金谷武洋の『日本語に主語はいらない』

英文法の安易な移植により生まれた日本語文法の「主語」信仰を論破する

第58回 「恐るべき麻生読み」

2010-01-29 12:01:34 | 日本語ものがたり
 以前、この欄に「安倍首相の日本語力」(第46回)と「福田首相辞任劇」(第52回)を書き、辞任の際の記者会見で、この二人の日本国首相がどんな日本語を使ったかを紹介した。「あっだけ物議ば醸(かも)したったい。『麻生読み』のこつも書かにゃ」 とメールをくれたのは熊本の友人である。それに応えて、今回は、昨年8月末の衆議院総選挙に大敗して首相の座を降りた麻生太郎氏のことをお話しすることにしよう。ちなみに、麻生氏は1976年のモントリオール五輪にクレー射撃日本代表として参加しており、当地とはご縁のある政治家である。五輪での成績は41位だった。

麻生太郎氏ほど、マスコミに日本語力を揶揄された首相はかつてなかったろう。首相就任前は「失言問題」が心配だと言われた人物だが、蓋を開けてみると、それよりも国民が驚かされたのは「漢字誤読問題」であった。麻生氏と言えば漢字という風に、マスコミにさかんに取り上げられた。日本の漫画やアニメを文化として高く評価にする氏だけに、誤読は「漫画の読み過ぎ」であるとか、流行言葉の「K.Y.」(空気が読めない)をもじって「漢字が読めない」などと揶揄されたものである。

私などが単純に頭を傾げるのは、何故原稿に仮名を振らなかったのか、ということである。あるいは、一度読んでみて、スタッフに聞いてもらうという手もあった筈だ。とにかく、信じられない間違いが後から後から続いてマスコミで報道され、「麻生読み」という新語さえ出現した。由々しき問題は(1)他の人が書いた原稿を(2)初見で棒読みしていると、誰の目にも思われた点であろう。これでは人の心を動かすことなど到底出来るものではない。

論より証拠。何はともあれ、「麻生読み」の実例を挙げてみよう。有名になったものが多いが、これだけ多発、連打されるとやはり異様と思うほかない。
以下、(      )が正しい読み、「        」が麻生読みである。

   踏襲(とうしゅう) → 「ふしゅう」
   措置(そち) → 「しょち」
   有無(うむ) → 「ゆうむ」
   詳細(しょうさい) → 「ようさい」
   未曽有(みぞう) → 「みぞゆう」
   頻繁(ひんぱん) → 「はんざつ」
   低迷(ていめい) → 「ていまい」
   順風満帆(じゅんぷうまんぱん) → 「じゅんぷうまんぽ」
   破綻(はたん) → 「はじょう」
   怪我(けが) → 「かいが」
   三種の神器(さんしゅのじんぎ)→「さんしゅのしんぎ」

「詳細」「破綻」、ことに「怪我」などは空いた口が塞がらないミスだ。しかし、ここでは特に最後に挙げた「三種の神器」に注目したい。これは、記者クラブでの出来事だが、その模様がYouTubeという便利な文明の利器のお蔭で、いまでも見られるので、ご興味のある方はどうぞ。(http://www.youtube.com/watch?v=H7UIJOiwab4) 

この画像を見ると、流石に血の気が引く思いがする。ここで麻生氏は、原稿から目を上げて、記者たちに話しかけながら、何度も「さんしゅのしんぎ」と言い続けているのだから、相当深刻だ。さぞや記者達は凍り付いたに違いない。麻生氏は、さらにご丁寧にも「覚えています?三種の神器って。神様の器(うつわ)、と書くんです」と漢字の説明までしつつ、麻生読みは「さんしゅのしんぎ」なのである。

誤解のないようにここで付け加えておくと、「神器」だけならば確かに「しんぎ」と読めないことはない。広辞苑にもそうある。しかし、熟語で「三種の神器」となると、これは「さんしゅのじんぎ」のみである。つまり、この言葉に関しては「誤読」でさえなかった。

