読書の記録

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「役に立たない」研究の未来

2021年07月16日 | サイエンス
「役に立たない」研究の未来
 
初田哲男・大隅良典・隠岐さや香・他
柏書房
 
 
 科学者の研究活動、とくに基礎研究と呼ばれる分野において、研究費のもとになる国や企業や財団からの補助金が、「何の役に立つのか」という観点で審査される、あるいは「すぐに役に立ちそうにもないから」という理由で予算を削られたり、審査に落ちたりする。基礎研究なんてものはそもそも簡単に「何の役に立つ」と断言できるものではないのにこれはどうしたことか、という問題意識を背景にしたシンポジウムの記録である。
 
 
 僕は「研究者」なんかじゃないけど、この「役に立つか立たないか」というアジェンダには日々頭を悩ませている。そしていつのまにか自分自身「それって役に立つのか?」という観点で物事を見てしまおうとしている。仕事上のあれこれもそうだし、子どもの教育とか諸々の経験値とかもそうだし。もちろん政治や行政であれこれやるたびにそれは役に立っているのか立っていないのかの観点で見てしまおうとする。ここまで強硬しながらの東京オリンピックも、大阪の万国博覧会も「何の役に立つのか」という観点でついついとらえてしまう。あろうことか、本来好きである読書でも、書店で本を手にとりながら「この本を読むと何か役に立つだろうか」なんてことを頭をかすめてしまう。
 ここ数年の新入社員の様子をみると「いかに自分が役に立つか」というアピールというか実績づくりに余念がない。プレッシャーになっているといってよい。万事において、この世の中「役に立たない」と思われた瞬間もはや居場所はない、ここから退場せよと通告されるに等しい。どうもそんな空気になっている気がする。
 
 
 とはいうものの、本書で再三にわたって議論されているように、この「役に立つか立たないか」というのは、ひどくトラップ性の高いアジェンダなのである。
 
 ①それは誰にとって役に立つことなのか。自分なのか、他人なのか、特定の集団なのか、日本なのか、社会なのか、地球全体なのか。
 ②それはいつ頃までの期限で役に立つことなのか。明日なのか、今月なのか、今年中なのか、数年以内なのか、10年後か、100年後か。
 ③それが役に立つのはどのくらい自明なのか。100%なのか、半々なのか、ひょっとするとなのか。
 ④それが役に立つか立たないのか判断するのは誰なのか。その人の判断や根拠は信用できるのか。
 
 こういったある種のプレゼンテーションに耐えられないといけない。
 
 だけど、実は最大のトラップは「役に立つか」というアジェンダそのものにあるだろう。
 たとえば、本書の主張にあるように、一見役に立たない基礎研究も、「遠い未来で役に立つ(かもしれない)」「何かの波及で役に立つ(かもしれない)」「誰かの研究と相まって役に立つ(かもしれない)」。
 つまり、何が役に立って何が役に立たないかを真に仕分けできる人間なんてこの世にいないのである。Covidウィルスの変異種を予見したワクチン開発の研究を10年前にやっても誰も役に立つなんて思わなかった。何が役に立つかなんてわからない、というのが真相だろう。
 ノーベル賞なんかをみていると、最近の研究結果のものもあるが、30年も40年も、どうかすると半世紀以上前の研究がここにきて功を認められて受賞したなんてものもけっこう多い。
 
 だから、何が役に立つかなんてわからないので、とにかく「多様性」を担保して、いろいろ同時並行でやってみて、何か芽が出そうになったらとりあえずそれに集中する、もちろん他のものもそのまま生かしておく、というのが本当は理想なのだ。本書の主張もそこにある。
 
 
 でも、そんなのみんなわかってるんだよなという気もする。
 研究機関の資金を支える国も、企業も、財団も、台所事情は似たり寄ったりで、全分野に潤沢に資金を用意できないからこそどうしようということなのだろう。そのときの予算の分捕り合いにおいて「役に立つ」プレゼンテーションの上手なものが勝つ、というのが実情だ。これは「研究」に限らない。会社のプロジェクトの予算申請も、国や自治体における各予算の分捕りも、さらには学校のクラブ活動の予算折衝も、家庭での大きな買い物の交渉も、子どものおねだりもみーんなそうである。
 つまるところ、我々の社会全体が「役に立つか立たないか」を仕分け判断として動いているとしか言いようがない。その先にはそれがどれだけ稼げるのかという経済的な面があるのも確かだし、行きつく先は資本主義社会とか民主主義あたりの妥当性の議論になってしまう。
 それに、この観点ではなくて「面白いか面白くないか」「カネがかかるかかからないか」など、他の判断軸を用いても結局は角が立つようにも思う。なんにせよ「仕分け」は避けられないからだ。そう考えていくと、この問題は出口がないような気もしてくる。
 
 一方で、本書は最後のほうで「役に立ちすぎる研究には怖い側面がある」としてルース・ベネディクトの「菊と刀」を挙げている。ある種、日本の運命を決定づけたといってもよい研究である。ある意味で「菊と刀」はGHQの日本占領統治方針において我々日本人にとってなんとかぎりぎりの妥協点の軟着陸を誘導したといってもよいだろう。だけど、本書の研究結果が違うものだったら、GHQは違う占領統治方針を敷いた可能性だってある。それが今より良いものだったか悪いものだったかはもはや永遠にわからない。政策に直結する研究というのは確かに怖いところがある。
 この「菊と刀」。じつは僕はこの本に心底感動したクチである。日本人分析の指摘の的確さというよりも、日本語もわからないし日本に行ったことがなくても、聞き書きだけでここまで迫真に近づけるのかということだ。彼女のスキルがすごかったということだが、文化人類学的手法の凄みを見た思いがした。
 そう考えると、「役に立つか立たないか」という観点のひとつに、その研究到達目標とはべつに「やり方」という点からフォーカスする意味もあるかもしれない。中世錬金術も目的としては現代から見れば噴飯モノであったが、その過程で結果的に多くの副産物が科学的成果として生まれた。聞きかじりだがナイロンもペニシリンもみんな別の研究課程の中で副産物として生まれたそうな。
そういう意味では、いろんな手数を確保しておくというのは、今後の不透明な社会においてかなり大事なことのようにも思う。

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