ヨーコさんがこういった番組に出るって、昔ならまったく考えられなかったろうな
体調がすぐれないという噂を聞いてからも、
毎日のようにツイッタに精力的につぶやいているのを見て
やっぱり素晴らしいパフォーマーだと改めて思う
今回の番組は、一瞬、一瞬が奇跡の連続
同じ時代に生きてるんだなあと感慨深い永久保存版
同じ日本人女性として誇りに思う
gooブログは、1日に100枚しか写真を入れられないから
適当なところで区切って、後日、後半の画像をアップする予定
1つの記事に何枚って制限があるのかはまだ不明
*
今回の収録場所はNYにあるショーンの仕事場
S:
僕は41歳で、彼女は84歳
そういうことを話し合う時期が来ているのかもしれません
Y:
今ね、ちょっとすごい病気になって、みんなが
“あと3週間ぐらいで死ぬんじゃないか”って言われてたの
だけど、全然そんなことないのw
ファミリーヒストリーというと、やっぱし懐かしいですね
私たちの小野家とか安田家とか
収録はヨーコさんが日本語版の画面、
ショーンさんが英語版の画面を見るというスタイルで行われた。
(Sは熱心にメモを取りながら観ている 時々2人で話しながら仲睦まじく観ていた
S:
母といっしょに家族の映像を見ながら過ごせるなんて
すごく特別でラッキーなことだと思います
<小野家のルーツを探して>
北海道 札幌
Yのいとこ・有五さん(Y:ユーゴ!
現在、北海道大学名誉教授 地理・地球環境学が専門
長年、小野家の歴史を調べてきた
一番大事なものは、親がとっておいてくれたということでしょうね
それが段ボール箱にいっぱいあって
それを全部出して、整理して、ファイルしている
(後ろの本棚も興味津々 ヨーコさんの伝記もあるし
Q:これらをYはご覧になった?
有五さん:
いえ、全然ご存じないと思います
Yさんは、すぐアメリカに行っちゃったので
<曽祖父・小野作十郎>
有五さん宅にあった一番古い写真は、天宝4年生まれの曽祖父・小野作十郎
柳川藩に仕える武士
水郷の町・福岡県 柳川市
「柳川古文書館」
旧柳川藩の資料15万点などが収蔵されている
明治2、3年くらいの記録に、江戸時代の小野家の石高は100石
明治維新後は10石になったという記録がある
明治維新後の旧柳川藩士などについて研究している関西学院大学助教・内山一幸さん:
正確には1/10ではないですけれども
有五さん:
そう裕福ではなく、むしろ貧乏だった
とくに明治維新後は、食うや食わずみたいな中から英二郎が出てきた
<祖父・英二郎>
家督を継いだのは、祖父・英二郎さん(凛々しい若者だね
武士の身分を失った小野家 英二郎さんは、自ら人生を切り開こうと考え
学問をつけようと「柳河中学」に入った
ある日、先輩の講義を受けて感銘を受けた
人間平等、博愛主義、キリスト教を通した西欧の進歩的な姿に魅せられた
明治13年 英二郎は、先輩の母校 同志社英学校入学(当時17歳
作十郎は田畑を売って学費を捻出した
創立者・新島襄と出会い(
NHK大河ドラマ『八重の桜』の人だ!)キリスト教の洗礼を受けた英二郎
3年目の明治16年
「徴兵令」が出され、それまで免除されていた私立学校の学生も対象となった
同志社を研究する第一人者・本井さん:
かなりの動揺が広がった 場合によっては同志社から誰もいなくなると
生徒は同志社をやめるか、転校するか、留学で逃げる選択しかない
学問を続けたかった英二郎は、東京帝大などを受験したが失敗
郷里・柳川の先輩で文部省官僚・清水彦五郎に相談
関西学院大学助教・内山一幸さん:
アメリカに行くなら洋服があったほうがいいだろうと彦五郎からお古をもらったり、
東京にいる柳川のネットワークは非常に大事で、小野さんを助けた
明治17年 英二郎は渡米 オハイオ州に留学
父が借金して渡航費用を工面
英二郎は、学費のため、図書館の手伝いなどをして4年間学んだ
有五さん:
スピーチの最後に、私がどうしてアメリカに来たかちょっと喋らせてくれみたいなことが書いてある
