ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

ブログ始めて1年未満。KY(空気読めてない)的なテーマの混淆され具合をお楽しみください。

ブログ「イチの牛耳り方 2.0」が面白い

2009年11月14日 | 橋本治
最近見つけて、面白いなと思ったブログ。

ブログ「イチの牛耳り方 2.0」

http://ichikoro2.blogspot.com/

橋本治や内田樹という、私が浴びるように読んだことのある人の名前があるので、
入りやすかった。


///以下、ブログ「イチの牛耳り方 2.0」 より拝借した文章///

『上司は思いつきでものを言う』(橋本治著/集英社新書)を読む。

橋本評論文の魅力はなんといってもその「予想外に奥深い射程距離」だろう。表面的にはたいへん読みやすい文章なのだが、実はかなり奥行きが深く設計されていて、ボーと読んでいるといつの間にか来た道が全然思い出せないというような最奥まで連れて行かれてしまう。だから頭のいいオレはちゃんとパンをちぎり捨てて来た道を忘れないようにするのだが、頭のわるいオレはお菓子の家を見つけた瞬間からそんなことをすっかり忘れて喰らいついてしまうので、結局気がついたら館内放送で呼び出されるまで自分が「迷子」だとは知らなかったというような元気過ぎる少年になってしまうのである。「あれ?オレなんでこんな話に聞き入ってるんだっけ?」

///以上、ブログ「イチの牛耳り方 2.0」 より拝借した文章///

最近は就職活動をされていたらしく、その辺りの文章もおもしろい。ふむふむと読ませる。


///以下、ブログ「イチの牛耳り方 2.0」 より拝借した文章///

ブラジル永住計画
月曜日, 10月 26, 2009
就職活動

根本的なモチベーションは未だに回復しておりませんが(たぶんこれは生涯回復しない)、日々の生活のこともあるし、永住に先立って何度かブラジル旅行もしておかないといけないということもあるので、お金を稼ぐ動機自体は充分すぎるほど戻っている。ワシ働くで、働くでワシ。目下、平日は日毎4件応募というローラー作戦を実施しているが、契約社員で応募した1社を除いて、他、一向に返事が来ない。うんともすんとも言うてこない。どうなっとるんだ近頃の世の中は。あ、そういえば1社編集プロダクション(という職歴を無視した応募もしているのです)から折り返しのメールをすっ飛ばしていきなり電話がかかってきて、でももちろん電話番号なんか知るわけないから「ん?派遣会社か?」と思って特に構えずに出たら、「株式会社○○だけど、えーっとリクナビだったっけ?応募してもらった?」と、考えられないほど不躾な言葉使いで尋ねてきたので、頭にキて、「かけ直してこいボケ」と言って一方的に切ってやったことがあったな。というのはもちろん冗談だが、それぐらいムカついたのは確かで、次いで「志望動機は何ですか?」と聞くので、「え?書類応募に書いたこと以外で、という意味ですか?」と尋ねると、「うん、だから志望動機は何ですか?」と、電話越しに圧迫面接をかけるというあり得ないことをしてきたので、頭にキて、「おい、喧嘩売ってんのか、おっさん?」と言って一方的に切ってやった。というのももちろん冗談で、すぐにピンときて「ヤロウ、唐突に質問して整合性をみようって腹か?」とは察しがついたが、すいません、そんなん急に言われても憶えてないです。というわけでいい加減なことを適当に喋ったら、こっちがまだ喋り終わってもいないのに、遮るように「はい、わかりました。今週中にあらためて連絡がなければ、そういうことだと思って諦めてください」とヌカしやがったので、頭にキて、「コラおっさん、いくらなんでもこれはヒドくないか?オレは応募者であると同時に読者でもあるんやぞ?何考えてんねんオイ!」と言って一方的に切ってやった。というのもやっぱり冗談だが、これはホントにそうすればよかったと今でも思っている。あまりの対応の横柄さに、電話を置いた後、1時間くらい本気でイライラして落ち着きませんでした。これはマジな話。

