goo blog サービス終了のお知らせ 

読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

キップをなくして (ネタバレ)

2019年08月11日 | 小説・文芸

キップをなくして (ネタバレ)

池澤夏樹
KADOKAWA

 

 スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーがおすすめしていたので読んでみた。小中学生あたりの読書本としては有名らしくって、中学生の長女はこの本のことを知っていた。図書室にもあるという。

 刊行は2005年だが、物語の舞台は1987年頃である。この物語は、その時代の東京の鉄道事情がわんさか出てくる。今から20年近く前だから、いまの小中学生にはわけのわからないところも多いのではないか。青函連絡船とか寝台特急とか。

 その最たるものが駅の改札口だ。

 大人がさんざん口にしてきただろうから、たいていの子どもは聞いたことがあるにちがいないが、ほんの少し前までは改札口には人が立っていて、駅に入場するときは乗客が渡す切符1枚1枚に鋏をいれていた。地方のローカル鉄道などではまだ見ることがあると言われている。ラッシュ時の新宿駅の改札口はものすごいことなるが、ほぼ流れをとめずに改札係はさばいていた。あまりの大量の切符を相手にするので、新宿駅の鋏は数日で使い物にならなくなったという。

 駅から出るときは、切符を改札係に渡して外にでる。

 切符をなくすと、その改札口を通れなくなる。

 子ども時代、ぼくも何回か、改札口からいざ外に出ようとしてポケットから切符が出てこず、真っ青になった覚えがある。切符がなければ、この改札係のおじさんは僕を外に出してくれない。

 たいていの場合は、どこからか切符は出てくるのだが、この改札係のオジサンたちには不思議な威圧感があった。

 もっとも関西地方では自動改札機はずっと前から導入されていた。僕は幼少の頃は大阪に住んでいたのでおぼろげながら当時の関西の自動改札機の記憶がある。とにかく幼少期なので背が低いから、ハッチが目の前の高さで開閉する。目前で樹脂製の扉がバタンバタンいうので通り過ぎる前に閉まって顔面にぶちあたったり、弾き飛ばされたらどうしようと恐怖のゲートだった。毎回、高速で駆け抜けていた。

 つまり、子どもにとって改札口というのは、いわば日常と異界の境目を成す門なのであり、改札口のむこうの世界というのは鉄道というワンダーランドだった。

 

 この「キップをなくして」は、このワンダーランドに入りこんだ少年イタル君の物語だ。イタル君は切符をなくして改札口を出られず、東京駅の「駅の子」になる。そこには同じように改札口を出れなかった仲間たちがいる。この物語は、あたかも「千と千尋の神隠し」にでもあるような少年少女の成長の物語である。異界とイニシエーション、生と死、多様性の相克の物語がある。鈴木敏夫がアニメにしたい、という気もわかる。

 で、僕はずっと黒柳徹子の「窓ぎわのトットちゃん」に似ているなあと思いながら読んできた。かたやファンタジー小説かたや自伝だから本来的には全然違うわけだが、多様な子どもたちが登場し、彼らが毎話毎話この閉ざされた社会でなにかを織りなすこの感じは、「窓ぎわのトットちゃん」が通うトモエ学園みたいだなという印象がずっとぬぐえなかったのである。

 トモエ学園に集まる生徒たちがトットちゃん始めなにかいろいろワケありなのと同様に、「キップをなくして」の駅の子たちもどことなくワケありなところが見え隠れする。その最たるものは「死んでいる」ミンちゃんだろうが、定期をなくしたタカギタミオも、学校に行かないフクシマケンもなにか事情がありそうだし、ガムが好きな年長のフタバコさんも、妙にクラシックな遊びしかしない泉と緑と馨も、行間からなんとなくワケありに見える。そして「駅の子はみんなでみんなを教えあう」というところに、はみでてしまった子供たちの社会学校としてのこのワンダーランドをみる。

 トモエ学園の校長先生がそうであったように、子どもたちをやさしく采配していくのが「東京駅長」である。

   学校むけの読書感想文を書くとすれば、イタル君とミンちゃん以外の登場人物にフォーカスしてみるのも手だろう。フタバコさんなんかは掘りがいがありそうだ。

 

 「窓ぎわのトットちゃん」にも「キップをなくして」にも共通するのが、子供たちのなんとはなしの悲壮な影と、それを覆いかくそうとする明るいテンションとのギャップだ。「窓ぎわのトットちゃん」は終盤で戦争に巻き込まれるために本格的に悲劇となっていくが、それ以前の日常にも、どこかちょっと悲しさや寂しさがつきまとっていた。それと同じ空気をこの「キップをなくして」にも感じられる。本当は家に帰れるのに帰らないとなってからはいよいよそれを感じる。

 そんな彼らが最後にむきあうのは命とは何か、生きていくとは何かという命題である。これはたいへん難しい問いだが、本小説ではそれを、充分にこの人生を味わいきったかということに集約させている。味わいきるというのは単に楽しんだということだけではない。喜怒哀楽をやりつくすということだ。無為な毎日ではなく、感興が動く毎日だ。感興が動くならばどんな人生でもその人は生を味わっていると言えるだろう。その人生を味わいきったと言えるだろう。

  幼くして不慮の死を遂げたミンちゃんはやがて昇天し、「駅の子」たちはここに至って解散となり、みな自宅へ帰っていく。本小説の主題はこれであって、駅や鉄道というのは副次的なものに過ぎないとさえ言える。

 そういや、トモエ学園も電車を教室にしていたな。子どもたちにとって鉄道というのは、物理的にだけでなく、心も今のこの場所からどこかへ連れていくものだったのかもしれない。


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 家康、江戸を建てる | トップ | 劣化するオッサン社会の処方... »