読書の記録

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この世界の片隅に<上>

2008年02月01日 | コミック
この世界の片隅に<上>---こうの史代---コミック

 奇蹟の作品「夕凪の街・桜の国」で、衝撃的なインパクトを世の中に与えたこうの史代氏だが、作者本人言うように本来はギャグ路線の人なのである。もっともギャグとはいっても、いわゆるドタコメやラブコメとは明らかに違うタイプであり、あのスクリーン・トーンをいっさい用いない独特の画風と、ノスタルジックな世界観、たまに挿入される実験的な手法、これらの主戦場がショートショート連作や4コマであることなどがあって、「夕凪の街・桜の国」以前は知る人ぞ知る個性派漫画家だった。「街角花だより」「ぴっぴら帳」「長い道」など、万人ウケはまずしなそうだけど、しかしはまる人には中毒ともいえるほどそこに没入できる不思議な作品であった。

「この世界のかたすみに」は、「夕凪の街・桜の国」で見せた文学的境地(戦争モノという意味では決してない)と、それ以外の作品でこれまで見てきたような人の機敏の描写やちょっとした雑学ネタ、各種実験の両方のタイプを併せ持った作品と予感している。予感、というのはまだ連載中で、単行本<上>の限りでは、昭和10年代の広島という舞台であることを差し引けば、どちらかというと「従来のギャグ路線」のほうに傾倒しているからだ。主人公すずの健気ぶりとおとぼけぶりは、「ぴっぴら帳」のキミ子さんや、「長い道」の道さんを連想するし、日常の安寧さをかもし出すところや、随所に出てくる知識は「さんさん録」を思い出す。そして、朝から晩まで忙しく働いてそれでも貧しく、しかしなおその生活が読み手に幸福感を感じさせる福音的なところは、こうの史代の真骨頂だ。

 とはいえ、昭和10年代の広島県呉市を舞台にしている以上、必然的に回を追うにしたがって戦争の影が忍び寄ってくる。<上巻>において既に、幼なじみは千人針で送られ、戦艦大和の機影も見えてきた。主人公すずの旦那がいずれは戦地に赴くのは、ほぼ確実だろう。物語の後半となる<下巻>が待ち遠しいが、前半と後半の対比あるいは昇華こそが、この作品の構造が持つ命題に違いない(こういう全体の構造とか、全体と細部の相互関係の巧みさに関しても、こうの史代は天才的な目配せを見せる)

 それにしてもいい絵を描くよなあ。かすれた線描、霧の向こうのような街の光景、なによりも、くるんと上を向いたまつげの描写の愛らしさの妙は天下無敵。

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