“京都で一生懸命勉強したが、徴兵制が変わり、20歳になったら兵隊になるかもしれない
学問によって日本のために働こうと思っているのに
兵隊になってしまっては、どうしても自分を生かすことはできない
なんとか勉強を続けて、一人前になって帰りたい”
明治20年 英二郎はミシガン大学大学院入学 経済学
有五さん:
明治のはじめ まさにこれから国をつくろうとしていた
そのために財政、経済のことをやらなきゃいけないという考えだったようだ
ミシガン大学に英二郎在学時の記録が残っている(1872~1895)
英二郎が書いた論文には、江戸から明治になり、
日本を近代国家にするために、経済・金融面でどう歩むべきか書かれている
英二郎は博士号の試験に挑んだ テーマは『日本における産業革命』
“驚くべき研究”“学術的で、思考力は顕著だ”と高い評価で
教授たち全員が英二郎を博士号に推薦している
そのことが話題になった
“聡明な日本人 裸一貫で苦労して進み、最高学位を習得した
彼の英語は語彙力や文法に卓越している”
英二郎は柳川に暮らす父・作十郎に頻繁に手紙を送っていた
作十郎は英二郎の手紙の記述を詳細に残していた
しかし、博士号をとった1ヶ月後、作十郎は突然亡くなった
明治22年 英二郎は急遽帰国
帰国後、新島に手紙を送っている
「同志社社史資料センター」に手紙が4通保管されていた
新島は英二郎に、同志社が新たにつくる政治・経済を専門とする学校の責任者になってほしい
ついてはドイツに留学してほしい要請した
しかし、ドイツ留学3年間は断腸の思いで諦めざるを得なかった
父が亡くなり、母は病弱、借金もあり難しいと返信
翌年1月に新島は亡くなる
その翌年 同志社政法学科が開校し、英二郎は教授となる 当時27歳
京都看病婦学校の卒業写真で隣りの女性が妻となる税所鶴(21)
Y:
私たち家族は何も知らなかったから、写真の顔を見てるだけでも面白いわ(英語
S:
PHDを持っていたなんて知らなかった
試験に落ちなければ、アメリカで経済を学ばなかったかもしれないし
そこまで成功しなかったかもしれないね
ママはいつも“不運に見せかけた幸運”だって言うんです
困ったことや、悪いことに思えても、本当は一番良いことかもしれないんだって
なにか大きな力が働いていることを信じなくちゃいけない
Y:アメリカに行ったのはいい決断だったのよ
(ヨーコのスピリチュアルな考え方が、ショーンにもちゃんと伝わってるね
“税所”なんて名字、初めて聞いた
<税所鶴のルーツ>
両家に伝わる
「戊辰戦争 二本松の戦い」での出会いの真相を探る
鶴の両親
父・税所篤人は、元岡山藩士、母・嘉與は会津・二本松藩士に生まれた
「戊辰戦争」の時に出会ったと両家に伝わっている
有五さん:
戊辰戦争では、官軍が二本松藩を攻めた
母親や親戚から同じような話が伝わっていた
Yのいとこ・税所宏子さん(なんとなく雰囲気が似てる
宏子さん:
税所のことは父からもちょっと聞きましたけど、
鶴という祖母が隣りに住んでいて、コタツに入りながら話を聞きました
明治元年 「戊辰戦争」
旧幕府軍・二本松藩は官軍の圧倒的な兵力の前に力尽きる
二本松藩士の死体が転がる中、税所篤人は城内に入った
そこには10代の姉(嘉與)弟がいた
父・丹羽求馬が自害した後だった
篤人は姉(嘉與)弟を岡山に連れて帰り、カヨを嫁に迎えた
広島大学准教授・税所康正さん(宏子さん長男)も
語り継がれた物語が真実なのか気になっていた
巻物には二本松に行ったことなどが書かれている
二本松市
昨年亡くなった二本松史跡保存会の鈴木弘治さんは当時のことを調べていた
鈴木さん宅の蔵に貴重な資料が保管されている
妻・エイコさん:
弘治にとっては、とても大切なんだって言って、あまり他の方にお目にかけなくて
これが虎の巻でしょうかね
この何ページを見ると、丹羽さまの備中家のことが全部書いてあるとか
“戊辰戦争の藩士名簿の中には丹羽求馬は載っていない
それ以前に亡くなっていると考えられる”
(あれ、ここまでの感動的な流れは・・・?
