はあ疲れた。数日前に漱石の『こころ』で代行作品をちゃちゃっと書いたんだけど、もっとJKが読むような作品でって言われたので(だったら何でもいいって言うなよな...とぶつぶつ文句を垂れる私)人の膵臓を食べる話を読み、書きました。これは時間かかった、半分くらいしか読んでないとはいえ時間がかかった。金が欲しい。まぁそもそも要求してないからいいんだけどね。よい子は真似するなよ!!
そんなわけで感想文を書いたのです。
『君の膵臓をたべたい』を読んで
2年A組 グレート 義太夫
正直に言ってむかついた。この本を読んでいてむかついてしまった。死ぬことは確かに怖い。私だってとても怖い、夜中に眠れなくなることがあるくらいに。あれは確か私が5歳のころだったと思う。夜中に死ぬことが怖くなって、寝ている母親を起こして泣きついた記憶。きっと古代の人も、死ぬことが怖くて眠れない夜があっただろう。それで夜空を見上げて星座なんて生み出したりしたのだろう。だから物語を生み出していったのだと思う。
でも今はそんなことなんてどうでもいい。この小説は、死ぬことがテーマになっているものの、高校生活の鬱屈を「死」を理由に、ああでもないこうでもないとこねくりまわしているだけの話に過ぎないように感じた。そういったら作者に失礼に当たるだろうか、でも読んでいてそう思ったし、私は自分の気持ちに嘘を吐けない性分なので、率直にそう綴ることにする。
いくら主人公の「僕」が、彼女の死につながる重病を記した手記を読んだとは言え、それ以降に彼女が途端にあけっぴろげな態度に出たり、今まで人と積極的につながりを持ってこなかった「僕」が(この時点で「僕」は相当変わり者なのだろう)、人に急に親密になったりするのは都合がよすぎるように思った。「死」という苦難や痛み、恐怖に向き合う場合、誰しもそうなるわけではない。いや大半が、自分の死に十分に向き合えないのではないか。それを「僕」にだけ率直に打ち明ける彼女の存在が、どうも信じがたいのだ。こんなに強く死と正面切って向き合える人が、高校生でいるだろうか。それとも「死」は人をそれだけ成長させる経験になるのだろうか。私にはそう思えなかった。
死を間近に控えている彼女と、博多と思しき都市の夜で「もし本当に私が死ぬのが、本当は怖くてたまらないって言ったらどうする?」という問いを投げかけたことは多少リアリティーがあったかもしれない(しかし、そもそも小説である時点でリアリティーを求めるのは野暮かもしれないが)。でもそれからの展開は、クライマックスに向けて読者の涙を誘うためのご都合主義のように読めてしまった。だからむかついてしまった。それ以外にむかついたことの十分な理由はない。それに、人の感情を引き起こすのは明確な理由を必要としないと思う。読んでいて、私はむかついた。他に何が言えるだろうか。
現代社会は「死」を消費する。ドラマでも映画でも、もちろんこのような小説でも。それは何故だろう。おそらく、身近な場所での親密な人の死がほとんどなくなったためだ。昔のことはよくわからないけれど、この小説で何度も語られているように医学は進歩してきたのだろう。だから、怪我や病気で死ぬ人は減ってきているはずだ。それに最近は家で死ぬ人が減ってきている、とニュースで見たことがある。死ぬ人はどこへ行ったのか。きっと病院や老人ホームで死んでいるのだろう。だからこそ、昔はそこら中に溢れていた「死」は、もはや私たちから十分に身近な存在ではなくなった。「死」にリアリティーがなくなった。だからこそ、時々自分たちがやがて「死」を迎えることを思い出させる必要がある。それも、程よい程度で。
それに「死」はわかりやすい悲劇だ。誰も『カラマーゾフの兄弟』の下男スメルジャコフのように思い秘密を抱えた、あるいは『百年の孤独』のアウレリャノ・ブエンディア大佐のような壮絶な死を迎える必要はない。程よく悲しく、死を思い起こさせる刺激があればいい。それで私たちは自分がいつか死ぬことに思いを馳せ、悲しい気持ちになれる。いや、十分に悲しい気持ちになった「気がする」。そういった錯覚を覚え、自分が生きていることに感謝し、命を大切にしようと思える。それで十分だ、難しいことは考えたくない。誰も彼もが安っぽく死んでいた時代は過ぎ去ったし、かと言って人ひとりの死を重く受け止めすぎるのも、何か違うようにも思う。SNSで人はたくさんつながっていて、その存在や死は可視化されている。だからこそ、自分と言うかけがえのない存在が死ぬことも、十分に重く考えることはできなくなってきている。
今の時代、誰も真剣に悲しんだり、悲嘆にくじけたりしたくないのだと思う。だってそれはとても辛いから。世界にとってどうでもいい存在である自分が、いつか死ぬかもしれない。その苦しさに正面から、真正直に耐えるのはとても難しいから。だからこそ、この小説を読んで、ほどよく「死」を消費しようとする姿勢に腹が立ってしまったのかもしれない。私はこんな風に描かれるような死を迎えたくない。自分があとどのくらいで死ぬかはわからないけど、そんな風に思った。
というわけで完了です。だいたい4ページ半です。