///以上、ブログ「イチの牛耳り方 2.0」 より拝借した文章///

桃知利男、おもしろい。バッキー井上、すごい

2009年11月14日 | 日記
最近出会って、面白いなと思っているブログ。

続・ITコンサルタント 桃知利男の浅草的ブログ:モモブログ
http://www.momoti.com/blog2/

バッキー井上という酒場ライターの方の文章も、ここで知り、初めて読んだ。
何だこれは。記憶と体がうねっている感じ。すごい。自動筆記みたい。


南直哉×宮崎哲哉の動画にコメント

2009年11月14日 | 宗教・スピリチュアル
以前、南直哉×宮崎哲哉のYou tube 動画に自分がコメントしたことを思い出した。
朝日ニュースター「ニュースの深層」という番組で、2008年12月に放映された『生きるために 宗教の役割とは?』という動画。 You tube で見ることができる。
そこのコメント欄で、gogosakai という方が

「うつ病の人でもありのままで良いと思う事ができた人がいます。しかし他者からの一方的な責任を取れない場合、人は自殺せざるを得 ません。これをどのように回避し、社会的にも生活し得る自信をど のように高められるのかをどなたかお答えいただけませんか?」

と書いておられたので、過去の自分は以下のようにコメントさせて頂いた(らしい)。

(2009年2月頃書いたもの)
「南氏の著作には「生きる意味より死なない工夫」という言葉がありました。
でもある程度、自尊心や生きる意味が感じられたほうがいいです。
それには時間をかけた他人との関係性の自覚が大事。
それもすぐには無理。だからつらくても焦らないこと、よく食べてよく寝ること。」

自分で書いたのに、自分の言葉ではないような感じがして、不思議な気持ちになる。

受動意識仮説と「こびとさんたち」

2009年11月14日 | 宗教・スピリチュアル
2005年の4月頃、仏教関係のサイト宛てに書いた文章を貼り付けしておく。
前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか』という本を読んだ感想になっている。
ブログ「内田樹の研究室」の「こびとさんをたいせつに」2009年10月03日という文章を読んだとき、この本のことを思い出した。

///以下、2005年4月頃、仏教関係のサイト宛てに書いた前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか』の感想///

前野隆司「受動意識仮説」 2005,4,8,

       
 こんにちは、sincekeです。今回は、前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか』(筑摩書房 2004年)という本を紹介させて頂きます。この本は、「私」という現象や「クオリア」の問題を、「工学系」の立場から解き明かしたというものです。とても面白く、仏教の「無我」を考えるのにも、ヒントになるかと思いました。

 私は今年の正月に、日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老の文章に出会ってショックを受け、改めて仏教のことをもっと知りたいと思い、関連書物を図書館から借り出して読むようになりました。私は「縁起」や「無我」に関心があるのですが、どうも仏教には「無我説」と「輪廻説」が混在しているようです。私はこの二つは両立しないのではないか、と思っています。まだきちんと知識の整理ができたわけではありませんが。

 『ミリンダ王の問い』(平凡社東洋文庫)という本には、仏教徒のナーガセーナが、「無我」や「輪廻」をたとえ話で説明しているところがあります。ギリシャ人の王に理解させようとして、ナーガセーナは無我を「車のたとえ」で、輪廻を「ろうそくのたとえ」で説明しているのですが、私はこのたとえに満足することが出来ませんでした。『ミリンダ王の問い』は、仏教学者が「ギリシャ的思惟とインド的思惟の対決」と喧伝しているくらい有名な本なので、結構期待して読んだのですが、ミリンダ王がすぐに「もっともです、ナーガセーナよ」と納得してしまうのを読むと、「お前、それでも『ギリシャ的思惟』の代表か、もうちょっとしっかりしろよ」とツッコミをいれたくなります。

 こうした説明にどうしても納得できない人はやはり他にもいるらしく、インド哲学者の宮元啓一氏は、「このたとえはひどい。ろうそくの火を次のろうそくに移すのだったら、その前のろうそくの火には消えてもらわなければ、輪廻は説明できないはず」と述べておられます(宮元啓一・石飛道子『ビックリ!インド人の頭の中ー超論理思考を読む』(講談社 2003年))

 「いったい、無我や縁起って何なのだろう。自分や私がない、というのはどういうことだろう」と思っていたときに、前野隆司さんの『脳はなぜ「心」を作ったのか』という本に出会いました。読んで、驚きました。この本は、工学系の立場から「私」や「心」の秘密を解き明かした、と豪語しています。すごい。

