東京タワーと日本の橋
中沢新一の『アースダイビング』で、東京タワーを日本の「橋」にたとえる箇所があった。
霧の向こうに掛かる、華奢な、こわれやすい、かそけき「日本の橋」(保田与重郎)。
私は学生時代、図書館で保田与重郎の全集を何冊も借り出して、その濃密な文章に驚いて、かつ酔ったような気分になったことがあるが、東京タワーが「橋」であることには勿論気がつかなかった。
私が東京タワーといって思い出すのは、リリー・フランキー原作の映画や、楳図かずおの『わたしは真悟』という漫画だった。(先ごろ私は、楳図邸の写真集である蜷川実花『ウメズハウス』を購入したのだが、蜷川という方の技法上の装飾みたいなものなんだろうけど、「ピンボケ写真」の多さには参った。)
「333カラトビウツレ」
『わたしは真悟』では、主人公のさとるとマリンが、自分達の「子どもを生む」ために、東京タワーによじ登って、その「先端」から夜空へ飛び移るシーンがある。
「333から飛び移れ!」という指令を、真悟というロボットから受け取っての決死の行為だった。
東京タワーは、強風にあおられて、吊り橋のように揺れる、いつ折れるとも知れない、まさに華奢な東京タワーだった。自分達が死に近づくことで、子どもがどこかで誕生しているというストーリーも、東京タワーと死との関係を暗示しているようで面白い。
通天閣は?
大阪の「通天閣」と東京タワーを比べると、どうなのだろう。
「通天閣」というのは、下が「凱旋門」で上が「エッフェル塔」を模して作られているそうだ。
周りの雰囲気と相まって、なんとなく「下品」な通天閣は、おぼろめいた「日本の橋」とはいささか呼び難い。
大阪はまるでヒンズー教の聖地のようで、「凱旋門」はおそらく「女陰」の象徴だろうし、こうなるともう、上の「エッフェル塔」はその女陰につきささった「男根」にしか見えない。
それはそれで「野生の思考」の一例なのだろうけど、『わたしは真悟』のさとるとマリンはけっしてこの塔には登らないだろう。華奢な吊り橋の感覚、天空に架かるラルク・アン・シエルの感覚がここにはない。
なかったらなかったで、別にかまわんのだけど。
関連記事:「阪急沿線的」ということー北摂から考える(ちょっとだけ)2009年11月16日
中沢新一の『アースダイビング』で、東京タワーを日本の「橋」にたとえる箇所があった。
霧の向こうに掛かる、華奢な、こわれやすい、かそけき「日本の橋」(保田与重郎)。
私は学生時代、図書館で保田与重郎の全集を何冊も借り出して、その濃密な文章に驚いて、かつ酔ったような気分になったことがあるが、東京タワーが「橋」であることには勿論気がつかなかった。
私が東京タワーといって思い出すのは、リリー・フランキー原作の映画や、楳図かずおの『わたしは真悟』という漫画だった。(先ごろ私は、楳図邸の写真集である蜷川実花『ウメズハウス』を購入したのだが、蜷川という方の技法上の装飾みたいなものなんだろうけど、「ピンボケ写真」の多さには参った。)
「333カラトビウツレ」
『わたしは真悟』では、主人公のさとるとマリンが、自分達の「子どもを生む」ために、東京タワーによじ登って、その「先端」から夜空へ飛び移るシーンがある。
「333から飛び移れ!」という指令を、真悟というロボットから受け取っての決死の行為だった。
東京タワーは、強風にあおられて、吊り橋のように揺れる、いつ折れるとも知れない、まさに華奢な東京タワーだった。自分達が死に近づくことで、子どもがどこかで誕生しているというストーリーも、東京タワーと死との関係を暗示しているようで面白い。
通天閣は?
大阪の「通天閣」と東京タワーを比べると、どうなのだろう。
「通天閣」というのは、下が「凱旋門」で上が「エッフェル塔」を模して作られているそうだ。
周りの雰囲気と相まって、なんとなく「下品」な通天閣は、おぼろめいた「日本の橋」とはいささか呼び難い。
大阪はまるでヒンズー教の聖地のようで、「凱旋門」はおそらく「女陰」の象徴だろうし、こうなるともう、上の「エッフェル塔」はその女陰につきささった「男根」にしか見えない。
それはそれで「野生の思考」の一例なのだろうけど、『わたしは真悟』のさとるとマリンはけっしてこの塔には登らないだろう。華奢な吊り橋の感覚、天空に架かるラルク・アン・シエルの感覚がここにはない。
なかったらなかったで、別にかまわんのだけど。
関連記事:「阪急沿線的」ということー北摂から考える(ちょっとだけ)2009年11月16日