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山崎隆之『一度は拝したい奈良の仏像』-阿修羅と金鼓の響き

2009年11月27日 | 宗教・スピリチュアル
一月ほど前、大阪の天王寺さんをスタートとして、観心寺、奈良の西大寺、法隆寺、室生寺などの寺を巡っていたことがある。何よりも仏像が見たかったし、今じぶんに必要なのはたぶん「奈良」だろう、という予感があった。

どの寺もよかったし、いろいろなことを感じたり考えたりしたが、最後に見た興福寺の阿修羅ももちろんよかった。

阿修羅像のあの独特な表情は、「金鼓(こんく)」の響きが微妙に消えるまで耳を澄まして懺悔し、心を浄化させようとするプロセス」を表しているという。
今回私は、そのように「消えていく響きに耳を澄ます阿修羅」という前知識で、阿修羅を見ていた。
今年は日本中で大ブレイクした阿修羅の、あたかも凱旋記念のような展示だったのだが、阿修羅の「悔い」を秘めた表情や、あまりにも小さくて細い体を見ていると、せつない気持ちにさせられた。
堂内は拝観者が多く、かなりざわざわしていたのだが、阿修羅の周囲の空間はひっそりとしていて、阿修羅は口びるをかみしめて、聞こえない音を聞こうと、いまだに耳を澄ましつづけているように見えた。千年以上もそのようにして、いったい何を悔いているのだろうと思った。

山崎隆之『一度は拝したい奈良の仏像』(学研新書)より。

・阿修羅像のあの独特な表情は、「金鼓(こんく)」の響きが微妙に消えるまで耳を澄まして懺悔し、心を浄化させようとするプロセス」を表している。

・阿修羅を含む神仏群像の配置・表現は、『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』の「夢見金鼓懺悔品(むけんこんくざんげぼん)」に基づく。

「阿修羅の正面に向いた耳は金鼓の音をじっと静かに聞くかのようでもある。また、まっすぐ前を見つめるその眼は、何かを注視しているようでもあり、自分の内面に向けられているようでもある。」

…山崎隆之氏はさらに、阿修羅を含む群像に「少年のあどけない表情」が多いことに関して、そこに光明皇后の「変成男子(へんじょうなんし)」への強い願いが込められているのではないか、と想像する。

「皇后の祖父、藤原鎌足は、蘇我氏を倒して権力の座についた。そして、父、不比等は、天皇家と姻戚関係を結んで勢力を拡大し、政治の実権を握った。その影で、犠牲となった者も少なくなかったであろう。当時の皇族側の実力者、長屋王もその一人であった。」

「皇后自身も、実子である皇太子、基王(もといおう)の早逝という悲劇に見舞われた。その背景に、藤原氏と対立した左大臣、長屋王の呪詛によるとの見方もある。皇族でない光明子が強引な形で皇后になったのは、長屋王を死に追いやったその年のことであった。皇后自身にも、罪の意識がなかったとはいえまい。」

「のち、皇后は、いっそう仏教信仰を深め、悲田院、施薬院を設けて貧者や病者を救う。さらに法華滅罪寺を建てるなど、罪障の消滅を切実に願っていた。」

「皇后の願いは、遠い未来に男子として生まれ変わることである。それが、約束されていたとしたら、どれほど安心であろうか。その理想の少年の姿を、阿修羅像に重ねたのではないか。ことによると、八部衆像の中に失ったわが子、基王の面影も見ていたかもしれない。阿修羅像との対面は、皇后にとっては、信仰心をより深めるとともに、秘かな楽しみであり、大いなる法悦であったと筆者は想像している。」(以上、山崎隆之『一度は拝したい奈良の仏像』より)

関連記事:三位一体のシンデレラ-キリスト教の「聖霊」って何? 2009年12月22日
(→この記事の後半部分で、キリスト教の牧師の方が、「阿修羅像」を大切にすることを「偶像崇拝」と非難します。そりゃひどいよ、と日本人の私は思いました。)