 まずリベットという科学者の実験がおもしろかった。人間が、意識的に「行動しよう」と思う0.3秒前には、既に脳内で準備電位が発生しているという、驚くべき実験結果です。「私」の不思議さ、当たり前に「私は私である」と思いこむことの胡散臭さ、みたいなものに、ハタと気づかせてくれます。ここからいろいろな論理的帰結を引き出せるわけですが、この本にはたとえば次のようなことが書かれています。

 「私」という自己意識のクオリアは、進化の過程で獲得された「錯覚」だ。意識とは、脳内のニューラルネットワーク(小人たち)の連想ゲームを「川下で」受動的に受け止める働きにすぎない(これを『受動意識仮説』という)。私達が主体的に思考していると思っていることは、実は脳内の小人たちの自律分散処理を受動的に受け止めているだけのこと。脳神経学では、脳内の「小人たち」の活動を束ねている主体は何か、といういわゆる「バインディング問題」があるが、それは問題の立て方自体が間違っている。(前野隆司の)『受動意識仮説』に基づけば、数十年後には、人間よりも優れた心を持ったロボットがきっと作れる!

 私は、工学系の人というのは、「性格が明るくて、実験が失敗したりしても、なかなかへこたれない人たち」、というイメージ・先入観を持っています。前野隆司さんも工学系の人だけあって、読んでいるこっちまで楽しくなるほど、楽観的な未来を予見してくれています。たとえば、心を持ったロボットを作れるのは勿論のこと、将来は、心に欠点のないロボット、人間に優しく、慈愛に満ちたロボットなんかが作られるだろう、と予測したりしています。私も、著者につられて、もうすぐ「心」を持ったロボットができるかもしれない、とは思います。けれども、根が悲観的なのか、ロボットであっても、「心」である以上、貪・瞋・痴の「煩悩」が生まれることは避けられないのではないか、などと心配してしまいます。

 その他、注目すべきなのは、心の秘密を解くのに、ペンローズみたいに量子力学や素粒子の概念を借りてこなくてもいいよ、と言っていることや、茂木健一郎さんが「脳の機能局在の考え方だけでは、『私』という秘密は絶対に解けない」と言っているらしいが、そんなこともないよ、と言っているところです。仏教に興味を持つと、何か仏教って素粒子の世界に似ているなあ、と思うことがありますが、しろうと考えで、安易に仏教と物理学を結びつけるのはやばいかもしれない、と思いました。私はペンローズの「皇帝なんとか」という本を読んだことはありません。茂木健一郎さんの本は「脳の中の小さな神々」というインタビュー集を一冊だけ読みました。茂木さんは最近、禅僧と対談したりして、なんとなく仏教に近づいているような気もします。しかし、仏教者は、科学者が近づいてきただけですぐに喜んではならないだろう、と思います。「もっともです、茂木健一郎よ、もっともです、養老孟司よ」なんて言ってると、ついにはミリンダ王になってしまうかもしれないから。

 脳の機能局在、という話で私は思いついたのですが、「言語野」や「運動野」みたいに、「私は私である」という自己意識を生み出す機能が、脳のどこかに局在していて、いつかそれが発見されて「自我野」とか「アートマン野」と命名されるかもしれない、と思いました。ああ、とうとう見つけた、これが「私」だったのか、と。

 地平線上に近いお月様はやたらにでかく見えます。これは人間の目の錯覚だそうですが、錯覚とは、進化の過程で、生き残るのに都合がよかったから残ったのでしょう。「私は自己同一性をもって私である」という錯覚の一種も、そういう風に考えると、エピソード記憶や長期記憶を保持するのに便利だったので、生きるのに有利だから残ったのでしょう。しかし、「生きるのに都合がよかったから」というだけでこんなにも強固にされてしまう「我」って一体何なのだろうか? それがアートマンとかいって宇宙全体とつながる、とか、そんなことは、とんでもないことだ。また、「かけがえのない私」というもの、他の「私」とは取り替えのきかない「この私」なんて、あるのだろうか。

 とまあ、この本は、いろいろなことを考えさせてくれました。座禅しろとか瞑想しろとか言うだけではなく、人間と同じ心を持った「ロボット」を作ってみせることで、仏教の「無我説」を証明できるかもしれないな、あるいは少なくとも「アートマン説」を否定できるかもしれないな、などと考えて、ワクワクしました。

///以上、2005年4月頃、仏教関係のサイト宛てに書いた前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか』の感想///