二本松藩士人名辞典の戊辰戦争の時にも篤人の名前はない
岡山県岡山市 岡山大学には、この物語の記録があると分かった
『池田家文庫 奉公書』に篤人のことがある
戊辰戦争のあった明治元年 炎上して落城した時には行ってない
落城から100日ほど後に戦後処理に行ったと考えられる
有五さん:これはフィクションだったということですね
(S:オモシロイ
岡山県立記録資料館館長 定兼学さんに読み解いてもらった
定兼学さん:
篤人は監察役 岡山藩では、当時500人の藩兵、相当の大部隊だった
監察役は、軍規、規律を守らせる役だった 指導的な立場
有五さん:
攻めた敵の女性を嫁にしたことになるので、そういう物語にしたかったのでは
宏子:
カヨは聖書などを読んでいたらしい
敵方の妻になったから福島にも帰れず、両親のお墓にも行けず
心の奥に寂しさがあったかもしれない
鶴幼少期 カヨの影響でキリスト教に接していた
カヨはアメリカ人宣教師 イライザ・タルカットに出会う
13歳の時、家元を離れ、タルカットが校長を務める神戸英和女学校(現・神戸女学院)に入学
神戸で洗礼を受け、すでに許婚がいた
<税所類三>
税所類三は税所の養子で、鶴と結婚し税所家を継ぐことを期待されたクリスチャン
岡山県 赤磐市
赤磐市山陽郷土資料館 元学芸員・高畑さんは、類三について調べていた
類三は神学・医学を学ぶためアメリカにわたる 3ヶ月後、岡山に送った手紙が残っている
渡米して2年目の明治17年 類三は病に倒れ、すぐ帰国するも年明けに亡くなる 享年21
野村家の子孫・高田勝世さん:
野村家の墓地に行くと、8年ぐらいの間にバタバタ家族が亡くなっている
当時、結核以外には考えられない
翌年 明治19年 鶴は横浜共立女学校に入学
有五さん:
長女だから、別の人を相手にしなさいと実家から言われる
でも、横浜まで行けば、言われなくなる(今と変わらないね
卒業後は京都に行き、タルカットの助手になる
明治24年 京都看病婦学校卒業写真で隣りに立ったのが英二郎
知り合った年に2人は結婚 英二郎27歳、鶴21歳
Y:Very intelesting
Q:曽祖父母が敵味方だと知っていた?
