松尾芭蕉 17文字で日本を変えた男
もし松尾芭蕉がいなかったら日本語は違った発展を遂げていたかもしれない?
『おくのほそ道』
夏草や兵どもが夢の跡 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと):岩手県平泉町
閑さや岩にしみ入る蝉の声 (しずかさや いわにしみいる せみのこえ):山形県・立石寺
五月雨をあつめて早し最上川 (さみだれを あつめてはやし もがみがわ):山形県大石田町
荒海や佐渡によこたふ天河 (あらうみや さどによこたう あまのがわ):新潟県出雲崎町
古池や蛙飛びこむ水の音 (ふるいけや かはづとびこむ みずのおと) 『蛙合』
芭蕉の生きた江戸時代まで文学と言えば京都の王朝文化が一千年育んできた雅なもの。
多くのルールや、厳格な言葉遣いに縛られていた。ところが芭蕉はそれらを破壊。
「鶯や餅に糞する縁の先」と、「糞」までを詠み込んでみせる。
身近な風景や何気ない庶民の営みにも美が宿り、感動があることを表現したのだ。
日本人の感性に影響を与えた芭蕉の改革に迫る。芭蕉が生涯に詠んだ句は約900句。紀行文はすべて死後に刊行された。
“侘び・さび・細み”の精神、“匂ひ・うつり・響き”といった嗅覚・視覚・聴覚を駆使した文章表現、そして「不易流行」「軽み」。
この芭蕉の感性は多くの俳人を虜にし、いつしか『俳聖』と呼ばれるようになった。
最期の句は死の4日前の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」
“旅先で死の床に伏しながら、私はなおも夢の中で見知らぬ枯野を駆け回っている”。
芭蕉が敬慕してやまない偉大な先人たち、西行、李白、杜甫らと同様に、彼も旅の途中で果てたのだった。
さまざまのことを思い出す桜かな(芭蕉)遺言は「私を木曽義仲公の側に葬って欲しい」。
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