サネヤ・ロウマン著『オープニング・トゥ・チャネル』を試す

2009年11月14日 | 宗教・スピリチュアル
サネヤ・ロウマン著『オープニング・トゥ・チャネル』というスピリチュアル本を読んで、自分でもチャネリングを試していたことがあった(おいおい)。俺って頭おかしいのかな、とも思う。でも、自分がこういう「向こうに行っちゃった」的なものを試しているときって、日常生活では機嫌がよくて、つきあいやすそうな人間になっているような気がする。人間って、不思議だ。2009年の10月頃に書いたメモを貼り付けしておく。

///以下、サネヤ・ロウマン著『オープニング・トゥ・チャネル』を読んでチャネリングを試していた頃のメモ///

ガイドとのコミュニケーション
2009 10/13

奈良・西大寺行きの近鉄電車に乗る。
西大寺で十一面観音を見て、その帰りの列車内で、糸口をつかんだような感じになった。
オリンのチャネリングの本しかカバンに入れていなかった。
車中、読む。
通路が出来ることを願っていると、今までマヤの緑色のお面みたいなやや無愛想な顔と、
聞き取れないくぐもった声だったのが、すうと柔和な光を帯びた優しい顔に変化した。
そのように想像することが、自然にできた。
そして自分の頭や体もすうと涼しげな感覚を感じるようになったので、それを成功であると判断した。
前日、みうらじゅんの郷土愛を語る映像で、瞑想するために空いた電車に乗る、という話を参考にした所もあった。

名前を聞くと、まず「モ」だけ浮かび、自分で補いながら、おそらくまだ仮の名で、モロックということになった。
みろくとかけているのですか? と尋ねると、静かに微笑した。
姿は、仏像にも似ているが、聖母マリアとか天使を描くときのキリスト教絵画のイメージにも近く、白い人間的な肌を持っていた。今はとりあえず、私にわかりやすいような姿をされているのだろうと思う。

対話のような形式ですすんだが、思い出せる順番で書き留めておくことにする。
近鉄電車や御堂筋線の中では、頭の中で鳴り響くように、声をイメージする。
千里中央からは、歩きながら低い声をつぶやきながら対話するようにした。

千里中央を出てからだと思うが、好きという感情とは何ですか? 私は好きという感情を大事にして、それを柱、あるいはベースのひとつとして、生きていこうと考えているのですが、何を自分が好きなのかわからなくなってくることが多いのです。好きとは何ですか? と尋ねる。

好きという感情は、自分と一致しているときに覚える喜びの感情のことだ。
対象が好きという感情を生み出しているわけではない。
という答え。

自分を好きという感情は、好きという感情の中でも特別なもの、とのこと。

好きになる技術を得たかったら、まず自分を愛する技術を学ばなければならない、といったアイディアが、数回の質問と答えの往還で、浮かび上がってきた。

では自分を愛するコツとは? と聞くと、

自分の痛みや苦しみ、欠点を見過ぎないことだ。

私はたとえば中学時代を黄金時代と思って喜びとともに思い出しているつもりだったが、

お前は結構痛みや苦しみや悲しみを伴って過去を思い出している、と指摘された。

中学時代のうれしかったこと、楽しかったことを思い出すときも、それがもう終わってしまった、あのような友達関係はもう持てない、好きな女の子との関係もあの一瞬で終わってしまった、などと、喪失感や痛みとともに思い出しているのであって、自分のポジティブな記憶に光を当てているように見えて、実はポジティブでない想起の仕方をしているというのだ。

ではポジティブな想起とは?

と質問すると、畳の上でゴロゴロして光のなかにほこりが舞うのを眺めている自分を思い出す。
あのように一人でも満ち足りていた瞬間を思い出すほうが、傷や欠如に彩られていない自分に近づくのに役立つという示唆であるように思えた。

みうらじゅんのことも聞いた。

過去の体験とのからみでは、高校時代に宗教書をノーベル化学賞を取ったあの外人に渡そうとしたときのことが思い出された。あのときガイドやガイドのようなもの達はどのように思っていたのか聞いてみたが、悲しく思っただけということだった。止めたいとも、背中を押したいとも思わなかったらしい。自分の信念を人に押し付けるのが怖くなった、自分の信念を保ち続けるのが怖くなった。この両者には微妙な違いがある。押し付けるのがまずいとわかるのは優しさだが、keep the faith することも生きていく上では大事である。その押し付けるこわさや、そこからの優しさへの飢えが芽生えたが、それと、今のみうらじゅんへの関心はつながっている、とのこと。