考えてもみよう。皇位(=天皇の地位)の象徴である「三種の神器」の正しい読み方を、中央政府の頂点にいる日本国首相が知らなかった、という衝撃の事実を。誠に恐るべき失態と言わねばならない。もっとも、この「事件」はあまりマスコミの取り上げることろとはならなかった。皇室に関することであるし、また首相がここまで漢字に無知であることは、日本人全体にとって決して名誉ではないと記者にも思われたからだろう。

大衆は、日本の顔である政府代表者、とりわけ首相には「外に出しても恥ずかしくない」教養と知性を備えた人物であることを期待している。漢字が読めない首相は、後日石原都知事がインタビューで指摘したように「リカバリーが出来ないほど軽蔑・侮蔑の対象になって」しまい、結局は一年で退陣をする遠因の一つを作ってしまった。

なお、麻生氏の名誉のために付け加えておくと、ベストセラー『バカの壁』で知られる解剖学者養老孟司は麻生氏の誤読問題を「読字(どくじ)障害ではないか」との見解を示している。麻生氏にとっては大変有難い援軍の出現と言わねばならない。

「読字障害」とは、学習障害の一つで、知的能力や会話には支障がないが、文字を読むことが難しいという症状である。その一方で、物事を視覚的にとらえたり、空間を把握する能力が高く、芸術や工学などで優れた能力を発揮するといわれている。つまり障害とはいいながら、それと同時に大きな長所でもあるわけだ。驚くなかれ、発明家エジソンや理論物理学者アインシュタイン、芸術家ではロダンやピカソ、推理作家のアガサ・クリスティや俳優のトム・クルーズなども読字障害者の例であるらしい。

しかし、そのことは、いたずらに誤りを繰り返したことの言い訳にはなるまい。日本中に報道されることが分かっているスピーチであるなら、何故前もって一度音読し、スタッフに確かめてもらわなかったのか、という疑問はやはり残る。誠に不思議でならない。

以上、失礼ながら、三回にわたって日本における宰相の日本語力を拝見することとなった。取り上げたのは、2006年9月から3年間にわたって、1年づつ矢継ぎ早に入れ替わった3名の総理大臣の忘れがたい言葉たちである。「揚げ足取り」のそしりは免れないだろうが、相手は「日本政府の顔」でもあり、公人としての「有名税」とでも鷹揚に受け取って頂けたら幸いである。

しかし、その状況の裏に、実はもう一つの重大な事実があることを忘れてはいけない。それは、首相が間違う度に眉をひそめ、何の躊躇もなく「これはひどい」と評価を下せる一般大衆の教養、とりわけ日本語力の高さなのである。『日本語が亡びるとき』(水村美苗、2008)という著作がベストセラーになったが、私は日本語は亡びないと信じている。母語に対する一般庶民の愛着と高度の知識は、日本語を亡びさせるようなことは決してしないと思うからだ。(2010年1月)

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10 コメント

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Unknown (オレンジ)
2010-01-30 09:15:29
>怪我(けが)→「かいが」
これは、ぶら下がりでのインタビューでの発言で原稿を読んでいません。
単に口が上手く動かなかっただけです。
wikipediaなどでは漢字が読めなかった一例になっています。
他にも単に口が上手く動かなかったのではと思うのもあります。

>何度も「しんぎ」と言い続けているのだから、相当深刻だ。
「しんぎ」→「しんき」

>麻生読みは「しんぎ」なのである。
ここの「しんぎ」は正しい。

>「神器」だけならば確かに「しんぎ」
「しんぎ」→「しんき」

間違いは誰にでもありますが、それを侮辱のために使う人達は絶対に許せません。
まるで、誰かのいじめの参加するような人間性です。
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Unknown (オレンジ)
2010-01-30 09:28:10
>首相が間違う度に眉をひそめ、何の躊躇もなく「これはひどい」と評価を下せる一般大衆の教養、とりわけ日本語力の高さなのである。

辞書で調べればわかるような知識を日本語力の高さと言って良いのでしょうか?
その一般大衆は読み間違いをしていないのでしょうか?
総理大臣にアナウンサーにするのが良いと言っている様なものです。
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Unknown (オレンジ)
2010-01-30 11:28:35
「しんぎ」→「しんき」
この間違いの指摘は、間違っていました。
じんぎ、しんぎ、しんき で混乱してしまいました。
返信する
言い間違いと読み間違い (たき)
2010-01-31 04:07:26
オレンジさん、