S:
僕の両親も第二次世界大戦後に出会った日本人とイギリス人
敵同士という意味では似た境遇ですね
Y:先祖のことが分かってとても嬉しい
S:タノシイ
*
同志社の経営が行き詰る
元同志社大学神学部教授・本井さん:
だいたい初年度100人募集するところ、10人ぐらいしか来ない
いきなり9人やめて、1人になっちゃう
とくに新島が亡くなった明治23年 キリスト教は下り坂だった
政法学校も、アンチキリスト教的な世相の中で苦戦した
<ヨーコの祖父・小野英二郎>
明治29年 英二郎は同志社を辞め、日本銀行に入行
経済学者として高い評価を受けた
日銀総裁・川田がミシガン大学に誘った
“私の仕事は、銀行のビジネス全体と関連組織を監査することで
銀行の運営に関して、総裁のアドバイザーの一面もあります”
大正10年 英二郎の講演記録
日清・日露第一次大戦に勝利 列強の仲間入りしたと浮かれる世論にこう訴えた
「世界の人種は、つまり平等で、差別することはいけないということが、私の持論であります
世界のために貢献すること、自国の国民の利益だけを図らずに
その国民の努力によって、他国民にもその恩恵を受けられるようにすることが最も必要であります」
有五さん:
英二郎の書いたものはいろいろありますが
国の文化も大事だし、しっかりした財政、国の基盤をちゃんとしないと
ただ軍隊だけ作るようなのは反対だという考えだった
大正12年 英二郎は日銀総裁に就任 58歳
大正12年9月1日 関東大震災
(そういえばYも壮絶な戦争体験者だったな 幼いきょうだいを連れて逃げたとか
5年で復興したいと決意するが難航する
昭和2年 昭和金融恐慌
<Yの父・栄輔>
英二郎と7人の子ども
長男・俊一は動物学者、次男・篤二は税所の養子に入り美術の道へ
Yの父・三男の栄輔は英二郎から期待を寄せられた
幼い頃からピアノが得意で、成績優秀、東京帝国大学に入り数学を専攻
英二郎は栄輔に後を継いで銀行家になってほしいと願った
Yの弟(栄輔の長男)・啓輔さん:
誰も継がなかったからそうなっちゃった
東大の数学科から、経済を勉強し直して、銀行に行った
昭和2年 栄輔は横浜正金銀行入行(キリっとしたハンサム
横浜正金銀行は、海外の外貨を取り扱う一切の権限を政府から与えられていた特殊銀行
東京日本橋の三菱東京UFJ銀行に横浜正金銀行の流れをくんだOB会があり
戦前の記録が残されている 名簿に栄輔の名前がある
栄輔が入行して間もなく、英二郎は執務中に脳梗塞で倒れ亡くなった 享年63歳
(なんだか節目、節目に家族が亡くなるね・・・
4年後 栄輔は軽井沢にある
安田財閥の別荘に行く
<Yの曽祖父・安田善次郎>
安田財閥は安田善次郎により築かれ、
三井・三菱・住友とともに4大財閥と呼ばれた
やっと出てきたお母さん 善次郎の孫・磯子さん(Y:your grandmother
S:オバアチャンワ キレイデスネ
Y:父もハンサムだったの
S:
美男美女のカップルだったんだ ワオ!
英二郎のスピーチはママみたいだなと思った
英二郎の性格は、ママによく似てるんじゃない
Y:I know
<母・磯子と安田財閥>
磯子の母・テルコ、父は婿として入った善三郎
善三郎は安田財閥を任された
金融中心の安田財閥だったが、善三郎は国産の釘を生産する製造業もやって失敗
引退していた善次郎が83歳で復帰し、善三郎は会社を追われた
安田善次郎の評伝を書いた経営史家・由井さん:
善三郎は、十数年間ぐらい釘をやっていてファイナンス(金融)のことは全然やらなかった
興味もなく、自分はインダストリー(産業)にいく
2代目が産業を中心に安田全体を動かすようになったら
安田は潰れちゃうだろうという危機感が広がった
磯子は安田家のお嬢様として育った(Y:That's my mother
磯子は軽井沢で栄輔に出会いすぐに惹かれ合った
アメリカ バージニア州 Yのいとこ(磯子の姪)安田敬子プレイターさん
啓輔さんの妻・小野雅子さん:
見かけはいいし、ピアノは上手いし、秀才だし
だからきっと競争が激しかったんでしょう
昭和6年 栄輔・磯子結婚
昭和8年 洋子誕生(S:カワイイネw
栄輔は16mmカメラを買い、愛娘の姿を記録した
父の転勤でサンフランシスコで暮らした(Y:アクティヴな子どもだったの
雅子:
母が子どもを駅まで迎えに行くようなことを女中にさせるというような思想だった
昭和12年 栄輔はNYに転勤 家族は日本に残る
「フィリピン大使館公邸」@千代田区
この頃、Yが暮らしていた/驚 間取りは当時のまま(S:WOW!