私にTwitterで代行を依頼するのはそこまで頭がよい行為とは言えないけれど、草舟のような私は断り切れずに書いてしまった。頼んだあなたも、そして断れなかった私も罪深いのでしょう。作者に失礼だけど、それはしょうがないかな。
そんなわけで感想文を書いたのです。
『君の膵臓をたべたい』を読んで
2年A組 グレート 義太夫
正直に言ってむかついた。この本を読んでいてむかついてしまった。死ぬことは確かに怖い。私だってとても怖い、夜中に眠れなくなることがあるくらいに。あれは確か私が5歳のころだったと思う。夜中に死ぬことが怖くなって、寝ている母親を起こして泣きついた記憶。きっと古代の人も、死ぬことが怖くて眠れない夜があっただろう。それで夜空を見上げて星座なんて生み出したりしたのだろう。だから物語を生み出していったのだと思う。
でも今はそんなことなんてどうでもいい。この小説は、死ぬことがテーマになっているものの、高校生活の鬱屈を「死」を理由に、ああでもないこうでもないとこねくりまわしているだけの話に過ぎないように感じた。そういったら作者に失礼に当たるだろうか、でも読んでいてそう思ったし、私は自分の気持ちに嘘を吐けない性分なので、率直にそう綴ることにする。
いくら主人公の「僕」が、彼女の死につながる重病を記した手記を読んだとは言え、それ以降に彼女が途端にあけっぴろげな態度に出たり、今まで人と積極的につながりを持ってこなかった「僕」が(この時点で「僕」は相当変わり者なのだろう)、人に急に親密になったりするのは都合がよすぎるように思った。「死」という苦難や痛み、恐怖に向き合う場合、誰しもそうなるわけではない。いや大半が、自分の死に十分に向き合えないのではないか。それを「僕」にだけ率直に打ち明ける彼女の存在が、どうも信じがたいのだ。こんなに強く死と正面切って向き合える人が、高校生でいるだろうか。それとも「死」は人をそれだけ成長させる経験になるのだろうか。私にはそう思えなかった。
死を間近に控えている彼女と、博多と思しき都市の夜で「もし本当に私が死ぬのが、本当は怖くてたまらないって言ったらどうする?」という問いを投げかけたことは多少リアリティーがあったかもしれない(しかし、そもそも小説である時点でリアリティーを求めるのは野暮かもしれないが)。でもそれからの展開は、クライマックスに向けて読者の涙を誘うためのご都合主義のように読めてしまった。だからむかついてしまった。それ以外にむかついたことの十分な理由はない。それに、人の感情を引き起こすのは明確な理由を必要としないと思う。読んでいて、私はむかついた。他に何が言えるだろうか。
現代社会は「死」を消費する。ドラマでも映画でも、もちろんこのような小説でも。それは何故だろう。おそらく、身近な場所での親密な人の死がほとんどなくなったためだ。昔のことはよくわからないけれど、この小説で何度も語られているように医学は進歩してきたのだろう。だから、怪我や病気で死ぬ人は減ってきているはずだ。それに最近は家で死ぬ人が減ってきている、とニュースで見たことがある。死ぬ人はどこへ行ったのか。きっと病院や老人ホームで死んでいるのだろう。だからこそ、昔はそこら中に溢れていた「死」は、もはや私たちから十分に身近な存在ではなくなった。「死」にリアリティーがなくなった。だからこそ、時々自分たちがやがて「死」を迎えることを思い出させる必要がある。それも、程よい程度で。
それに「死」はわかりやすい悲劇だ。誰も『カラマーゾフの兄弟』の下男スメルジャコフのように思い秘密を抱えた、あるいは『百年の孤独』のアウレリャノ・ブエンディア大佐のような壮絶な死を迎える必要はない。程よく悲しく、死を思い起こさせる刺激があればいい。それで私たちは自分がいつか死ぬことに思いを馳せ、悲しい気持ちになれる。いや、十分に悲しい気持ちになった「気がする」。そういった錯覚を覚え、自分が生きていることに感謝し、命を大切にしようと思える。それで十分だ、難しいことは考えたくない。誰も彼もが安っぽく死んでいた時代は過ぎ去ったし、かと言って人ひとりの死を重く受け止めすぎるのも、何か違うようにも思う。SNSで人はたくさんつながっていて、その存在や死は可視化されている。だからこそ、自分と言うかけがえのない存在が死ぬことも、十分に重く考えることはできなくなってきている。
今の時代、誰も真剣に悲しんだり、悲嘆にくじけたりしたくないのだと思う。だってそれはとても辛いから。世界にとってどうでもいい存在である自分が、いつか死ぬかもしれない。その苦しさに正面から、真正直に耐えるのはとても難しいから。だからこそ、この小説を読んで、ほどよく「死」を消費しようとする姿勢に腹が立ってしまったのかもしれない。私はこんな風に描かれるような死を迎えたくない。自分があとどのくらいで死ぬかはわからないけど、そんな風に思った。
というわけで完了です。だいたい4ページ半です。
私にTwitterで代行を依頼するのはそこまで頭がよい行為とは言えないけれど、草舟のような私は断り切れずに書いてしまった。頼んだあなたも、そして断れなかった私も罪深いのでしょう。作者に失礼だけど、それはしょうがないかな。
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