ゆらゆら荘にて

このごろ読んだ面白い本

土偶を読む

2023-06-12 | 読書日記

「土偶を読む 130年解かれなかった縄文神話の謎」(竹倉史人著 2021年4月 晶文社刊)

第43回 サントリー学芸賞受賞!

選評
 「私は精霊が示す“かたち”を受け取り、縄文人たちと同じように、そこから目に見えない精霊の身体を想像した」――縄文時代から降りてきた霊媒を自認するような、著者の神秘的ことあげ。「直観的なヴィジョン」「縄文脳インストール作戦」など、いわゆる学術論文の形式を学問の正当派とする認識からは、あるいは本書の叙述は受け入れ難いかもしれない。
 しかし、こうした過去にむきあう姿勢は、オランダの文化史家ヨハン・ホイジンガが歴史学者に必須の能力と位置づけた「歴史的洞察力」に近い。縄文人の視点にたち、当時を追体験して、土偶に託された人々の心性を明らかにする――。一見突拍子がないようにみえて、本書の方法論は、過去の人々の視点を追体験する歴史叙述を旨とした、文化史、心性史の泰斗の方法に通じ合う。
 土偶を人体のデフォルメや女性像とみなす“通説”を覆し、本書は、イギリスの人類学者ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』における植物霊祭祀にも触発されて、土偶は縄文人の食用植物の形象であると説く。ハート形土偶とクルミ、さらには、現代のクリのキャラクターと土偶の形状との類似性の指摘など、著者の視覚表象の分析は、過去から現代へと縦横無尽にかけめぐる。新説を単なる思いつきのイメージ連鎖に終わらせないよう、オニグルミの分布との関連性など、当時の植生や食生活の実態も視野に入れ、実証的に議論を進めようとする。
 この新説を疑問視する「専門家」もいるかもしれない。しかし、「専門家」という鎧をまとった人々のいうことは時にあてにならず、「これは〇〇学ではない」と批判する“研究者”ほど、その「○○学」さえ怪しいのが相場である。「専門知」への挑戦も、本書の問題提起の中核をなしている。
 

 

 

昔は、土偶といえばシャコちゃん(遮光器土偶)であったけれど
最近は色々な土偶が写真付きで紹介されるようになったので
土偶って、色々あるなぁ
と思うようになった。

縄文人は土偶を作るとき、何かからデザインのヒントを得たに違いない
というのがこの本の主張。

そうだったのかもしれない
そうではなかったのかもしれない
でも、面白いです。

遮光器土偶の手足は、どうしてあんな風に楕円形なのか?
それは里芋デザインだったから。
寒い北東北では、里芋を地中に埋めて次の年に蒔くまで保存するのは危険が伴った。
低温で種芋がダメになってしまうかもしれないからだ。
だから、北東北の縄文人は里芋型の土偶を作ってお祈りをした。

是川遺跡の合掌土偶の顔の中央に横線があり、下半分に模様があるのはなぜか?
下半分がイレズミを模しているというのが通説だけど
では、中央の線は何だろう?
それは栗デザインだったから(表紙)
縄文時代、栗が貴重な炭水化物だった現れだ。

三角形の顔をした山形土偶の顔はどうして平たい三角形なのか?
それは蛤デザインだったから。
木の実ならまだしも、蛤を土偶にする?
と思うかもしれないけれど
縄文人は、現代人のように
栗は植物で、蛤は動物…などと区別はしなかっただろう。
どちらも「落ちている食べ物」というひとくくりになっていたはずだ。
だから浜の栗→ハマグリなのだ。
蛤デザインの土偶があっても不思議ではない。

縄文のビーナスとして知られる目の細い土偶は何を模しているのか?
著者は細い目の上の「飛ぶカモメ」のような形の眉に注目する。
この形は栃の実にそっくりなのだ。
では、目は?
目は「栃の実を食べるネズミの天敵であるマムシ」の目を模している。
実際に、頭の上に蛇のような飾りをつけた土偶もある
……

頭が硬いせいか
ついて行きます
とは言い切れないのが残念ですが……

 

 

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
« 「川と人類の文明史」 | トップ | 「土偶を読むを読む」  »

コメントを投稿