読書の記録

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家康、江戸を建てる

2019年08月09日 | 小説・文芸

家康、江戸を建てる

門井慶喜
祥伝社

 

 天下分け目の関ケ原の戦いが西暦1600年であることはよく知られている。また、江戸幕府の開幕が1603年であることも有名な区切りである。

 しかし、だからといって1603年に突如江戸の街が現れたわけではない。

 

 江戸の地に徳川家康が入ったのは西暦1590年である。いまの東海地方を中心とする駿府の五ヶ国を領地としていた徳川家が、豊臣秀吉によって関東八ヶ国と国替えとなった。このころは江戸という場所は素寒貧とした漁村でしかなかった。

 徳川家を江戸にうつしたのは、秀吉の企みであったことは確かだ。しかし、この企みの結果が現代日本にまで影響したことになる。未来においてこの地が世界都市TOKYOになるなどとはいかに秀吉も想像していなかっただろう。

 徳川家康がただ者ではないのは、この「江戸」という都市をこの世の中に出現させたことである。

 家康が関東八ヶ国へと国替えにしたがった際、どこを拠点にするかという判断がまずあったはずだ。秀吉が江戸を指定したという説もあるが、そうだとすればかなり露骨な嫌がらせだろう。これまでの関東の歴史を振り返るならば、小田原、鎌倉、古河あたりが無難なところだろう。この小説では家康自らが江戸を選んだと語っているが、とにかく1590年の時点で江戸の都市づくりがスタートしたのである。ろくな水も出ない土地であった。

 徳川家はこの時点ではまだ安泰ではない。1600年の関ケ原の合戦に勝利することで天下の多くを味方につけたとは言え、この時点では太閤の豊臣家はまだ存在する。豊臣家が滅びるのは1615年の大坂夏の陣を待たなければならない。

 つまり、1590年に江戸に入ってから1615年に豊臣家が滅びるまでの25年、徳川家は内政にうつつを抜かすわけにはいかなかったのである。

 そのあたりの事情すなわち関ケ原の戦いや大坂の陣を描いた歴史小説や時代小説はたくさんある。司馬遼太郎も池波正太郎も書いている。

 しかし、このような戦国時代末期の戦いが行われた同時期に、一方では江戸の都市開発が文官の手によって行われていた。それがこの小説である。この小説には血なまぐさい戦闘はほとんど出てこない。出てくるのは、治水(利根川東遷)、貨幣の鋳造、上水道の整備(神田上水)、石垣の調達、そして天守閣の建造である。地味といえば地味で、およそ歴史小説のテーマになりにくいものばかりだが、これらこそは社会インフラそのものである。

 繰り返すが徳川家康がただ者でないのは、江戸という必ずしも恵まれていない土地事情のこの地の都市インフラ整備に、しっかりと人と時間と金を費やしたことだ。その工事の着実さこそが大江戸260年を経て明治維新後もこの地を大都市として可能にし、現代に至らせていることである。

 

 小判や石垣の話も面白いが、やはり利根川の治水と、神田上水の利水の話が壮大だ。とくに伊奈家四代に渡る利根川の東遷事業はもっと語られていいかに思うのだが、歴史の教科書でもあまり目立つ書かれ方をしていない。同時代の政治史では大坂の陣、島原天草の乱、由比正雪の乱、赤穂事件あたりのほうがずっと有名だが、後世への影響という点では、利根川東遷事業のインパクトはずっとずっと大きい。利根川東遷事業がなければ、関東地方の地理地勢はまったく違ったものになっていただろう。それどころか、関東地方に近代社会は訪れなかったかもしれない。


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