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レヴィ・ストロース『悲しき熱帯』とみうらじゅん『アウトドア般若心経』

2009年11月15日 | 日記
レヴィ・ストロースという、20世紀を代表するような偉いおじいちゃんが死んだと聞いて胸が騒いだ。

わたしはこのおじいちゃんの偉さを、内田樹氏や中沢新一氏の書いた文章からなんとなく想像していただけだが、逝去のニュースに触発されてこのたびレヴィ・ストロース『悲しき熱帯』の抄訳を通して読んでみた。

面白い。
というのも、非ヨーロッパの原住民の物の見方が新鮮なだけではなく、レヴィ・ストロース自身の世界の分節の仕方が独特なのだ。
それは、比喩・暗喩・連想が植物のように伸び広がって、行間をだんだんと埋め尽くしていくようなレヴィ・ストロースの文体自体に魅力があるということだ。

『悲しき熱帯』の中では、船中でのアンドレ・ブルトンとの出会いも描かれていたけど、それこそ「手術台の上のミシンとコウモリ傘との出遭い」みたいなシュールなイメージがこの本には溢れ返っている。

でも実は、日本では、こういうレヴィ・ストロースみたいな変な考え方をする人はそれほど珍しいことでもないような気もする。
日本人は、最初からシュールレアリストみたいなところがあって、私がまっさきに思い出したのは、「マイブーム」や「ゆるキャラ」という言葉を流行させている、あの「みうらじゅん」氏のことだ。

『悲しき熱帯』を読む数週間前に、私は「ほぼ日刊糸井新聞」のサイトでみうらじゅん氏が熱く語る『郷土LOVE』といった映像を見ていた。「見仏」にしろ「カスハガ」にしろ「とん祭り」にしろ、失われていく何かを掬い取ろうとするみうらじゅんの姿勢、比喩や関連付けや分類(ウルトラマン=仏像etc.)をフルに生かして熱っぽく語る氏の姿は、私には、時に「神々しいもの」に見えたりするわけだ。

レヴィ・ストロースは、そのみうらじゅん氏の拡大・国際バージョンみたいな人だ、ともし説明されたりしたら、私にはその「偉さ」がなんとなくわかるような気がしてくる。
その伝でいくと、レヴィ・ストロースの『悲しき熱帯』に対応するのは、みうらじゅんの『アウトドア般若心経』なのだろう。

『アウトドア般若心経』で、みうらじゅんは自分の「内部」ではなく自分の「外部」に向かって「真実=空(くう)」を求めた。氏は「自分探し」ではなく「自分失くし」をするために奮闘し、広大なるアウトドア世界に「般若心経」の一字一句を発見してゆく旅を続ける。みうらじゅんの姿は、『悲しき熱帯』で南アメリカの自然や風景にヨーロッパ世界の陰鬱な運命を読み込んでいく若き日のレヴィ・ストロースの姿に、ゆっくりと重なっていく。私の中では、重なっていくのだ。

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