読書の記録

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まんがでわかる サピエンス全史の読み方

2017年06月18日 | サイエンス

まんがでわかる サピエンス全史の読み方

まんが:葉月 監修:山形浩生
宝島社

 

 書店で見かけてびびった。こんなものまでマンガ化すんの!?

 しかも原作を単にまんがへとリダクションしたのではなく、会社が嫌になってニートになった女性が、ボルタリングと出会って人生の希望を見出すというストーリーに、「サピエンス全史」のエッセンスが並走するというしかけである。野心作である。ぶっとんでるなあ。

 

 ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」上下巻は僕も読んだ

 僕がもっとも関心をひかれたのは、現代人の幸福量と、原初の人間の幸福量はそうかわらなかったのではないかということと、そのことといわゆる文明の発達はとくに関係がないという指摘である。そのことはこのブログでも書いた。

 そのときのブログから省いてしまったがもうひとつ心に歩留まった話があって、それは「西洋」は帝国主義へと拡大展開していったのに、中国はなぜそうならなかったかという話だ。著者は、西洋は「自分たちにはまだ知らないことがあるはずだ」という世界観だったことに対し、中国は「自分たちは世界の全てを知っている」と信じていたことと指摘する。
 なるほど。前者は世界を無限に拡大するエネルギーになるし、後者は現在のリソース、過去の知識資産で生きようというメカニズムが働く。この違いはバカにならないだろう。もうオレはすべてわかりきっているという態度の人は身近にもいる。

 

 「サピエンス全史」に関してはまあそんなところを読後感としてもっていたわけだが、「まんがでわかる」で中核になっているのは、人間は「虚構」を描けるという、「認知革命」のところだ。この、「虚構」をつくり、仲間のあいだで共有できる能力。これが人間をして幸福感をつくり、一方で不幸感にさいなまされる元ともなった。

 そんなことが書いてあったこと自体は覚えてはいたのだが、とくにそこにつよい感銘がなかったので、本書を見て、へーそこなんだ、と思った。

 しかし、そういえばAIと人間の相克をテーマにしたSF小説「アイの物語」でも、「物語(=虚構)を信じる能力」みたいな点が強調されていたし、羽生善治も「AIの核心」で人間の強みとして似たようなことを挙げている。僕はなんとなくスルーしてしまったが、案外ここになにか普遍的な真理があるのかもしれない。

 

 「国家」とか「家族」とか「道徳規範」とか「貨幣価値」とか「グローバルスタンダード」とか。そんなのみんな人がつくりだした「幻想」なんだよね、とドヤ顔でいってみせたのは「唯幻論」の岸田秀である。ここでいう「幻想」は、サピエンス全史でいうところの「虚構」とほぼ同義である。ニューアカの旗手として唯幻論は当時センセーションだったし、氏の代表作「ものぐさ精神分析」を読んだ当時大学生だった自分は、そのショッキングな指摘にずいぶんへこんだものである。

   そういう原体験があったからか、ヒトは「虚構」で秩序をつくっているという指摘に、どこかで「今さら?」とでも思ってアンテナが鈍ったかもしれない。
 しかし考えてみれば唯幻論が発表されたのは80年代だ。2010年代の今日、このパラダイムになにか多くの人々が感じることがあるのならば、それはやはり「ポスト西洋社会」そして「インターネットの次の世界」にむけて、さまざまな秩序がこわれかけ、なにを基準として信じていけばいいのかサピエンスはいよいよリアリティをもってわからなくなっているということかもしれない。

 

 ところでこの「まんがでわかるサピエンス全史の読み方」。大事なことをひとつ指摘している。うだうだ考えて悩んでしまうモードになったときは、体を動かすとよいということ(それで主人公の女性はボルタリングを始めるのだが)。
 なるほど。我々サピエンスの歴史のなかで、体を動かさなくてもよくなったのはほんの最近である。しかし、人間はもともと生存のためにいろいろ体を動かしていた歴史のほうがずっと長い。われわれサピエンスの身体は、体を動かすことでいろいろなバランスが保たれているプログラムのはずなのである。

 

 


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