ゆらゆら荘にて

このごろ読んだ面白い本

カササギ殺人事件

2019-03-26 | 読書日記
雨だったり
雪だったりの日々

「カササギ殺人事件」(ホロヴィッツ 2018年9月刊)を読みました。




(筆者は少年向けシリーズで人気を博し
「刑事フォイル」(ドラマ)の脚本も書いている)

上下巻か
これは、たっぷりたのしめそう……
と思って読み始めたのですが


「カササギ殺人事件」は
アラン・コンウェイという作家が書いたミステリ「アティカス・ピュント」シリーズの
最後の作品という形をとっている。
(なぜ、わざわざ?)

1950年代のイギリスのとある村のお屋敷の
階段の下で家政婦の遺体が発見される。
館の主人のサー・マグナス・パイ夫妻は旅行中で
館は内側から施錠されていた。(密室)
事件なのか
事故なのか
……

家政婦のメアリ・ブラキストンは
居てほしくない時にひょいと現れるという才能で
村人たちの多くの秘密を握っていた。

葬儀の数日後
今度はサー・マグナス・パイが殺される。
ホールに飾ってあった甲冑の剣で首を切られて殺されていたのだ。

サー・マグナス・パイは
敷地の一部を売って
安っぽい建売住宅を建てようとしていた。

サー・マグナス・パイは
父親の代から仕えていた庭師に首を言い渡していた。

メアリ・ブラキストンの息子のロバートは
屋敷の池で
幼い弟を亡くしていた。

牧師のオズボーンは
2つの事件以来
様子がおかしい。

メアリ・ブラキストンの元夫マシューも
登場してくる。

村には
サー・マグナス・パイの双子の妹・クラリッサもいた
……

(容疑者が多すぎる)
ぴしりぴしりと手を打っていく探偵・アティカス・ピュント
(それにしても奇妙な名前)

いよいよ解決編が語られる

下巻を手に取ったとたん
物語(ミステリ)はするりと手から逃げていく
……


逃げていく物語を
必死に追いかける
……
という変わった読書体験をしました。

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本の未来を探す旅 ソウル

2019-03-16 | 読書日記
雪が積もっています。

「本の未来を探す旅 ソウル」( 内沼晋太郎他 2017年6月刊)を読みました。
「本の未来を探す旅 台湾」を読んだら
その空気感にはまって
こちらも読んでみたという次第。
(ソウル編の方が先に出ているけど)




本書は

小さな出版社や、小さな本屋や、独立出版物(自費出版やZINEなど)が盛んな韓国
のいくつかの本屋や出版社を訪ねて聞いた話集
なのだけれど
何とも元気な空気感がある。
(韓国の出版界に?筆者に?)

客に書評を書いてもらって
(書くとコーヒーが一杯無料になる)
それをラミネートして
並べている本に挟み込む「本のしっぽ」という活動をしている「BOOK BY BOOK」

ブックデザイナーによる「架空の本のブックデザイン」展をした「U U PRESS」
(架空の本のブックデザイン!)

詩人が営んでいる詩集だけの本屋「wit n cynical」(ウィットンシニカル)では
テーブルの上に詩集を1冊置いて
側に置かれているノートに
客が一節ずつ書き写す「リレー筆写」をやっている。
(できたノートは詩人にプレゼントされる)

読書相談を受けて(1時間)
その人に読んで欲しい本を選んで
後日送る
ブックファーマシー(本の薬屋)をやっている本屋「sajeokin bookshop」

普段本を読まない人を
読書に誘おうと
少人数の読書会を
4つの部屋を用意して毎日開いている本屋「BOOK TIQUE」
……

韓国の人は
思いついたらすぐやる気質であると書いてある。

日本にも
こういう本屋があるのでしょうか?


癖になる味です。
(「本の未来を探す旅 日本」が読みたい…)



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世界史を変えた新素材

2019-03-12 | 読書日記
昨日は3月の嵐。

「Webでも考える人」で連載されていた「世界史を変えた新素材」が1冊にまとまったので
読みました。
(佐藤健太郎 2018年10月刊)




ある高校で講演した時に
「歴史に大きな影響を与えた化合物ベスト3は?」
という質問を受けたことが執筆のきっかけだという。

取り上げられているのは

陶磁器
コラーゲン


炭酸カルシウム

ゴム
磁石
アルミニウム
プラスチック
シリコン

たとえば陶磁器
プラスチックなどの軽くて割れない食器もあるのに
なぜ私たちはいまだに陶磁器を使っているのだろう?
というところから始まって
陶磁器の歴史から
(磁器が純白なのは色の元となる重金属のイオンを含まないためで
白い磁器を作ることは、とても高度な技術だった。
その後
白磁にコバルト顔料(青)で絵付けされた磁器が世界的に大流行した)
現代まで
(セラミックス)
が語られている。

かと思えば
炭酸カルシウム
鉄が材料の王者なら
炭酸カルシウムは材料の千両役者だという。
炭酸カルシウム(石灰石)は
歯磨き、消しゴム、紙、かんすい、イースト、ハム、医薬品、大理石、フレスコ画、肥料、セメント
などの材料になっている(から千両役者)

石灰石が地球上にものすごくたくさんあるのは
空気中の二酸化炭素が水に溶けて
海洋に吸収されて炭酸となり
海中のカルシウムイオンと結合して
不溶性の炭酸カルシウムとなって沈殿するからだ。

