読書の記録

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文化人類学の思考法

2022年08月15日 | 民俗学・文化人類学
文化人類学の思考法
 
松村圭一・中川理・石井美保
世界思想社
 
 
 とかく結論を急ぎたい世の中である。映画はファスト動画で、ドラマは1.5倍速で、広告動画は6秒でも長い。現代を生きていく上で1日24時間では足りなすぎるということか。
 パターン認識があふれている。ちょっとした理解のとっかかりを見つけたら、ああこれは要するに●●のことだよね、と解釈し、結論する。見出しの数文字でコンテンツの結論を推しはかる。ひとつの写真だけですべての主張を判断する。
 よく言えば演繹的思考法。悪く言えばすぐに型に嵌めようとする思考法。行間とか伏線とか逆説とか閑話休題とかあえてのミスリードとそんなのはいらない。そんなのにかかわっている時間はない。さっとみてさっと判断したもので、眼前の世の中を見立てる。人は見た目が9割、人は話し方が9割、企画書は1枚である。
 
 そんな加速する現代を逆撫でするのが本書だ。いわく「文化人類学の思考法」。これすなわち、結論を急がない、用意された「型」や「理論」はぜんぶ疑ってかかる、すべては目の前ひとつひとつの現象をじっくり観察、それも実際に見て聞いて嗅いで触って舐める。外から観察するのではなく、中に入って一員になる。それからずるずると牛の反芻のように長い思考をする。

 序論にはこう書いてある。
 
 調査対象の「近さ」と比較対象の「遠さ」。この「距離」が、文化人類学的想像力に奥行と豊かさをもたらす。私たちの固定観念を壊し、狭く凝り固まった視野を大きく広げてくれる。それが世界の別の理解に到達するための可能性の源泉でもある。
 
 「思考法」こそが文化人類学の特徴であるから、その観察対象は決してアフリカの少数民族でもポリネシアの海の民に限るわけではないのだ。科学者の集団とか、美術館に集まる来館客とか、街角のデモや市民活動でさえも、文化人類学の観察・参与の対象になる。それどころか国家や戦争といったものまで考察の対象にすることができる。先入観や与件を徹底的に疑い、既存の理論や公式にあてはめることを慎重に避けながら、ひとつひとつの具体例を尊重して彼らの行動や思想や思考に思いを馳せる。安易に理論化させないのだ。理論というのは言わばいくつもの具体的事象の「平均的」なものをつないだロジックである。しかし、すべてが平均なものはこの世に存在しない。個体事例には必ずなにがしかのはみだしがある。文化人類学にとっては、マーケティングとか統計で結論を得る社会像は観念化された似非社会なのだ。文化人類学は態度としては哲学に近いかもしれない。
 
 文化人類学が追求していることを強いて言えば、頭で考えるのではなく、身体に宿した感覚で世界を認識しようという感じに近いだろうか。頭で考えるとどうしても抽象的になり、普遍的になり、理論的になる。しかし、身体が覚えるのはあくまでひとつひとつの具体的事例である。
 
 でも、そこまで時間も手間もかけて文化人類学は何をしようとしているのか? とは思う。この現代において文化人類学の思考は何の役に立つのか。
 
 アカデミズムに対して「何の役に立つのか」という質問は、鬼門でもあるし愚問でもあるし永遠の問いでもあるだろう。僕はたまにこのような文化人類学の入門書みたいなものを読むのだけれど、それは狭窄的視野に捕まってしまう恐怖から逃れたいという一心でもある。コロナ禍になって、Withコロナとニューノーマルの時代になって、DXやWEB3の世の中になって、カーボンニュートラルやサステナブルが合言葉になって、ウクライナがあって米中冷戦があって人生100年になった。情報も人口も気候変動も加速する世の中で、サバイバルのために「こうあるべし」が次々と襲ってくる。コスパとタイパの圧がとにかくすごい。この世を生きていくにおいて、正解に至るのはただ一つの細い道であとは全部間違い、というクソゲーのRPGみたいになっている。多様性はうたわれるけれど、「多様性とはこのようでなければならない」というひとつの正解、それ以外の多様性はすべて似非、といったファッショめいたこともたまに感じる。
 
 「正解」を押し付けられるというのは、その「正解」が「理論」であり「型」にもなっているということだ。でも歴史を振り返れば、「理論」も「型」も流行り廃りがあり、前進と後退があった。むしろ怖いのはその「理論」なり「型」との心中である。これこそが狭窄的視野に捕まる罠であろう。
 
 だけれど、海に泳ぐ魚が空や陸地の世界を感知しないように、三次元の生物が四次元の自由度を把握できないように、視野が狭まっていることを当人はなかなか気づくことができない。もっと広い世の見方がある、ということを自分に想像させるのは本能的に反した無理強いでもあるだろう。
 
 なのでせめて僕は逃げるように文化人類学の本を読んでいる。本格的な研究書はなかなか手が出ないので、入門書やガイドみたいなのが多いのだが、ひとときでも自分を囲む世界の壁が溶けて、ホワイトノイズの中のように浮遊する感覚になれるのだ。

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