たしかにMJに私はピースフルなもの、スピリチュアルなものを感じているが、また徹底的なだらけたギャグセンスも感じている。これは自分が見たいものを見ているのであって、あえて悟らない、権威を持とうとしないようなMJの目線に、自分を修正する何かを求めているのだと思う。

奈良の仏像など見ているのは、過去の自分の要素の確認や、未来の自分への期待だと思うのですが、これにはどのような意味がありますか、と問いかけてみる。

仏像の前に立つとき、お前は多くの自分と対座していることになる、という。

仏像の前でお前が抱く感情の中には、自分のものでないものが混ざっていることに気づかないか。

それはお前が既に縫い取られている、既に縫いこまれていることを気づかせるためのものなのだ、という。

そして自分で補足して、孤独と不安の中にある自分を、あえて一人にして仏像と体面することで、一人ではない自分に気づかせるために、私は私を仏像の前に連れて行った、ということになるのでしょうか、と自分で飲み込むように質問した。

最後にいつでも会えるでしょうか、私には今あなたのことがもっとも必要なのです、と言う。

後ろ姿を見せるようにして、また、と別れる。

近鉄電車乗っているときに問いかけたときは、私は今日何をすればいいでしょうか、自分の方向性、就職のことなど、たずねたが、はかばかしい返事が聞こえなかったのか、今すぐには思い出せない。

ひとつ思い出した。他人がいることに苦痛を感じることについてきくと、
それはお前がひとりでいる時間を持ちたいと思っていることの裏返しではないか、との答え。
ひとりになるにはどうしたらよいか、と質問すると、
今お前は私とコミュニケーションしようとしているではないか、と。
ひとりになることに成功しているではないか、ということ。

千里中央からの道で、
前から誰かが歩いてくるのとすれ違うとき、やはり他人の目が気になるな、と思っていると、

お前は、お前の人生だろう!
これは、お前の人生だろう!

と言われた。

もう成功しているではないか。なんとなくでも私との通路がよくなったと感じている、それはサクセスではないか?

といったことを言われる。

///以上、サネヤ・ロウマン著『オープニング・トゥ・チャネル』を読んでチャネリングを試していた頃のメモ///

関連記事:『老師と少年』-なつかしい痛みとは何か 2009年11月27日
関連記事:『下流志向』を読む⑤-「等価交換モデル」とペラギウス主義 2009年11月23日
関連記事:『下流志向』を読む①-消費主体としての子供、「ヨイトマケの唄」 2009年11月17日
関連記事:レヴィ・ストロース『悲しき熱帯』とみうらじゅん『アウトドア般若心経』 2009年11月15日


ほり先生のブログへのコメント:「社会の厚み」が失われている

2009年11月14日 | 日記
過去に書いた自分の文章をネットから探して拾ってきて、メモ代わりに貼り付けしておく。

///以下、ブログ『考えるのが好きだった』に投稿したコメント///

ご返答ありがとうございます (大阪アースダイバー)
2009-11-14 12:04:28

コメントに応答して頂きありがとうございました。
…で、終わるつもりだったのですが、やはりひとこと言いたくなってしまいます。長くなるのですが、すいません。

(ほり先生の文章)『3万人以上の数字や、若者がすぐに会社を辞めるのは、早くはっきりとした答えが欲しいからじゃないかと思ってます。おっしゃる「社会の厚み」がないのもほかのさまざまなことも、ここに起因しています。』

私は「社会の厚み」が失われているのは、明治以降の日本の、いろいろな歴史的事情が関っているかと思うのですが、「現在」の「早くはっきりとした答えが欲しい」という風潮が、手のひらから砂がこぼれ落ちるような、この数十年の日本社会の崩壊過程?を「抑止しない」という点で消極的に「原因である」とも言えるかもしれません。

まどろっこしい言い方になりました。
要は、社会の厚みが失われている、が「原因」で、例えば、すぐに答えに飛びつく、は「結果」だと私は考えていたということです。

「内田先生の九条に対する考え方」ですが、私は昔、「いくら何でも、それはないでしょう!」といちばんガッカリしたというか、ため息が出たのは内田先生の九条に対する考え方でして…。そのときは、困りました。