二酸化炭素とカルシウムイオンの結合は
空気中の二酸化炭素を減らし
地球の気温が低下して
現在のような気候になった。

石灰石を焼いて作った生石灰は
アルカリ性で殺菌作用もあり
東北の酸性土壌の肥料として有効だと勧めていたのは
宮沢賢治だ。

セメントはピラミッドにも使われたし
古代ローマ帝国の道路や水道の建設にも使われた。

海の生物たちも
炭酸カルシウムの殻で身を守っている
……


どの章も
材料の歴史から未来までが
(もし〜がなかったら
もし〜が、もっと早く出来ていたらなども)
語られていて
知らなかったことを知る楽しさで
脳がわふわふします。




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本の逆襲

2019-03-09 | 読書日記
「本の未来を探す旅 台北」(内沼晋太郎他 2018年12月刊)を読んでいたら




取り上げられているのが
「本を売る+雑貨を売る+雑誌を出版する」店
だったり
「本+カフェ」店
だったり
「新聞発行」をする所
だったり

惹句にある「台湾にも湧きあがる新しい本屋の波」って
何だろう
本屋

???

ということで
筆者が2013年に出した「本の逆襲」を読んでみました。




2013年当時
「紙の本は、もう終わりだ」説が跋扈していた。
筆者は、それへの反論として書いたという。

筆者は言う
「本」は「文字が印刷された紙の束」だけではないんですよ。
放送された「話」も本と言えるし
ツイッターも本(の原型)であると言えるし
三省堂書店の「カレーなる本棚」に展示してあるレトルトカレーも本であると言える
(ますます分からなくなった)

また
紙の本も書店でだけ扱われるのではなく
魚屋の魚の隣にあってもいいし
洋服屋で洋服の隣にあってもいい。
カフェでコーヒーと一緒に出されてもいい。
(スパイラルカフェというところで実際にあったメニュー)
(実際には
現在の流通システムでは難しい)

「書店」というのは
本という商品を扱い、陳列している空間だけど
「本屋」というのは
本を媒介にしたコミュニケーションの空間なのだ。(奈良敏行)
だから本屋というのは媒介者のことである
(なるほど)

それで「本の未来を探す旅」の取材先が
あんなふうになったのか
とようやく腑に落ちた。

筆者は
この考えを現実のものとするために
本とビールと本関連のイベント(毎日やっている)を扱うB&Bという本屋を
やっているそうです。
(黒字)







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風と行く者 守り人外伝

2019-03-05 | 読書日記
スズランスイセンの芽が出てきました。
(去年より2週間ほど早い)

「風と行く者 - 守り人外伝-」(上橋菜穂子 2018年12月刊)を読みました。




「いさんで書きはじめて数百枚も書いたのに
とちゅうで書けなくなった物語を
わたしは数作かかえています」
という一つだという。

2つの時間が交錯する。
まだ十代だったバルサが
養父のジグロとともに
サダン・タラム(風の楽人)のサリの一団の旅を警護する物語と
四十近くなったバルサが
サリの娘のエオナの一団の旅を警護する物語の2つ。

風の楽人が訪ねる先のアール家の当主もまた
替わっている。
若き当主のシッサルとその妻のオリア
から
娘のルミナに。
ロミオとジュリエットのようにして結ばれたシッサルとオリアは
2人の子どもを遺して事故で死んでいた。

何者かに命を狙われていたサリと同じように
今回の旅でも
エオナは命を狙われ続ける。

何故?
誰が?
何のために?

バルサ(用心棒)
オリア(当主の若い妻)
エオナ(風の楽人のかしら)
サリ(風の楽人のかしら)
描かれる4人の若い女性は
それぞれに魅力的だけれど
中でもオリアの魅力が際立っている。
(若き当主と我が子のために
策を練り
それを行うオリア)

風の楽人が歌い舞うことは
「長く歌にうたわれて心安んじた霊は
やがて、この地を守る守護精霊へとかわっていく」ためだ
という設定よりも
胸のすくような闘いの場面よりも
森の王の谷間の朝の光の中を進むオリアの姿が胸に残ります。






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街と山のあいだ

2019-03-03 | 読書日記
「あいだ」というかニッチ(隙間)というか
そういうものが好きです。
(1リットルくらいの瓶の牛乳を配達してくれる牛乳屋さんが
焼きたてのパンもいっしょに配達してくれたらいいだろうな
とその景色を想像してみるような)

ということで
タイトルに「あいだ」とあるエッセーを読みました。
「街と山のあいだ」(若菜晃子 2017年9月刊)




「山と渓谷」の編集者をしていた筆者が
山でのことや街でのことを綴ったものです。

沖縄の於茂登岳では
「沖縄に来ると自分の中の定規が変わる感覚がある。
アジアの一角なのだなと思う。
そして、そのことが快い」
と思い

雨の日の登山では
「街でずぶ濡れになって歩いていたら
傘を忘れた人か
風変わりな人としか思われないだろう。
山は雨の中を濡れて歩くという行為が心置きなくできる。
それは山だけで許された甘美な時間である」
と思い

街では
学生の時、教授に
「美術館で絵を見るときは
必ずどれが好きかを考えながら見なさい」
と言われた言葉を思い出し
(わたしもそうしています)

「山に行かなくても
この人と行ったら楽しいだろうと確信できる友人は
街でも貴重な存在だ」
と思う
……


エッセーは
語られている中味よりも
語りが好ましいかどうかだなぁと思う。

ところどころに
筆者の描いたスケッチが挟み込まれている
のも素敵です。




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