ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

ブログ始めて1年未満。KY(空気読めてない)的なテーマの混淆され具合をお楽しみください。

東浩紀氏の小説『クォンタム・ファミリーズ』はおもしろそうだ

2010年01月14日 | ブログ名の由来
東浩紀氏の小説『クォンタム・ファミリーズ』がおもしろそうだ。

読みたいけれど、私の財布にはつねに空っ風が吹いているので、それも困難か。

えーん。

わたしが自分のブログに「プチパラ」という言葉を入れたのも、もとはといえば、このブログをこしらえようと思ったとき、東浩紀氏が「仮定法過去完了の世界」とか「並行世界」のことを喋っているのを思い出し、連想ゲームで私にも小さな「パラレル・ワールド」が欲しいな、「プチ・パラレル・ワールド」…「プチ・パラソル」…「プチ・パラサイト」、略して「プチ・パラ」でいっか、と思ったことによる。

以前拙ブログでブツブツとつぶやいていた文章の中で、私は次のようなことを書いていた。(ウィンストン・チャーチルは帰還せり 2009年06月20日より…しかし過去の記事は今読むと、冗長すぎて自分でも読みづらいわ!)

『無数のパラレルワールドが存在する、という量子力学の「多世界解釈」があるが、その考えはSF的というより、もっとリアルな生活に即しているようでもあり、「ありえない」話というより、「それって、あるある!」という「あるあるネタ」に分類してほしいと思うことがある。東浩紀氏の「ゲーム的リアリズム」というのも、現代の小説に当てはまる話というだけではなく、普通に生きているだけで「無理に分岐を強いられている」という感覚を抱いてしまう人が現代に多そうだ、という前提で書かれているのだと思う。』

『講談社・ブルーバックスのコリン・ブルース著「量子力学の解釈問題-実験が示唆する多世界の実在」などを読んでいると、これまで物理学で支配的だった考え方、ヤングの「2スリット実験」等に対する解釈として、モヤモヤと広がった確率的な「雲」が、人間が「観測」した瞬間にスルスルッと収束するという摩訶不思議な「コペンハーゲン解釈」よりも、最初から無数の分岐世界があることを思い切って想定してしまう「オックスフォード解釈」の方が、無理のない見方だと思えてくる。』

『時間が流れる限り、後悔は止まず、無数の分岐世界への気掛かりが消えることはないと思う。
しかし戻れないまでも、あみだクジのように「ななめ」にハシゴをかけて、別の分岐に飛び移ることはできないのだろうかと、よせばいいのに、らちもない空想を続けたりする。プチ・パラレルワールドが欲しい。プチ・パラソルみたいなものが欲しい。雨の日に「雨降らなかったかもしれない世界」を傘の下に現出させる「もしもパラソル」が欲しい。プチをつけるところがちょっと弱気で、おれは、ヘタレ・パラレル・症候群にすぎないのかもしれない。』

…このような興味・関心を持っている私からすると、小説『クォンタム・ファミリーズ』は、絶対「当たり」のはずなのだ。

『雑種路線でいこう』2010年1月4日の記事で、『クォンタム・ファミリーズ』の一部が引用されているが、これだけ読んでもおもしろそうだ。

…仮定法の亡霊(ゴースト)!
ああ、ドキドキする。

>ぼくは考えた。ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけではなく、決してなしとげられなかったが、しかしなしとげられるはずのことにも満たされている。生きるとは、なしとげられるはずのことの一部をなしとげたことに変え、残りすべてなしとげられるはずのことに押し込める、そんな作業の連続だ。ある職業を選べば別の職業は選べないし、あるひとと結婚すれば別のひととは結婚できない。直接法過去と直接法未来の総和は確実に減少し、仮定法過去の総和がそのぶん増えていく。
>そしてその両者のバランスは、おそらくは三五歳あたりで逆転するのだ。その閾値を超えると、ひとは過去の記憶や未来の夢よりも、むしろ仮定法の亡霊に悩まされるようになる。(東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』p.28より)