老子は好きだし、その知的スタンスは大事だと思うのですが、憲法や法律にそれをあてはめるのはあまりにヒドイだろ、と思いました。でも後でよくよく考えてみると、これは、内田先生が、過去の全共闘的な政治運動に対して「鎮魂」「弔い」のスタンスをとっていることと関係しているのかもしれない、と感じました。死んでいったあいつらに申し訳が立たない、という。

宮台真司氏の「学校に適応しすぎると、社会に適応できなくなる」というのは、確か、学校でまじめなだけの子は、コミュニケーションの流動性が高まる社会で生きづらくなる、とかいう話だったと思います。


///以上、ブログ『考えるのが好きだった』に投稿したコメント///

ほり先生のブログへのコメント: 学校より自分が生きてく「街」とか「地面」

2009年11月14日 | 日記
過去に書いた自分の文章をネットから探して拾ってきて、メモ代わりに貼り付けしておく。

///以下、ブログ『考えるのが好きだった』に投稿したコメント///

学校を出ると地面がなかった (大阪アースダイバー)
2009-11-13 22:41:16

コメントへのご返答、ありがとうございました。

教育や学校のことについては、私は最近、それについて考えることが少なくなり(以前はそうでもなかったのに)、何が何だか、ようわからんようになってきてます。

テレビの政治ニュースを見てても、何だかしらじらしく、地球温暖化もテポドンも年金も何やかてどーでもええやんけ、とやや捨て鉢な気持ち。

ほり先生のブログは楽しく読ませて頂いているのですが、読みながら、何度か思い出した言葉のひとつに、かつて社会学者の宮台真司氏が繰り返していた-「学校に適応しすぎると、社会に適応できなくなる」-というフレーズ。ここがまた悩ましいところなんだよなぁ…。

(ほり先生の言葉)『今の日本の社会が、あまりにも脳化しすぎてしまったんです。だから逆に、学校に「自然」を求め … でもねぇ、だからといって、学校の役割をかえるわけにはいかないですよ。変えられない、矛盾が起こっている』

わたくしが今とくに危機感を持っているのは、日本の社会の厚みがものすごく失われていることで、自殺者3万人以上、とか失業とか、帰る場所がない、社会の包摂性、葬儀と寺と神社、とかそういう話です。

学校より自分が生きてく「街」とか「地面」が気になってきてます。年のせいか。そういうのはひとごとじゃなくて。

自分の最近のダラダラとした彷徨と、ほり先生の「頂門の一針」的教育ブログとの出会いとの関係を、自分なりに考えてたことの一部です。どうもお邪魔。

(自分語り:この一ヶ月ほど、奈良の仏像を見に廻ったり、大阪や神戸の街をフィールドワーク的にうろついたり、縄文土器を見に行ったり、昨日『桃知利男の浅草的ブログ』という、「惰夫をして起たしむるような」刺激的なブログに出会ってまた感動してみたり、そんなことを繰り返しながら、ほり先生のブログを見てました。応援してました。感謝してました。いろいろ思い出し、ありがとう)


『漂流教室』みたいだった (大阪アースダイバー)
2009-11-13 23:10:56
上のコメントにちょっと追加しますと、学校の中も今大変だけど、学校の外も、モーえらいことになってるんちゃうか、ということです。昔、青年は荒野を目指す、なんて今からすると悠長なこと言っておりましたが、もしかして、荒野どころか今は地面さえなくてそのままストーンと…あー寒、ぶるぶる。

おっかないけどまぁ、地面を這ったり、潜ったりして、頑張ってやっていくしかないんだろうなぁ、などと泡吹く蟹のようなつぶやき。


///以上、ブログ『考えるのが好きだった』に投稿したコメント///

関連記事:子どもが泣き止まない-ハローワークにて 2009年12月08日

ほり先生のブログへのコメント: 高校の教育現場とジャニーズ

2009年11月14日 | 日記
メモ代わりに貼り付けしておく。

///以下、ブログ『考えるのが好きだった』に投稿したコメント///


人間ってなんなんだろう (大阪アースダイばあ)
2009-11-08 00:08:13

突出した人に、感動を覚えることが多い。私はイチローだって大好きだし、ほかにもいろいろ。奇形的な天才というのも、人類という和音を構成する大切な要素だと思う。

このブログで、ほり先生がつらつら綴っておられる事に、私が共感するというのは、正確に言うと、ほり先生が私と同じような感じ方・考え方をしているからではない。私はもうちょっとアナーキーな考え方の方が好きかもしれない。