Q:こちらのYが住んでいたと知っている?
現大使:
もちろんです 実は、私はラウレル大統領の孫にあたります
ホセ・ラウレル大統領が安田家からこの屋敷を購入した
昭和16年 栄輔帰国
昭和16年12月8日 真珠湾攻撃 太平洋戦争へと突入
栄輔が勤務していた時の記録が東大経済学部資料室に大量に保管されている
講師・小島さん:
横浜正金銀行は、日本の一部の軍の資金調達の窓口になっていた
ある種の「国策銀行」だったので、戦前の日本の資金の流れ
日本がどうして戦争に突き進んだかという研究においても
横浜正金銀行の資料は非常に重要
開戦後の栄輔の記録 ハノイ支店に行く時の人事記録などがある
昭和17年 栄輔は、フランス領インドシナ横浜正金ハノイ支店 副支配人となる
日本の戦略物資調達の決済をおこなう
戦後、ハノイ時代を書いた文章が残る「戦争雑観」
“夏になると寝られぬ晩が続く
ハノイには大きな扇風機があり、僕のような暑がりは半年はかけっぱなしで寝た
1943年の秋から終戦まで1日に何度となく空襲を受けた
戦争において人間は極端な獣性と、最高なる人間性を発揮する
前者は醜いエピソードとなり、後者は崇高なる歴史として残る
ニッポン人は時代の進行に置き去りにされぬよう努力すべきである”
アメリカ ワシントンD.C.
栄輔の次女(Yの妹)小野節子さんに父の思い出を聞いた(似てるな
長年、世界銀行で働いていた テレビで小野家について初めて語った
節子:
これは後に母から聞いたんですけど、一度、戦争中に帰国した時があった
その時、私は赤ん坊でしたから、私を抱いてお風呂に入れたいと父が言った
そしたら、耳に水が入って中耳炎になってしまったってw
後で考えて、やはり戦争中だから、赤ん坊は命に近い
だからそれがとても大事だったんじゃないかと思った
戦争が激しくなると母子は
長野県佐久(!)に疎開した
啓輔:
うちのおふくろは辛かったと思う
昔は4大財閥のお姫様として生まれたが
疎開し、リュックサックを背負って、僕らを食わせなきゃならなかった
みんな戦争の時は酷だったけれども、とくに考えられない家柄からドーンと落ちるんだから
大変だったと思うよ
終戦 長野から東京に戻る
その時いろいろと手配したのは当時12歳の洋子
雅子:
トラックの交渉とか、そんなことまで姉がしたと言ってました
もう早く東京に帰りたかったわけですよ
そんな時も“ママなんにも出来ないの だから私がした”と言ってらしたもの お姉さま
啓輔:
碓氷峠を雪の中、当時のタイヤで東京へ帰るのは危ないとか言いながら決行した
雅子:
お金はたぶん母が払ったでしょうけど、人との交渉は姉のほうが上手だったようですね
(S笑ってる “ネゴシエーションが得意だって”
終戦から1年後 昭和21年 栄輔がハノイから帰国
節子:
向こうから背の高い、凛々しい男性が来たと思って
父はとても高かった 1m80cmかな
覚えているのは、父が帰ってきた時に、みんなすごく嬉しかった
母もとても嬉しくて、私も特別な洋服を着て、その洋服まで覚えています
昭和22年 横浜正金銀行の国内資産を受け継いだ「東京銀行」が誕生
栄輔は外国部長兼秘書室長に就任
雅子:
毎朝、出かける前に1曲、母のために(ピアノを)弾いていってくれたようですね
その時に「何がいいかい」と言われて「ショパン」と言うと
「少女趣味だね」と言われたというのは、母から聞いたことがあります
昭和26年 サンフランシスコ講和条約調印 翌年、主権回復
昭和27年 栄輔は東京銀行NY支店 初代支店長となる
学習院大学哲学科で学んでいたYほか、家族全員でNYに住んだ
(だからずっと住んでいるのね