書き込み、有難うございます。
「怪我」を「かいが」と言ったのは、ぶらさがり質問の際のことであるとは知りませんでした。どこかにその記事や映像があったらご教示下さい。書き直すことも出来ますので。

ここに挙げた「麻生読み」の殆どが間違いであることは、辞書で調べなくともすぐ気付くレベルのものです。

それから、私がこうした間違いを侮辱のために使っている、とおっしゃいますが、それは全く私の意図ではありません。むしろ日本人、庶民の日本語力を讃えたものです。そのために、一番最後にこう書きました。

「揚げ足取り」のそしりは免れないだろうが、相手は「日本政府の顔」でもあり、公人としての「有名税」とでも鷹揚に受け取って頂けたら幸いである。
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Unknown (ソロ之)
2010-02-09 15:09:40
こんにちは、たきさん。まだ若輩者ですが、同じ日本語教師として尊敬している者です。

言葉を大切にしているたきさんなので、麻生さんの誤読に対してあきれ返っているのも当然だと思います。また、日本国首相として醜態をさらしたという批判も妥当だとも思われました。

ただ僕としては、天下国家を語るのに、マスコミが取り上げるのが漢字の誤読かよというのが本音で、むしろマスコミのお粗末さにあきれ返っています。またそれに乗っかる一般大衆にも…。(読み方の間違い一つで国がひっくり返ったことなんてあるのかな?)

その文脈で、たきさんの言う一般的日本人の「教養、とりわけ日本語力の高さ」に疑問です。特に、日本語力はともかく、教養の方になると、大衆が騒ぎ立てたのはマスコミに扇動されたからだと見るので、本当にそれほど高いのかなと思ってしまいます。

今回は大変失礼しました。ある事象のみでたきさんへに対する信頼は揺らがないので、これからも精力的に「主語廃止論」頑張ってください!
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庶民の教養度 (たき)
2010-02-10 04:42:20
ソロ之さま

書き込みとご声援、ありがとうございます。

日本の庶民の教養の高さは外国にいると痛感出来ます。
私も色んな国に住みましたが、先進国の中では特にアメリカがひどいです。国際人、などと言える米国人は1割もいないんじゃないか、という印象ですね。大体、外国に関心がないのが大半で、日本と中国の違いも分かってもらえません。
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Unknown (ソロ之)
2010-02-10 06:27:59
実は僕も北米(アメリカですが)にいるんです。たしかに、アメリカ人はひどいですね 笑 こんなことを言うのもなんですが、自分の生徒が将来選挙権を持って国政に参加するのだと思ったとき、ぞっとしたことがあります。
勉強のために、たきさんの思う教養の度合いの基準をご教授いただけたらうれしいです。
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教養の度合い (たき)
2010-02-13 00:36:56
教養の目安は普遍的なものはないと思いますけど、
私の場合は、品格ということを考えます。

「惻隠の情」という言葉がありますが、相手の気持ちを思いやる優しさ、気遣い、こういうものを日本人、特に女性に感じますね。強いばかりでは駄目ですよ、と朝青龍を結局角界を追い出したのも、結局は世論でしょう。

アメリカと日本の違いは、端的にはプロレスと相撲の違いと言えなくもありません。自己抑制が出来る庶民には品格があり、芭蕉の「言いおおせて何かある」という美意識があると思います。
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日本人の日本語について (Unknown)
2010-02-15 10:15:35
今回のお話について、金谷先生のご意見をサポートしたいです。この間、日本の電車で、「すごい 降りましたね」という20代の女性がお友達と話していました。特に電車などのところでは、いろいろな不適切な日本語をよく耳にします。日本人でも 日本語能力はさまざまだと思います。
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すごい可愛い (たき)
2010-02-19 10:32:20
Unknownさん、

サポート、ありがとうございます。

「すごく」の代わりに「すごい」というのを確かに聞きますね。まぁ口語としては笑って許せる範囲ではないでしょうか。
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