でも、社会全体として、あるいは「人類学的」に正しいなと感じられるというのは、このような意見を見たときだ。
今の日本の社会で「公教育」の場にいる人が、このように考えるのはたぶん正しい。

たとえば私は「カリスマ」はあるタイプの青少年の成長に必要だろうと思っているのだが、ほり先生の立場では、公教育にカリスマは要らないという。

身体や感覚の解放ではなく、養老氏の言う「脳化」を目指すのが役目だ、と。

よくテレビでやってる、高校にジャニーズのアイドルがやってくるという企画ありますよね、私はああいうの見ると、「あーいいな、うらやましいなあ」と、なぜか学校生活に退屈している女生徒の気分に感情移入して見てしまうのだが、ほり先生的には NGでしょう、たぶん。

内田樹氏がいう「身体が気持ちよくなることをしていれば、そう大きくは間違えない」というのは智恵の言葉だと思うのだが、高校教育ではまた別の配慮が必要となる。

私には「違うな」と「そうだな」が一緒に来てます。


///以上、ブログ『考えるのが好きだった』に投稿したコメント///

ほり先生のブログへのコメント: 珊瑚と古い椅子

2009年11月14日 | 日記
メモ代わりに貼り付けしておく。

///以下、ブログ『考えるのが好きだった』に投稿したコメント///

珊瑚と古い椅子 (大阪アースダイバー)
2009-11-03 14:34:51

 以下、ブログ主よりのご返事を期待しての事ではなく、私がこのブログの過去の文章をいくつか読ませて頂いて、浮かんでくる、泡のような感想の一部です。
 新しく訪問された方に何か参考になるかもしれないです。

 私も最初ちょっと誤解しそうになったのですが、ほり先生という方は、やっぱり「高校の先生」ですからね。そこを皆様、お間違えなきように。って間違えそうになったのは俺だけか? だって、コメント欄なんか見ると凄いんだから。大学の先生や官僚に訴えるような議論がそこで延々と続いてたりする事があるんだぜ。ここは松下村塾かよ。ってなくらいで。

だからって、何から何まで知っている学者とか、多事争論できるジャーナリストみたいな役割を、ここで期待しちゃ駄目なんだよな、うん。当たり前か。

だってさ、ここだけの話だけど、ブログ読ませて頂いていると、アルキメデスとアリストレスが時々ごっちゃになってたりする…(笑)
私物理がからっきし駄目なの、と言いつつ、毎年毎月「伝家の宝刀」のように出てくるのが「ベクトルのたとえ」だったりする…(私がもし高校生だったら、この先生に「ベクトル先生!」とあだ名をつけてしまいそうです。んで、ベクトル先生後悔記だ、わーい、といったりしてからかってみたい。何じゃそりゃ。でも、勉強とはベクトルの次元を増やすことだ、というのは至言である)

でもでも、私はここでドン!と机を叩きたいのです。そんなことはどうでもいいのです。
アルキメデスとアリストテレスの区別なんて…
生徒には、菓子食うな、人間我慢が大事、と説教しつつ、自身のブログに「SWEETS」なんていうほっぺたが落ちそうな、こんな「超甘」なタイトルをつけたりすることなんて、むしろどうでもいい事なんだと思うのです。

皆様もお気づきだと思いますが、この人、すごい賢いなと思わせるような文章が、このブログの中にはいくつもあります。一介のヒラ高校教師である方が、なぜこんなことまで語れるのでしょう。ほり先生本人が知識人だから、いろいろ知っているから、そんなことが言える、というわけではないように私は思います。
このブログで、ある種、叡智に満ちた部分が露出しているところがあるとすれば、私はそれは、「人類という大きなシステム」が言わせているのだと、勝手に解釈してます。

初期の文章で、「人間サンゴ虫」説というのがありました。「言わせてる」ということです。賢いのは全体としてのサンゴであって、個々のサンゴ虫が賢いわけではない、ということだろうと思います。

だから、ほり先生が「先生」と仰ぐ内田樹氏に対してだって、鋭いツッコミが時々入るのも、やむをえないことだと思います。内田氏の言動に対しても、時々、「内田先生、お言葉ですが、この場合、それはちょっとどうかと思います」「内田先生、あまり調子に乗らないでください」「ていうか、ウッチーとか言われてていい気になってんじゃねぇ」的な修正が、容赦なく入ります。
当然です。
内田樹氏自身が、「人類学的叡智」「自分でないものが語る」といったことよく語る方ですから、仕方がありません。
人類というサンゴ・システムからの修正が、ほり先生を通して、入ります。