自宅前
Yは「サラ・ローレンス大学」に入学し、詩と声楽を学ぶ
従来の芸術に大きなズレを感じ、前衛芸術が盛んなNYを拠点に独自の活動を始める
最初の結婚をし、家を出た
雅子:
NYで親の反対を押しきって結婚して、前衛芸術をしていた時は
ママはきっと助けてあげなかったのね
だからいろんなアルバイトをして、大変だったと姉から聞いた
昭和32年 栄輔 東京へ一時帰国
節子:
1957年、日本に出張している時に脳血栓で倒れた
私は母と帰国したけれども、姉と兄はNYに残った
姉は結婚していて、兄は大学にいたので2人で帰った
栄輔は一命をとりとめたが銀行の仕事には戻れなかった
55歳 体のきかなくなった父は、湘南で啓輔家族と暮らす
S:
ママのお母さんは、夫をとても愛して、病気になってからも寄り添ったんだね
いい話だった
祖父の栄輔が、僕の生まれた年に亡くなったのは興味深い
会えなかったのが残念です
祖母の磯子には会ったけど すごく優しかった
Y:I'm glad(涙?
S:
ママが東京に帰るトラックの手配をしたってスゴイ話だね
まだ12歳だったんでしょ?(何度か聞き返すY
Y:なんでもやったわよw
S:オモシロイネ
Y:
母はプリンセスだったから、何もできなかったの 私に感謝するだけで
<オノ・ヨーコという生き方>
「自分の願いをこめてハンマーで釘を打ち込みなさい」
(釘は先祖つながり?w
「敵味方のない白い駒でチェスをして平和を祈りなさい」
(日本でもまたやらないかなあ こないだの弥生ちゃんの大規模な個展ぐらいの
オノ・ヨーコ 私の窓から@東京都現代美術館(2016.2.3)
「インストラクション」(指示)と名づけられたYの作品
Yの言葉に従って観客自身が創りだすアート
代表作と言われる
「カットピース」
Yがステージにいて、観客に服を切りとらせていく
無抵抗の女性を観客が見て、何を感じるかを問いかけた
1962 9年ぶりに日本に戻り東京で作品展を開催したが、当時の人々には理解されなかった
節子:
パフォーマンスアートをやった時は、洋服を観客が切っていくわけですね
そうすると、父母を存じ上げていた銀行の方などが
「大変です あなたのお嬢様は裸になっていくのですよ」
そういう悪いことを言われて、母も心配でした
雅子:
あの頃はほんとに酷い酷評でした 姉は悩んで、少し精神的に参ってしまった
ママは傷ついていた
節子:
私はスゴイと思った
姉は本当にもう芸術家として革命的なことを一人でやってみたと思う
Yはどんな評価にも関わらずブレなかった
1966年 ロンドンで開かれたYの作品展にふらりとやって来たジョン(この辺は、伝記で読んだな
天井の小さな「yes」て好き
ジョンはこれをすべての肯定ととらえて感動した
ベトナム戦争が泥沼化していた1969 ジョン&ヨーコ結婚
「ベッドイン」では、ハネムーンを公開し反戦を訴えた
DVD『イマジン』より
♪
Give Peace A Chance
1964
『グレープフルーツ』を自費出版
この中に“Imagine”というフレーズがある
『ヨーコ・オノ YOKO ONO Who is the real YOKO ONO?』(1986)(KKダイナミックセラーズ)
『grapefruit juice by YOKO ONO』(講談社)
ジョン・レノン・ミュージアム
“想像しなさい
千の太陽がいっぺんに空にあるところを
1時間輝かせなさい
それから少しずつ太陽たちを空へ溶けこませなさい
ツナサンドウィッチをひとつ作って食べなさい”
1971 アルバム『イマジン』で曲を発表
♪
Imagine
(聴きながら、Y:I miss him.
