読書の記録

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究極超人あ〜る 第10巻

2018年08月14日 | コミック

究極超人あ〜る 第10巻

ゆうきまさみ
小学館

 

 普通に第10巻というのがすごい。つまり第9巻の次の第10巻。第9巻の最終話とされたものから数日後。それも後日談ではなくて普通に連載が続いているかのようなテンション。つまり舞台は昭和62年のまま。携帯電話もインターネットもない時代。

 この第9巻と第10巻の刊行のあいだには30年の月日が経っている。やっぱり作者の筆致による絵柄はちょっとかわってしまっているが、全体を支配する緩急自在感、次々とノイズのようにはさまれる数々のギャグ、各登場人物のキャラ立ちぶりは当時とまったく同じで、作者もよくここまで再現させたなあと感心するばかりだ。

 とはいうものの、この「究極超人あ〜る」。やはり80年代を背負ったマンガである。80年代はこういう空気だったなあ。
 「究極超人あ〜る」は当時、週刊少年サンデーに連載されていた。僕は中学生だった。現代の中学生のニーズや好みをマーケティングしても、もはやこういうマンガにはならないと思う。Dr.スランプ、うる星やつら、ストップ!ひばりくん、などと同じ系譜といおうか、随所に細かいネタを仕込む(つまり情報量は多い)のだが、そのネタにたいして深い意味はなく、妙にあっけらかんとしてドタバタしながら通り過ぎていくような感じ。随所はめちゃくちゃだけどお話そのものはカタルシスを外すことなく前に向かっている感じ。(僕としてはあだち充の「熱血しないスポーツもの」、北斗の拳や魁!!男塾の「もはやギャグに転じた熱血もの」もこれに属していると思う)

 これはマンガに限らず、当時のライトノベル(このころはこんな単語はなくて、かジョブナイル小説と呼んでいた)もそんなノリだったし、OVAとかCDドラマとか、要するにオタクっぽいコンテンツはこんなものが多かった。

 90年代に登場した新世紀エヴァンゲリオンでは、こういった突き抜けた明るさはもはや無くて、登場人物の心理状態とか内面の葛藤とかがクローズアップされ、ノイズがノイズで終わらないで世界観構成のアイテムになったりとか、いわゆる「セカイ系」と呼ばれるものになっていったように思う。アニメに限らず、サブカル系コンテンツは、ゲームもケータイ小説もラノベもみんな「自分探し」的な要素が見られるようになった。(大塚英志は日本文学の底流にある「私小説」の遺伝子をここに見立てた)

 もちろん80年代にも自分探しものはあっただろうし、90年代以降もドタコメはあるのだろうけれど、やっぱりこれらを支持する時代の空気が違うように思う。80年代にヒットしたJPOPと、90年代のJPOPが違うように。(80年代のJPOPは「現状最高!」で、90年代は「考え方によっては現状もいいじゃない!」)。

 いうまでもなく、80年代というのは日本がバブルまっしぐらの時代であり、90年代とは不景気であるから、ここにわかりやすい明暗があるのは確かだ。ただし、そんな景気問題だけが背景ではなく、ここには社会と個人との距離感の違いがあると思う。家庭や会社や社会に身を預けること、全員でひとつの方向性をむいておくことの安心感が90年代以降急速に後退し、一方で個人を情報化し、武装化し、ブランド化する必要性が台頭してきた。携帯電話やインターネットの出現と歩調をあわせて個人化の動きは強まっていった。
 承認欲求とか、自己肯定感とか、自分探しとか、こういうパーソナルなものへの志向性が高まるというのは、時代に身を任せるだけでは幸福感を得られない時代になったとも言えるし、それが成熟社会なのだとも言える。
 90年代のアニメだったエヴァンゲリオンが、2018年現代なお飽きもせずに手を変え品を変える形で市場に支持されているというのは(細部の批判は多くとも)、現代の空気も90年代からの地続きにあるということかと思う。そういう意味では80年代の空気というのは、もはや現代からは断絶された過去のカルチャーである。

 いまさら80年代に戻りたいとも思わないが、当時のテンションのままの「究極超人あ〜る 第10巻」を読むと、90年代以降肥大した承認欲求の時代になる以前の、「自分さがし」の「自分」なんてそもそもなかったし、そんなものはなくても普通に生きていけたのだ、という当時のフットワークの軽い気分を思い出させた。


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