読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

フェルマーの最終定理

2009年11月13日 | サイエンス
フェルマーの最終定理

著:サイモン・シン 訳:青木薫


 ノンフィクションとかドキュメンタリーには、2種類あって、それは題材ネタそのものが非常に面白いもの。つまり、ライターが少々2流3流であっても、ネタそのものが面白いために結果として読ませるものになっているというタイプ(もちろんそのための取材は非常に重要だが)と、題材ネタそのものは非常に地味、あるいは特殊でまったく万人受けしないのだが、ライターの才覚で、それを実に読み応えのある作品に仕立て上げられたものとがある。
 誤解を承知で例をあげると、前回の「大脱出」なんてのは前者であろう。「徒歩でシベリアからインドまで踏破した」なんてのはまずは題材の勝利である。

 さて、この「フェルマーの最終定理」は後者、つまりよくもまあこんな特殊で狭いマニアックな世界をここまで血沸き肉踊るコーフンで夜も眠れないドキュメンタリーに仕立て上げたものだ、というやつで、サイモン・シンおそるべしである。

 「フェルマーの最終定理」そのものは、とてもマニアックな世界のものだ。すなわち、「XのN乗+YのN乗=ZのN乗」という数式において、Nが3以上の自然数の場合、この数式を満たす自然数X・Y・Zは存在しない」というやつで、フェルマーが結論だけ書いて、その証明を書き残さなかったため、以後300年、世界の超一流の数学者が挑んでは証明できずに敗退してきた。それを20世紀も終わりになってワイルズというイギリス人の数学者が解いたわけである。
 それは、確かに画期的なことではあるが、とはいうものの、万人受けする話とはやはり言い難いだろう。合コンでこんな話題はまずできまい。まして、その解法というのが、フェルマーの最終定理の対偶であるところの「谷山=志村予想」つまり、なんと楕円曲線はモジュール形式で説明できてしまうのだ! という予想に対する背理法、そんなこといったらNが自然数のわけないじゃん、を証明したものなのだよん、とやったところで、面白いわけがない。実際にワイルズが行った証明は、本書の表現を借りれば、この分野を専門とする数学者の中でもその証明を理解できるものは10%に満たない、とされる超難解なものなのである。

 が、私の身の回りでも、公認会計士の人から、制作プロダクションの社長から、歯科医から、ゲームクリエーターまで、口をそろえてサイモン・シンの「フェルマーの最終定理」は面白い! と言う。これはどうみてもサイモン・シンの努力と才能のたまものである。

 実際に、サイモン・シンがとった方法は非常に巧みだ。きわめて広範の関係者に取材していることがまずベースとなっており、歴史資料への取り組みもきちんと行っている。解説でも触れられているが、ワイルズの証明に間接的にかかわった日本人数学者や、歴史上不遇だった女性の数学者についても公平に触れられている。こういった、執筆の姿勢がまず好感高いが、何よりも巧い、と思ったのは章建てと物語の進行だ。

 物語はまず、ワイルズがフェルマーの最終定理を証明した、と発表したセミナーからスタートする。そして、時代がさかのぼり、フェルマー以前の時代の数学の取り組み・・ピタゴラスの定理から始まって、過去、フェルマーの定理に挑んだ数学者の実績に触れることで、「点予想」とか「L系列」といった、本来ならばいったいなんじゃそりゃという世界にさりげなく入り込み、「谷山=志村」予想の悲劇と激動のエピソードに絡めて超難解なモジュール演算に触れ、背理法や帰納法といったそういや高校のときに聞いたような・・という感触を得て、最後にこれらをぜーんぶつなげて、証明者ワイルズの物語にするするっと入っていく。このワイルズの物語がまたよくできていて、いったんは栄光を手にした、つまり冒頭のシーンに戻るものの、その証明に瑕が見つかり、再証明のための悪戦苦闘、つまり本書の最大のクライマックスがここから始まる、という、実にジェットコースター型なのだ。映画でも見てるかのようなカタルシスがある。

 「フェルマーの最終定理」だって難題だが、「「フェルマーの最終定理」にまつわる話を一般の人でもわかるように面白く書く方法がある」だってものすごく難題だ。サイモン・シンがそれを証明してしまった。現物を手にとれば、まるで必然のようにそこにあるが、ゼロから彼はこの物語を構成させたのである。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 脱出記-シベリアからインド... | トップ | 最近のテレビ・バラエティー... »