読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

ピカソになりきった男

2018年07月21日 | 芸術

ピカソになりきった男

著:ギィ・リブ 訳:鳥取絹子
キノブックス


 著者は、近代絵画の多くの贋作を描いてきた画家である。シャガール、ブラック、ドラクロワ、ミロ、フジタ、デフォー、ピカソ・・ 
 贋作といっても、オリジナルの絵があってそれを模写するタイプの贋作ではない。実はこのタイプの贋作は非常に犯罪効率が悪いのである。なにしろ同じ絵がもう1枚あるのだから、必ずどちらかが偽物ということになるし、そうなれば鑑定家も黙っていない。
 作者が手掛けた「贋作」というのは、本来の画家が持つ、つまりシャガールやピカソが持つ画風で完全な新作を描くのである。つまり「未発見の作品」となるわけだ。
 しかも一人だけの画家の画風を徹底的に追求するのではなく、まったく画風の違う何人もの画風を同時並行でこなすというところが、作者の腕の凄いところといえるだろう。
 したがって、彼の手による「新作」は、ディーラーや鑑定家の目をパスし、美術館や画集にまで登場したらしい。本書によれば、彼が描いたシャガールやピカソの写真は1枚もないということだが、インターネットで検索したらいくつか出てきた。これらを一人の人間が描き分けたのだとすればやっぱりすごい。

 そんな作者もついには警察の御用となって足を洗い、そしてこんな手記を書いたわけだ。

 
 本書を読んで思ったことはふたつある。

 ひとつは、アート市場というのはけっこういいかげん、というかうさんくさいものなんだなということだ。
 そもそも美術品の相場というのはかなりオカルトといってよい。ピカソの絵1枚にウン十億円というなんであんな高額な金額がつくかといえば、けっきょく売り手と買い手のチキンレースがその金額をはじきだす、ということに尽きる。その金額で買ってしまう人がいるからそれが相場となる。
 じゃあ、その買い手はなににそんな超大金を支払っているのか。それはしばしば指摘されるように「ピカソ」というブランドへの大枚である。かりに実はその絵がピカソではなくて、そこらへんの小学生が実は書いたものだ、と種明かしをしたらその絵にウン十億円出すかといえば、出さないだろう。絵は全く変わっていないのに。
 ところが、画家の名前をふせておいて「この絵にいくら出す?」とやっても絶っっ対にウン十億は出さない。どんなに目をひいても数万円とか数十万円とかだ。そこで実はこれはピカソが描いたもので・・となると、いっきに価格は高騰する。絵は全く変わってないのに。
 だから、ピカソの書いたものならば、完成品に限らず、スケッチでも習作でも、あまつさえメモ書きでも高値で取引される、ということになる。
 そこでカギになるのは、「これはピカソの手によるものだ」と証明する人ーつまり、鑑定家の存在である。鑑定家がシロといえばシロであり、クロといえばクロである。
 ところが、鑑定家が真作贋作を判定する根拠というのは案外にいいかげんだ。もちろん科学的な鑑定もする。顔料に使われている成分の分析とか、キャンパスに使っている布地とか。
 しかし、贋作の作り手からすれば、そんなものは古い絵の具やしかるべき布地をはじめから用意すればいいということになる。肝心の絵筆の筆致そのものはどこかで必ず「主観的な判断」によって真贋つけることになる。

 そして、鑑定士も実はまたアート市場のステークホルダーの一人なのだ。要は、画家と鑑定士とブローカーは「ビジネス・パートナー」になりやすい。よく「医者と葬儀屋と警察が結託すれば人をひとりこの世から消すことができる」と言われるように、画家と鑑定士とブローカーが結託すれば、「この世に巨匠の未発見の新作を登場させる」ことができるのだ。それも巨額なマネー付で。
 なんでそういうことになるかというと、絵画というのは投機の商品だからなのだ。アート市場というのは投機ビジネスなのである。もちろん本当に芸術を愛し、手元にそれを置いておきたい、この貴重な人類遺産を未来に継承したいと思うまっすぐな人もいる。しかしそういう人は結局「カモ」にされてしまう。
 アート市場の多くの人間は、金もうけとして、転売ビジネスとして携わっている。そして、そういう鑑定家だっているのだ。で、アート市場というのは、少々真贋怪しくても、転がしておいてその差分の儲けをつくりこんでいくほうがハッピーな人のほうがずっと多いのである。贋作画家と鑑定士とディーラーの結託は、アート市場の活性化のためにはむしろ必要、とだって言えるだろう。そうしないと過去の巨匠の作品の数はもうこれ以上増えないわけだから、いずれ停滞してしまう。もちろん現役・新進の作家だっているわけだけれど、ウン十億円の高値をつけられる作家はほんのわずかだ。


 そして、思ったこと二つ目は、そんなウハウハなビジネスなのに、贋作作家は、「自分のオリジナルの絵」を描こうとすることだ。世の中のニーズはないのに「自分の絵」を書こうとする。

 こういう例えがいいのかどうかわからないが、ものまね芸人が自分自身の歌をライブやアルバムで取り上げるのを読かける。あのコロッケでさえ、ライブで自分の歌をうたったのを目撃した。青木隆治も自分の歌をうたっている。やっぱりものまね芸人としてどんなにちやほやされても、自分のオリジナルを歌いたくなるものなんだなあと思わずにいられない。切ないのは、市場はあまり本人オリジナルには興味がなくて、やっぱりものまねのほうに圧倒的なウケがあるということだ。

 作者ギィ・リブも、オリジナルの絵を描く。贋作の道を絶たれてからはいよいよ描く。だけれど、本人自身も認めているように市場はそれを求めていない。買い手はつかない。値段もつかない。ディーラーも引き受けない。
 釈放後に作者の作品で人気が出たのは、堂々とギィ・リブ本人のサインによる、シャガール風、ピカソ風、フジタ風、ルノワール風の「絵」である。つまり、偽物、パロディとして合法的に描かれた絵だ。作者本人自身の画風による絵ではない。
 しかし、作者は、プライドをもって今もオリジナルの絵を書いているそうだ。しかし今後も彼のオリジナルが市場に評価され、需要がおきることはないだろう。けっきょく、アート市場が画家の名前で需要が決まるように、「贋作作家」のラベルがついた画家の名前には「贋作」にしか需要がおきない。贋作ビジネスという巨額マネーゲームに参加するときに引き換えた呪いというべきか。


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 苦界浄土 わが水俣病 | トップ | 究極超人あ〜る 第10巻 »