ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

ブログ始めて1年未満。KY(空気読めてない)的なテーマの混淆され具合をお楽しみください。

ほり先生のブログへのコメント:受験英語の英文解釈

2009年11月14日 | 日記
///以下、ブログ『考えるのが好きだった』に投稿したコメント///

自分で穴掘るのはめんどくさい (大阪アースダイバー)
2009-10-30 10:02:49

ああそうなんですか。辞書を引かないので、自分で探索して意味を見つけ出す習慣がつかなくなる、と。

なんでいやなんでしょう。
私は高校時代、英文解釈がいちばん好きでしたので、辞書との首っ引き、取っ組み合いは、ずっとやってましたけどねえ。英文を読んでいるより、辞書とにらめっこしている時間のほうが10倍以上長い時あるんですよね。

当時、英語学者の渡部昇一さんが、リスニングや発音より英文解釈が頭脳訓練、異文化理解、はたまた日本文化理解に大事、それが実は明治以来の日本の英語学習の王道なのだ、みたいなことを書かれていまして、自分もそれを読んで「そうだそうだ」と思ってましたのであまり不安はありませんでした(当時は)。

でも今ではやっぱり「横とのコミュニケーション」が重視される時代ですよね。私は結構「縦に掘ってみた」ことが多かったので、それはそれで随分苦労してきましたよ。(どういう苦労か知らないが)

受験英語の英文解釈をしっかりやると、アダム・スミスでも何でも、100年前、200年前に書かれた英語の文章が読めるようになったりして、「古人との対面」という素晴らしいおまけがついたりするのですが、現代の日本ではそれを「素晴らしいおまけ」だと感じてくれるひとは驚くほど少ないです。

「横とのつながり」のほうが致命的に重要なので、「縦に掘る」人は浮いてしまうのでしょうね。

高校生だったら何だろう、たとえば、「三国志」とかそれ系のゲームにハマッている男子というのが今でも各地の学校に一定の割合で存在しているかと思うのですが、そういう「歴史に興味ある」男子って浮いていますでしょう。あ、逆かな、縦穴への興味関心が満たされないから、ゲームにはまったり、「三国志」だけ、になってしまうのかな? よくわかりませんけど。

また違う方面に思考が飛んでしまいました。


///以上、ブログ『考えるのが好きだった』に投稿したコメント///

ほり先生のブログへのコメント:アメリカ人の書いた教科書

2009年11月14日 | 日記
なかなかブログを更新させることができないので、過去に書いた自分の文章をネットから探して拾ってきて、メモ代わりに貼り付けしておく。自分が何を考えているのか、何に興味を持って何を考えてきたのか、よくわからないのでひとまず整理。

2009年10月頃、高校教師のほり先生という方のブログ『考えるのが好きだった』を読んで面白く、いくつかコメントを投稿させて頂いた。

///以下、ブログ『考えるのが好きだった』に投稿したコメント///

親切な教科書vs不親切な師匠 (大阪アースダイバー)
2009-10-29 23:33:16

初コメントです。
大阪在住33歳男。
今日、なんとなく内田樹氏のブログの過去の文章を検索してるうち、ここに辿り着きました。

今、手始めに2004年から2005年7月くらいまでのほりさんの文章を読ませて頂いていたのですが、「宗教」や「長い命」と「短い命」を巡る深い思索と、学校で制服を着崩している男子生徒を先生がこっぴどく叱りつけるシーンなどが交錯して語られていて、そのバランスが私にはいい塩梅で心地よく、大変おもしろかったです。

寝る前に何かひとことコメント入れておきたいなと思いました。
おもしろかったです、有り難うございました。

さて、「やたらに詳しい解説」に関してですが、私は以前から日本の教科書は薄っぺらすぎると不満を持っていました。
大学生になってから気づいたのですが、アメリカ人の書いた教科書などは、電話帳みたいに分厚かったりします。

読むと、かなり説明過剰。アメリカ人はおしゃべりやなあ、と思いました。

でも、独習したい者にとっては、日本人にとっては「ちょっと過剰すぎるかな?」と思えるアメリカ人の説明のほうが有り難くなることも多いのです。

教科書が薄いと、先生から学ばなければならないことが多くなる、つまり先生との時間的・人格的関係が密になる。それはいいこともありますが、悪いこともあると思います。

2004年、2005年ころの文章ですが、ほりさんが、人には「聞く-話す」の回路が発達していて、そこで学習・思考するのが得意な人と、「読む-書く」の回路のほうが得意な人とがいて、ほりさんは後者だったと書かれておられましたが、私も同じです。高校時代以降、私は、先生の話すことを聞いているのはとても苦痛でした。教科書や本を読んだほうがてっとりばやい、と思ってました。自分の理解する時間に合わすことができるのです。

映画館で「映画」見るのは2時間座ってなきゃいけないので苦痛だが、本なら自分の都合に合わせて読む速度を変えられるから、本のほうが好き、という感覚と似ています。

しかし、へんだなと思うのは、ほんとは私は高校時代から「師弟関係」というものに強烈に憧れていたということです。つまり「師匠」に出会って、その人と一緒に時間を過ごしているだけ、というのがいいなとずっと憧れていました。「分厚い教科書」で失われるのを恐れるとしたら、そこかもしれませんが、それは今の日本では「はじめからほとんどないもの」かもしれないので、むしろ恐れるには足りません。

すいません、コメント慣れないもので、長くなりました。

私は、先日(10/23)、神戸女学院大学で行われた、中沢新一さんと内田樹さんのトークセッションを聞きにいきました。
そのあたりから持ち帰った関心事項についても、もしほりさんの関心と交錯するところがあれば、お尋ねしてみたかったのですが、これはまた次の機会にしたいと思います。では。

///以上、ブログ『考えるのが好きだった』に投稿したコメント///


そうだった。中沢新一×内田樹のトークセッションを聞きにいったんだな。