ほり先生はじゃあ何者なんだというと、私は、内田樹氏のいう「雪かき仕事」をずーっとしている方だと思います。
だから、たとえば天下国家を論ずるようなことをしてみたい、と心のどこかで私が思ってたりすると、こういう人を見るとなんとなく「やましさ」を感じてしまいます。

東北の村で、雪かき仕事をしているおっさんがいて、軒下に立つ俺が、「大変ですねえ。ところで、最近の政治状況についてどう思いますかー? 国が悪いと思いませんかー?」と話しかけてむこうは黙っているのに延々と演説を続けていたりしたら、しまいにはバサーッ!と頭から雪をかけられそうな気がする。そういう感じです。

私は、かなり初期の文章で描かれていた「古い机を救済する」というエピソードが好きです。学校に残る、古い椅子とかか、机を大切にしよう、という話なのですが、それは「知の系譜」や「共同体」とも関連する大切な感覚なのですが、ほり先生は周囲の無理解にさらされます。
心無い教員から、「ほらほら先生の好きな古いものが出てきましたよ」とからかわれるところなんざ、涙なくしては読めません。(いくら何でも、それは大げさだな。私は実際に涙を流したわけではなくて、この箇所を読んだとき、脳みその奥で、何かツーンとした、哀しみと怒りと諦念が入り混じったような感情が浮かんで消えていきました)

とりあえず終わりです。

///以上、ブログ『考えるのが好きだった』に投稿したコメント///

ほり先生のブログ『考えるのが好きだった』の感想

2009年11月14日 | 日記
///以下、ブログ『考えるのが好きだった』に投稿したコメント///


ワイルドでもキュート (大阪アースダイバー)
2009-10-30 22:31:46

やっと、御ブログの2006年8月までを読み終わりました。誰に頼まれたわけでもないけども。

私は、幾分飽き性なところがあるので、面白いブログに出会えたときは(出会ったのはつい昨日ですが)、なるたけ早めにブログ主の多くの文章に目を通しておきたくなるのです。
そこで得た感触もなるべく早く書いておきたいと思い、失礼ながらここで現時点での感想を述べさせてください。

いやー、何か嬉しいですね。(揉み手)
何がって、高校の先生でこんなこと考えてらっしゃる人がいるなんて、教師(特に中学・高校の)というものに偏見(&過去のうらみつらみ?)を持っている私には、驚天動地・瞠目・前代未聞の事件でしたね。

「あー俺と同じこと考えてるー!」と嬉しくなることも多かったのですが、ただ、学校で先生に叱られている生徒の話が出てくると、どうしても私は経験上、「叱られている生徒」の立場のほうに感情移入してしまうので、心臓をバクバクさせながら読んでたりしてます。ブログ中で、「居眠りすんなあ!」なんて言われると、はい、すいません、と誰も見てないのに思わず背筋を伸ばして読んだりしました。

先生は知性的というより、原始人みたいなところがおありですね。いや、何というのか…たとえていうなら、デパートの地下街を歩いているとき、いきなり縄文人が竪穴式住居を作ってそこに住んでるのを見たりしたら、びっくりするでしょう。フツーなら驚くでしょう。「お前、なんでこんな所に住んでるんだ? 縄文時代は確かもう終わったぞ?」と声をかけたくもなる。

でも私の場合、それはほとんど「嬉しい」に近いことでもあるので、私がイメージする「現代の高校の教師」らしからぬ「不埒な≒まっとうな」ことを考えたり感じたり喋っている方がいるのをたまたま見かけて、驚天動地瞠目…(以下同文)。

ふと思い出しましたが、昔読んだ河合隼雄さんの本で、「ワイルドとはただ、乱暴なことではない。野に咲くすみれもワイルドである。」ってありました。

「山路来て、何やらゆかし すみれ草」ですよね。私の中では、この句と「デパ地下に縄文人を発見して大喜び」というのはほとんど同じ事情を指しています。

褒めてるつもりです。

とりあえず、早く寝ろってことなので、今日は早く寝ます。
ぺこり。

///以上、ブログ『考えるのが好きだった』に投稿したコメント///