■中国地方戦国時代、要図
争乱の備前・備中・美作
元弘の乱で、後醍醐天皇に忠を尽くし、その後の建武の新政では、後醍醐天皇に謀叛した足利尊氏に与して、南北朝期、播磨・備前・美作の守護に赤松氏が任じられた。
しかし、嘉吉の乱に赤松氏が没落すると、播磨・備前・美作守護には山名氏が任じられた。
そして、応仁の乱に再興をはかった赤松政則は細川氏に属して、旧領の回復を賭けて山名氏と戦い、ついに宿願の旧領回復を果たしたのである。
そして、美作・備前守護となった赤松政則は、再興とその後の応仁の乱に力を尽くした浦上氏を守護代に任じた。
浦上氏は三石城を本拠とする赤松氏の根本被官であり、赤松氏の宿老として重きをなしていた。
さらに則宗は京の治政にも力量を示し、将軍義政・義尚らの信任も厚かった。
備前国の動向
文明十五年(1483)金川城を本拠とする守護代松田元成が、備後守護山名俊豊の援助により蜂起。福岡城に拠る赤松氏守護代浦上則宗を攻撃した。
翌年、播磨に山名の軍勢が攻め入り、政則がその進退を誤ると、則宗は政則を放遂し、赤松一族の有馬澄則を一時赤松惣領とした。
しかし、ほどなく則宗は政則と和睦し、山名勢を撃退、以後、浦上氏は赤松氏から実権を奪い、勢力を拡大していった。
永正六年(1519)赤松政則の後を継いだ義村は、浦上氏の居城三石城を攻めるが、大敗を喫し、 大永元年(1521)義村は浦上村宗によって自害に追い込まれた。
村宗は義村の子政村を守護に擁立したが、 備前国の実権は浦上氏の手にあり、村宗は備前の支配拠点として新たに天神山城を築いた。
享禄四年(1531)村宗は 細川氏に加勢して、摂津へ出兵し天王寺の合戦で討死した。 村宗の後は嫡子政宗が継いで、本拠を室山城に移した。
しかし、政宗は弟宗景と不和になり、宗景は天神山城に拠り、政宗から独立した。
天文十二年(1543)名目上の守護となっていた赤松晴政は備前に侵攻し、浦上氏を攻めたが、宗景はこれを撃退した。
美作国の動向
文明二年(1470)ころ、美作は赤松氏の支配下となり、応仁の乱が集結すると、山名氏が美作奪回を目指した。
文明十二年、山名氏は美作東部を奪回し、赤松氏の内訌とその混乱に乗じて、翌年には美作全域を勢力下においた。しかし、山名氏は守護に任じられることはなかった。
その後の十八年、赤松氏は守護代浦上伯耆守により美作の支配拠点である院庄を回復し、翌長享元年(1487)には美作全域を支配下においた。
永正十五年(1518)ごろから、赤松氏被官であった浦上氏が台頭し、永正十七年(1520)赤松氏の美作支配の拠点である岩屋城を攻撃し、城は数日で落城、浦上氏被官中村則久が入城した。
赤松氏は、岩屋城奪回の兵を挙げ城を囲むが、城将中村氏は奮戦し、浦上氏被官宇喜多能家の援軍もあり、赤松軍は敗走、以後、浦上氏が美作国を支配するようになった。
備中国の動向
備中国は高(南)宗継が守護となり、ついで秋庭氏、細川氏、宮氏、渋川氏など、めまぐるしく守護が交代した。
永和元年(1375)渋川満頼が守護職を継承、その在職中の永徳元年(1381)から川上郡を石堂頼房が分郡支配し、明徳元年から川上郡と英賀・下道の各郡賀細川頼元の統治下となった。
頼之は明徳三年(1392)、明徳の乱鎮圧後ほどなく没し、三郡は備中守護の統治下に置かれた。同年哲多郡は頼之の子頼元の支配となった。
明徳四年、渋川満頼は守護を罷免され、守護には頼元の弟満之が補任し、そのあとは頼元の子孫が世襲したが次第に勢力を失っていった。
備中国の細川氏支配の守護代としては、庄氏・石川氏が知られている。やがて、守護やその被官は国内の寺社の造営や重要な行事を取り仕切るようになる。
さらに、かれらにより、荘園・公領が押領され、被官や国人衆が所領化していく。成羽荘の三村氏、新見荘の新見氏などである。
寛正二年(1461)新見荘では、守護被官安富氏の代官支配を退け、東寺の直轄支配を要求する土一揆が発生、延徳三年(1491)、護守代庄元資が細川氏に叛し挙兵する。
これは守護の勝利に終わるが、以後、守護の勢力は衰え、有力国人勢力が台頭してくるのである。庄元資の子為資は天文二年(1533)本拠を猿掛城から松山城に移し、備中最大の勢力となった。
備前・備中・美作の戦国時代
天文元年(1532)、出雲の尼子氏は美作に侵攻し、数年の間に美作東部・中部を制圧した。
同十三年、尼子晴久は岩屋城・高田城を攻め、岩屋城主中村則治は尼子方に降り、同十七年には、 高田城も尼子方に落ち、尼子氏は美作の大半を支配した。そして、同二十一年に、美作守護に任じられた。
美作を制圧した尼子氏は備前侵攻をはかるが、浦上氏は宇喜多氏などの活躍で、これをよく防いだ。 天文十三年、浦上氏の被官宇喜多直家は、吉井川河口に乙子城を築き居城とした。
宇喜多氏は応仁の乱以前からの 浦上氏の被官であったが、直家の祖父興家の代に没落し直家の代に再興したものであった。
直家は乙子城から新庄城、亀山城へと拠点を移し、備前南部に勢力をもつようになる。以後、備前は東備の浦上氏、 西備の松田氏、南備の宇喜多氏の勢力が鼎立する情勢となった。
天文五年(1536)尼子晴久が備中に侵入し影響を及ぼした。同二十三年、晴久は名目上ではあったが備中守護に任じられた。
永禄元年(1558)頃から安芸の国人領主であり、備後を平定した毛利元就が備中に侵攻。鴨山城主細川通薫は毛利方に属した。
同五年、元就の嫡子隆元は備中守護に任じられた。備中国最後の守護であった。
永禄八年(1565)毛利氏は美作に侵攻し、翌九年、尼子氏を富田城に滅ぼし、毛利氏は本格的に美作攻略に乗り出した。
このころ、美作は尼子氏の手を離れ、宇喜多直家が支配しており、毛利・宇喜多両氏は抗争を繰り返した。
元亀元年(1570)宇喜多氏被官花房職秀は荒神山城を築き、美作支配の拠点とした。
一方、備中国で勢力を拡大しつつあった成羽城主の三村家親・元親父子は毛利方に属し、美作に侵攻するが、同九年家親は宇喜多直家によって暗殺された。
翌年、家親の子元親は石川氏・庄氏ら備中国人を結集して宇喜多直家と備前明禅寺で戦うが敗北。
この合戦は、二万の三村軍に対し、五千の勢しか持たない直家がその命運をかけて戦った会心の勝利であった。以後、備中には宇喜多氏の勢力がおよぶこととなる。.
