金谷武洋の『日本語に主語はいらない』

英文法の安易な移植により生まれた日本語文法の「主語」信仰を論破する

第26回 「名詞修飾節という肩凝り」

2005-10-22 01:58:34 | 日本語ものがたり
 浦島太郎の「亀が子供達にいじめられているのを助けました」という文はカナダの学生には意外に難しいが、この文をちょっと変えて「子供達にいじめられている亀を助けました」とすると納得する、と前回お話しした。今月もその話を続けてみよう。「『子供達にいじめられている亀』という名詞修飾節(せつ)が節(ふし)みたいに膨らんでいて、我々にはいささか耳障りだ」と記事の最後を結んだが、これは要するに英仏語であれば「関係代名詞」が使われる構文である。カナダ人学生は、母語でこうした構文に慣れている。それで理解しやすいのである。日本語でも「昨日食べたリンゴ」などの短い名詞修飾なら大丈夫だが、長ければ長いほど敬遠される。英語のthat/which/whoなどに当たる「関係代名詞」が日本語に発達しなかったのもその為だろう。「昨日ここで食べたリンゴは美味しくなかった」と言うよりは、「昨日ここでリンゴを食べたけど、美味しくなかった」の方が会話文では言いやすく、また聞く方も分かりやすい。「昨日ここで食べたリンゴ」という名詞修飾節の瘤(こぶ)を動詞文で言いかえて、いわば言葉の上で「凝った肩を揉みほぐして」いるからだ。こうすれば膨らんだや瘤が取れて平ら(=平易)になる。

 法律や憲法の条文などは、基本的に読む為のものであるからこうした瘤が多用される。「自然法と、自然を創った神の法が、彼らに当然の権利として認める、分離した平等の地位」はアメリカ独立宣言の冒頭の一節だが、この肩は相当凝っている。これも「自然および自然を創った神の法に従い、当然の権利として独立し、世界の国々と平等になる(こと)」などと、動詞を使っていくつかの文に分けると肩凝りが揉みほぐされ、ずっと分かりやすくなる。そう言えば、一回読んだだけでは分からない様な文を「凝った文」と言うが、まさしくぴったりの表現ではないか。

 アメリカ独立宣言の例は「英語の発想」(安西徹雄著:講談社現代新書:1983年)から引用した。この本は初版が出た直後に日本で買ったらしく、83年6月23日読了、と最後の頁に書き込んである。82年にケベック市を去って84年から2年間アルジェリアに住んだが、出発まで一年半ほどを東京で過ごした。その頃に読んだらしい。あれからもう20年か、と懐かしく手に取り、読み返してみると、果たせるかな「関係代名詞」に関する興味深い考察が展開されている。少しご紹介してみよう。なお、著者の安西徹雄は1933年愛媛県生まれ。シェークスピアが専門の英文学者で、多くの翻訳を手掛け、言わば英語と日本語の接点にいる人物である。この本の第二章は「モノと見るか、コトと取るか」と題され、その第一節が「名詞中心と動詞中心」である。あくまでも比較の上での傾向であると断りつつ、著者は日本語は動詞中心、英語は名詞中心の性格が強いと主張する。名詞中心型の好例が関係代名詞を使った構文で、これはある状況(コト)から実体(モノ)を取り出す手法だ、浦島太郎の例文の様に、日本語は状況をそのまますくい取ろうとする。

 多くの例が挙がっているが、その中から一つだけ御紹介しよう。谷崎潤一郎の「少将滋幹の母」とその英訳である。原文の「そこらに虫の音が聞こえていたので、季節が秋であったことは確かである」に対して、訳文では「Shigemoto could remember a humming of insects that suggested the automne」となっている。先ず英語ではShigemotoという主語が新たに加えられていることに注目しよう。主語を新たに加える所は、前回の「国境の長いトンネルを抜けると、雪国であった」の訳文The train came out of the long tunnel into the snow country.でも同じである。The trainは原文にはない。次に、「そこらに虫の音が聞こえていた」は状況(コト)を文のまま丸ごとすくい取る捉え方をしているが、英語では、そのコトをa humming of insectsという名詞句に集約している。つまり「そこらに虫の音が聞こえていた」という時間の推移を伴った状況(コト)が、(冠詞/a/まで付いた)「虫のすだき」という名詞に凝縮されてしまっている。文の後半も同様だ。「季節が秋であったこと」という文字通りのコトは、あっさりthe automneという名詞で言い変えられている。これら二つの文が関係代名詞thatを介して「a humming of insects」に結び付けられる訳だ。

 こうして見ると、谷崎潤一郎の文は全く別の発想と文法で英語に言語化されたと言っていいだろう。出来上がった訳文の意味は「滋幹は秋を告げる虫のすだきを思い出すことが出来た」だが、これでは原文の醸し出す臨場感はもはや感じられない。読者は少将滋幹と同じ目の高さが持てないからだ。名詞修飾節の「秋を告げる虫のすだき」は短いが、やはり多少ひっかかる。すらりと読めない「肩凝り」だ。おまけに、原文での畳みかける様な「聞こえていた/秋であった/確かである」を通じて感じられる時間の推移(無常感)も、他動詞「remember/suggested」で二重に構成された英文からは失せている。こちらはむしろ新たに主語として登場した「滋幹」の行為文だからだ。翻訳は創作である、とよく言われるが、英仏語に訳される日本文学作品が原作とこれほど雰囲気が違ってしまうのは、言葉の基本的発想の違いがもたらす限界と言わねばならない。(2003年5月)

応援のクリック、よろしくお願いいたします。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