和訳
節子:
姉はやはりジョンの詞に対して、非常に影響があったと思う
私は「イマジン」というのを見て、詞の言葉を聴いて
これはもう姉の影響がすごく深いだろうってことはすぐ分かりましたよ
♪イマジン が発表されて46年経った今年6月
全米音楽出版社協会は、愛と平和を歌ったこの曲に
“「イマジン」はジョン・レノンとその妻オノ・ヨーコとの共作である”と発表(今ごろ!?
Q:「イマジン」について
Y:
私も書いたんだってことになったら、あの歌は消えちゃったと思うの
だからやっぱしよかったと思うの ジョン・レノンということで
ジョンがとっても苦しんでいる時だったの
あの(ビートルズの)3人と別れたでしょ
だから、私と一緒に出ちゃおうということでね
それで私の共作の部分は彼にあげようってことで
S:
ママの人生はスゴイなって時々思うよ(時々?w
ママは本当にいろいろと辛い体験をしました
まずは第二次世界大戦、それだけで一生苦しい思いをする人はたくさんいるのに
その後は前衛アーティストになってからも批判されて
Y:レノンの妻になって
S:
ミセス・レノンになったら、また大変だった
両親にも最初は自分のアートを理解してもらえず
Y:
女だからよ
S:
そう そしてパパが殺されて、すごく悲しい体験をして
僕を一人で育てて、すごくたくさんの苦労をしてきたんだよね
Y:私はずっとあなたのことが心配だったのよ
(Yには他にもお子さんがいるけれども、こういう場には出ないのね・・・
<小野家の使命>
銀行家の使命を受け継いだのは節子さん
1976 世界銀行入行
以来、アフリカ、中南米など貧しい国々を支援する業務に力を注いだ
節子:
父の後を継いで、日本のために何かしたいと思いました
その力はやはり父母からもらったと思います
母のもそうですけど
父は病気になっても、笑顔がとてもキレイでした
“なにしろ頑張って働く”っていうのは、姉、兄も継いでいると思う
姉はすごく苦労したと思います、私は
有五さん:
小野家っていうのは、なにか「ミッション(使命)」をもってしまうDNAがあるんじゃないかなという気がする
英二郎さんも本当はゆったりとした学究でいたかったのを
やっぱり日本のためみたいなことで、なったらなったでそれなりに頑張る
栄輔さんは、志と相反して銀行家になったわけだけれども
でも、その中で精一杯、自分を貫いたと思う
ヨーコさんも、こういう形でしか自分を生かせないという
それを分かったら、人から何を言われようと、イジメられようと頑張っちゃうというね
そこが共通していると思う
【オノ・ヨーコ展】
今では大勢に理解され、世界各地で大規模な作品展が開かれている
「クリケット・メモリーズ」(1998)
天井から吊るされた空の虫かごも平和への願いがこめられている
カゴの下に刻印された悲劇の日付
1914 第一次世界大戦
1945 広島原爆投下
1980.12.8 ジョンの死
夫の死以降、Yの心の支えになったのは息子Sだった
「縦の記憶」(1997)(これも見たかなあ
同じ男性の肖像写真が並べて展示されている
Yの誕生から死まで、記憶と虚構の中の自分の生涯に登場する男性たちを組み合わせた
実は、父、ジョン、息子の顔を合成したもの
Yが生涯を通して愛し続けた男の肖像
Y:That was nice ヨカッタネ
S:ヨカッタネ オツカレサマ