これは「それでも、日本人は戦争を選んだ」でも指摘されているが、日本という国は、あまりにもひとりひとりの命を軽視してきた。一人一人が大事な人、愛する人の命を守るために、限界までの悪戦苦闘をしてきたのに対し、「国」はあまりにも国民の命を安く見積もってきた。それが近代日本の歴史である。

 

 そしていまなお、択捉島以南のいわゆる北方領土は返ってこない。
 二島返還論や、プーチン大統領の「引き分け」発言など、外交努力は続いているようだが、既に択捉島や国後島にはロシア人の二世三世が生まれている。
 ソ連軍の占領時、北海道に逃れた島民は17000人いたそうだが、高齢化と寿命で今も生存しているのは7000人とのことである。

 

 

 

 

 


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