ライヴ会場での演奏会へ足を運んでいて、あらためて気づいたことがある。気づいた、と言っても、それはわたしが今さら気づいたというだけのことで、とうの昔からご存じの方は、きっと大勢いらっしゃると思う。
それは、拍手について。
音楽をつくったり、演奏したりするひとにとって、拍手は「音楽の成就」を意味するのですね。わたしは最近まで気づきませんでした。うかつでしたね。
たとえば、独りの部屋で、作詞をする、作曲をする、演奏の練習をする。そこで自分の心と技のなかから、いいものを叩き出して形にしていく。
音楽そのものは、その孤独な作業のなかで完成しているわけです、いうなれば。いままでわたしは、その完成された音楽を披露する場が会場なのだと思っていた。そして、その音楽に感動したひとは拍手をするし、うんざりしたひとはブーイングをする。そんなものだと思っていた。
でも、ちょっと違うのですね。
音楽は、ひとの耳にとどいて共有されたとき、はじめて音楽になる。音楽にはそういう成立の仕方もある。というより、その成立の仕方のほうが古くて本当なんですね。そして、耳と胸で受け止めたひとは、その音に対して拍手という音で返事をする。このとき音楽は聴き手との間で共有され「成就」するわけです。うーん、言葉で説明すると堅いですねえ。
歌手の矢野絢子さんが、なにかのエッセイのなかで「最高の拍手を」と書いておられたことがある。
それを読んだとき、わたしは「披露された音楽が良ければ、黙っていても最高の拍手が与えられるだろうし、そうでなければ、お義理の拍手になるだろうし、なんだか無駄なことを言っているなあ」と思った。
しかし、そうではなかったのですね。
拍手することは、音楽の成立を共有するということ。音楽の「成就」に参加するということ。
そう思い至ってから、あれこれ考えていて気づいたのですが、拍手で成立するなんて、すごく素敵な芸術ではないでしょうか。とても精神的で、美しくて、人間らしい。
ほかには、こういう芸術は、ありそうで、ないんですね。
文学や絵画や、建築などは、そういうものではない。もうすこし違ったかたちで「成就」するものです。映画もちょっと違う。映画館で拍手が湧き起こるという素晴らしい瞬間もあるけれど、あれは音楽の「成就」のしかたとはちょっと違う。演劇は近いかもしれない。しかし、すこし違うような気がする。
精神から精神へと、じかに共鳴しあうような醍醐味。それは音楽特有のものかもしれない。
というようなことを、先日、河村悟さんという詩人のかたにお会いしたときに話したら、
「それは、まだみなさん気づいていないのではないですか」
とおっしゃった。しかしわたしはこう言った。
「いえ、たぶん演奏家の方々は知っていると思うんです。成就という言葉で表現しているかどうかはべつとして、会場で拍手を受けた瞬間に、その成就を体験しているはずですよ」
すると河村さんは、ふかくうなずいて、こうおっしゃった。
「拍手は浄化でもありますね」
なるほど、たしかに浄化でもある。とても日本的な考え方だ。
そして、拍手は「柏手」でもある。かしわで。神社でパンパンとやる、あれですね。二礼二拍手一礼。わたしたちは初詣のとき、年の節目に柏手を打つことで、往く年と来る年を浄化しているのかもしれません。
というわけで、この一年の出来不出来はともかく、行く年へむけて、そして新しい年へむけて、
「最高の拍手を!」