ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

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ほり先生のブログへのコメント: 珊瑚と古い椅子

2009年11月14日 | 日記
メモ代わりに貼り付けしておく。

///以下、ブログ『考えるのが好きだった』に投稿したコメント///

珊瑚と古い椅子 (大阪アースダイバー)
2009-11-03 14:34:51

 以下、ブログ主よりのご返事を期待しての事ではなく、私がこのブログの過去の文章をいくつか読ませて頂いて、浮かんでくる、泡のような感想の一部です。
 新しく訪問された方に何か参考になるかもしれないです。

 私も最初ちょっと誤解しそうになったのですが、ほり先生という方は、やっぱり「高校の先生」ですからね。そこを皆様、お間違えなきように。って間違えそうになったのは俺だけか? だって、コメント欄なんか見ると凄いんだから。大学の先生や官僚に訴えるような議論がそこで延々と続いてたりする事があるんだぜ。ここは松下村塾かよ。ってなくらいで。

だからって、何から何まで知っている学者とか、多事争論できるジャーナリストみたいな役割を、ここで期待しちゃ駄目なんだよな、うん。当たり前か。

だってさ、ここだけの話だけど、ブログ読ませて頂いていると、アルキメデスとアリストレスが時々ごっちゃになってたりする…(笑)
私物理がからっきし駄目なの、と言いつつ、毎年毎月「伝家の宝刀」のように出てくるのが「ベクトルのたとえ」だったりする…(私がもし高校生だったら、この先生に「ベクトル先生!」とあだ名をつけてしまいそうです。んで、ベクトル先生後悔記だ、わーい、といったりしてからかってみたい。何じゃそりゃ。でも、勉強とはベクトルの次元を増やすことだ、というのは至言である)

でもでも、私はここでドン!と机を叩きたいのです。そんなことはどうでもいいのです。
アルキメデスとアリストテレスの区別なんて…
生徒には、菓子食うな、人間我慢が大事、と説教しつつ、自身のブログに「SWEETS」なんていうほっぺたが落ちそうな、こんな「超甘」なタイトルをつけたりすることなんて、むしろどうでもいい事なんだと思うのです。

皆様もお気づきだと思いますが、この人、すごい賢いなと思わせるような文章が、このブログの中にはいくつもあります。一介のヒラ高校教師である方が、なぜこんなことまで語れるのでしょう。ほり先生本人が知識人だから、いろいろ知っているから、そんなことが言える、というわけではないように私は思います。
このブログで、ある種、叡智に満ちた部分が露出しているところがあるとすれば、私はそれは、「人類という大きなシステム」が言わせているのだと、勝手に解釈してます。

初期の文章で、「人間サンゴ虫」説というのがありました。「言わせてる」ということです。賢いのは全体としてのサンゴであって、個々のサンゴ虫が賢いわけではない、ということだろうと思います。

だから、ほり先生が「先生」と仰ぐ内田樹氏に対してだって、鋭いツッコミが時々入るのも、やむをえないことだと思います。内田氏の言動に対しても、時々、「内田先生、お言葉ですが、この場合、それはちょっとどうかと思います」「内田先生、あまり調子に乗らないでください」「ていうか、ウッチーとか言われてていい気になってんじゃねぇ」的な修正が、容赦なく入ります。
当然です。
内田樹氏自身が、「人類学的叡智」「自分でないものが語る」といったことよく語る方ですから、仕方がありません。
人類というサンゴ・システムからの修正が、ほり先生を通して、入ります。

ほり先生はじゃあ何者なんだというと、私は、内田樹氏のいう「雪かき仕事」をずーっとしている方だと思います。
だから、たとえば天下国家を論ずるようなことをしてみたい、と心のどこかで私が思ってたりすると、こういう人を見るとなんとなく「やましさ」を感じてしまいます。

東北の村で、雪かき仕事をしているおっさんがいて、軒下に立つ俺が、「大変ですねえ。ところで、最近の政治状況についてどう思いますかー? 国が悪いと思いませんかー?」と話しかけてむこうは黙っているのに延々と演説を続けていたりしたら、しまいにはバサーッ!と頭から雪をかけられそうな気がする。そういう感じです。

私は、かなり初期の文章で描かれていた「古い机を救済する」というエピソードが好きです。学校に残る、古い椅子とかか、机を大切にしよう、という話なのですが、それは「知の系譜」や「共同体」とも関連する大切な感覚なのですが、ほり先生は周囲の無理解にさらされます。
心無い教員から、「ほらほら先生の好きな古いものが出てきましたよ」とからかわれるところなんざ、涙なくしては読めません。(いくら何でも、それは大げさだな。私は実際に涙を流したわけではなくて、この箇所を読んだとき、脳みその奥で、何かツーンとした、哀しみと怒りと諦念が入り混じったような感情が浮かんで消えていきました)

とりあえず終わりです。

///以上、ブログ『考えるのが好きだった』に投稿したコメント///