…ここで川の中のメダカを釣るように、東浩紀氏のツイッターよりこの小説の趣旨を述べている言葉を掬いだしてみると、

>「量子家族」というタイトルには、「核家族が作れない家族の物語」という意味を込めたつもりなのです。「核家族」は英語だと Nuclear familyだから。核そのものが確率的な存在ということで量子。(東浩紀 2010年1月2日)

>ぼくたちは仮定法の亡霊から自由にならなければいけないのだ。それが『クォンタム・ファミリーズ』のメッセージです。というか、ぼく自身が『クォンタム・ファミリーズ』を書いた動機です。(東浩紀 2010年1月4日)

…そして、東浩紀氏は、ある人のつぶやき「なるほど。ぼくは真逆に、かけがえのないこの人生という呪縛から逃れるために、仮定法の亡霊を召還する話として読んでた。」に対し、

> あ、それは同じことです。

と、答える。

>「かけがえのないこの人生」という強迫観念に捕らわれるのはなぜかといえば、仮定法の亡霊を適切に「悪魔払い」できないから。ちなみに「悪魔払い」とか「亡霊」とか、ぼく的にはデリダの『マルクスの亡霊たち』用語なのだけど、むろんそんなことは知らなくてかまいませんw (東浩紀 2010年1月4日)

…私も、デリダをまともに読んだことはないが、東浩紀氏の「亡霊」という概念にはドキドキしてしまう。

高橋源一郎氏のツイッターで、『クォンタム・ファミリーズ』の書評があるのでそこからも「メダカすくい」しておく。

> 子どもたちを寝かしつけてから、『クォンタム・ファミリーズ』の最後の部分、読了。ひとことでいうと、感動した。すげえ小説だ。『キャラクターズ』でも、(東浩紀の部分に)ぼくは「小説の魂」とでもいうしかないものを感じた。(高橋源一郎 2010年1月2日)

>(過剰に)物語ろうとする欲望と、それに相反する(過剰に)批評的であろうとする意志に、引き裂かれそうになりながら、小説は書かれる。だから、『クォンタム・ファミリーズ』は理想的な小説というべきだろう。それにしても、困ったことが(少なくとも)一つある。四月に出るぼくの新作に似てる……。ぼくの『悪と戦う』(という作品)も、「並行世界」の物語で、主人公の「存在しなかった」「××」と「××」が、ある世界に介入して、主人公を救い、世界の破滅を回避させるのだ。でも、偶然の一致ではないような気がする。「歴史」が終わったと感じられた後に書かれる小説はこうなるのかもしれない。(高橋源一郎 2010年1月2日)

>小説から不必要な要素をすべて引き算していって、最後に残るのは「倫理」だとぼくは考えている。そして「倫理」は「時間」に深く関係している。「歴史」がなくなっても、人間が「倫理」を必要とする限り、(小説の中で)「時間」にかかわるなにかを作り出さなければならないのだ。それは、「歴史」ではなく、「時間のゆらぎ」のようなものなのかもしれない。「過去完了」で書けなくなった以上、他にとるべき方途はないのである。久しぶりに、小説読んで、興奮しちゃったぜ。次男が寝ぼけて、書斎に来たので、寝室に連れて行きます。んじゃ。 (高橋源一郎 2010年1月2日)

…ここで高橋源一郎氏が言う、『小説から不必要な要素をすべて引き算していって、最後に残るのは「倫理」だとぼくは考えている。そして「倫理」は「時間」に深く関係している。「歴史」がなくなっても、人間が「倫理」を必要とする限り、(小説の中で)「時間」にかかわるなにかを作り出さなければならないのだ。それは、「歴史」ではなく、「時間のゆらぎ」のようなものなのかもしれない。』、という言葉にも、何だかグッとくるなー。


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