永禄十一年、直家は虎倉城主伊賀久隆を味方につけ、明禅寺合戦に日和見を決め込んだ松田元輝・元賢を攻め、金川城を陥し松田氏を滅ぼした。
さらに元亀元年(1570)には、金光宗高の拠る岡山城を奪取した。天文元年(1573)、宇喜多氏の勢力が拡大し、美作には再興尼子氏・毛利氏が侵入したため、浦上宗景は織田信長に通じた。
宇喜多直家はこれに反発して毛利方に属し、同二年岡山城に入城、そこを本拠とした。
明善寺の合戦に敗れた三村元親はその後、勢力を回復し、元亀元年、松山城を攻めて庄氏を滅ぼし、同二年には佐井田城を奪取、元親は本拠を成羽城から松山城へ移した。
天正二年(1574)織田氏と結んだ浦上氏に抵抗するため、毛利・宇喜多氏は連合した。宇喜多氏に反抗していた三村氏は、以後毛利氏を離れて松山城に籠った。
翌三年、毛利氏は三村方の国吉城・鬼身城を攻略し、松山城も攻め落とし、三村氏は滅亡した。
これまで宇喜多直家は主家浦上氏に対して敵対することはなかたが、同五年、直家は、天神山城に拠る浦上宗景を攻め破り、浦上氏は没落。さらに進んで、浦上方の美作三星城主後藤勝基を攻め滅ぼした。
かくして、宇喜多氏は備前・美作・播磨の一部を支配する戦国大名に成り上がった。
羽柴秀吉の中国侵攻
このころ、播磨には織田信長の部将羽柴秀吉が侵入。播磨の諸大名を降し、あるいは滅ぼしてついにその最前線は備前に迫った。
これに対し、宇喜多直家は初め毛利氏に属して、上月城の合戦などに援軍を送って秀吉軍と戦ったが、天正七年、直家は秀吉方に降った。
宇喜多氏の被官伊賀久隆は、毛利氏に攻撃され、城は落城。久隆の子家久は毛利方に降ることになる。
天正七年から九年にかけて、小早川隆景、吉川元春の率いる毛利勢は再三にわたって宇喜多領に侵入、備中忍山合戦、備前八浜合戦、備前辛川合戦、美作寺畑城合戦など、
各地で宇喜多勢と激戦を展開、備中忍山合戦では宇喜多源五兵衛・孫四郎父子、備前八浜合戦では宇喜多基家が討死するなど、直家は苦戦を強いられながらも辛うじてこれを防戦していたが、ついに病を得て天正九年二月、死去した。
直家の死後、その子秀家が跡を継いだ。秀家は秀吉に属し、翌年、毛利方の清水宗治が守る備中高松城攻めに参加した。
同年六月、本能寺の変で織田信長が横死したことを契機に秀吉と毛利氏は和睦し、備前・美作と併せて備中も宇喜多氏の支配下となった。
天正十年、毛利氏が秀吉の麾下に入ると、美作は宇喜多氏の所領となった。毛利方である高山城主草刈景継、岩屋城主中村頼宗らは激しく抵抗。翌十一年、秀吉は蜂須賀正勝・黒田孝高らを遣わしてこれを鎮圧した。
その後、「中国大返し」といわれる兵の撤収を行った秀吉が、明智光秀と京山崎の合戦に破り、天下人に駆け上ると、宇喜多氏は豊臣大名となり、
関ヶ原合戦で西軍の中心となって奮戦、敗れて没落したことは歴史に刻まれている通りである。 戦国時代、備前・備中・美作を舞台に数多の武将たちが合戦に明け暮れた。
美作の三浦氏・後藤氏、備前の浦上氏・宇喜多氏・松田氏、備中の庄氏・三村氏などなど、そして、三国に侵攻してきた出雲の尼子氏、安芸の、毛利氏など。
その多くは合戦のなかに滅び、備前・備中・美作の三国を最終的に支配した宇喜多氏も没落した。まさに戦国の無常・空しさを感じずにはいられない。