つい先日、インターネットで、NHKの人気番組「その時歴史が動いた」(NHK大阪放送局制作)の特集「ひらがな革命」を見て感動しました。この番組が放映されたのは2006年ですが、ほぼ十年後の今年(2015)、地球の裏側のカナダに住む私がそれをネットで見ることが出来たのですから、何ともいい時代になったものです。毎回よく調査された「歴史の決定的な瞬間」が、谷川賢作作の印象的なテーマ曲をバックに展開、解説されるので、楽しみながら勉強出来るいい番組です。今回私が見て殊の外感動したのは『ひらがな革命:国風文化を生んだ古今和歌集』というタイトルでした。ざっと内容を紹介することにしましょう。
時は今からおよそ1100年前の10世紀初頭。宇多天皇に仕える二人の有力な人物がいました。互いに好敵手の、右大臣の菅原道真(845-903)と左大臣の藤原時平(871-909)です。よく知られているように、道真は時平らの讒言によって後年九州太宰府に流され、その地で没します。すると間もなく天変地異が多発し、また時平を始めとして次々と藤原家の大物政治家が変死を遂げたのです。当時は誰もが、これは全て道真の祟りであると信じました。右大臣が流され、左大臣が死んだことを、当時の民衆は「右流左死(うるさし)」と、駄洒落で「うるさく」噂したのだとか。晩年は不遇だった菅原道真ですが、死後は太宰府天満宮に祭神として祀られ、現在でも「学問の神様」として崇められています。下級貴族出身ながら、他に並ぶ者がないほど秀才だったことから朝廷で注目され、右大臣まで出世した道真ですが、彼がもっぱら学んだのは当時圧倒的な権威を誇った唐の学問でした。漢文で読んで熟知した唐の律令制度を、政策として日本へ持ち込もうとしたのです。道真は歌を詠むにも和歌よりも漢詩を得意としました。実際に和歌を漢詩に「翻訳」して色紙に書き連ねたものが残っているそうです。
一方、ライバルの時平が得意としたのは漢字ではなく、当時「女手(をんなで)」と呼ばれ、恋愛の道具の和歌に使われた平仮名でした。筆頭貴族である藤原家の御曹司で、関白藤原基経の長男であった時平には、道真のように寝食を忘れて学問に打ち込む必要はなく、平仮名を使って優雅に恋の歌を詠み、若い官女たちと戯れる方に熱心だったのです。そしてそれでも順調に出世できたのは、何よりも藤原北家という恵まれた血統のお陰でした。
さて、道真は894年に遣唐使の廃止を宇多天皇に奏上します。その背景には、三世紀も栄華を極めた唐王朝にこの頃から「黄巣の乱」(875-884)など農民の反乱が起きて影が差し、遣唐使を送ることの危険が道真に伝えられたことがあります。道真の予想は見事に的中し、唐はその後間もなく907年に滅亡してしまいます。
道真を讒訴して朝廷から追放した時平は、唐という国家経営のモデルを失った今、日本のゆくべき道を模索しました。そして一世一代の名案を思い付きます。それまでは文字と言えば何よりも漢字でした。万葉仮名などを経て漢字を元に作られたものである仮名は、副次的なものだとする「中華思想」は、何よりも「真名vs.仮名」という命名に明らかに現れています。そうした中で、時平がたどり着いたのは、日本の心を表すには中国の漢字よりも日本で生まれた平仮名こそがふさわしいという逆転の発想でした。それが宇多天皇の後を継いだ嵯峨天皇に提案した「平仮名を使った勅撰和歌集」の編纂へと結実します。紀貫之が中心となって数年をかけて作られ、この歌集が醍醐天皇に献上されたのが延喜5年(905年)。天皇の名前で編纂する勅撰和歌集として古今和歌集が、そしてかけがえのない日本独特の文字として、平仮名に初めて正当性が与えられました。まさに「ひらがな革命」であり、「その時、歴史が動いた」のです。古今和歌集からさらに時代が下って13世紀初期の方丈記(1212)となると、完全に漢字と平仮名が平和共存した「和漢混交文」で書かれています。現在、我々が何ら疑問を持たずに書いている『漢字仮名交じり文』はこうして次第に定着したのでした。つまり、『漢字仮名交じり文』の定着は、誠に皮肉なことながら、政治的好敵手だった、道長と時平がそれぞれ代弁した漢字と平仮名の思想が手を結んだ事件だったと言えるでしょう。その最大のきっかけは、藤原時平の「逆転の発想」でした。こうして、時平の発案した「古今集」から始まり、書院造りの建築、十二単衣の衣装、源氏物語や枕草子に代表される平安文学といった実に様々な分野での日本独自の文化が花開いたのでした。これがいわゆる「国風文化」です。
最後にどうしてもお付き合い頂きたいのが「ひらがな革命」をめぐる言葉遊びです。先ず、道真と時平の名前が傑作です。上にも書きましたが、漢字は「真の(正当性を持った)文字」という意味で「真名」と呼ばれていました。平仮名、片仮名は「仮りの文字」と見なされてランクが下でしたから「仮名」だったわけです。真名を重んじた道真は、その名前に真名の「真」が入っています。これに対してライバルの時平には「平がな」の「平」が使われていることが、偶然とは言え、面白い一致です。これに続いて、これは日本の友人が「大発見!」と興奮してもう一件面白い言葉遊びを知らせてきました。それは、「平」仮名に正当性を与えた男の名前が藤原時「平」だったのみか、それは「平」安時代の出来事だったということです。「平」が三回も並ぶと、上に書いた「うるさし(右流左死)」にも匹敵する出来栄えだと言って、仲間内で盛り上がりました。
私を含め、日本語教師(現職+退職)の有志が数人集まって作っている会があるのですが、ここ数年、英文法から脱却した新しい日本語文法を世界に広めて、それを「第二の日本語革命」にしようという企画が持ち上がっています。そこで、私たちが頭を絞ったのは、こちらの企画にも「平」は見つけられないか、ということでした。せっかく、時代が「平」成なのですから、これに続いて何か「平ら」なものを…と考えた挙句、仲間の一人がようやく見つけてくれました。それも四つです。最後にそれをご紹介してこの稿を終わることにしましょう。
一人の友人が注目したのは古今集が出来た905という数字でした。そして、行動開始予定の来年、2016年は905年から数えて何年後になるかを考えたのです。2016から905を引き算をして、出て来る答えは「1111」。それを漢字で書くと…?「一、一、一、一」です。めでたく四回、見事に「平」らな文字が並んで、拍手喝采を浴びました。では、お後がよろしいようで…
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時は今からおよそ1100年前の10世紀初頭。宇多天皇に仕える二人の有力な人物がいました。互いに好敵手の、右大臣の菅原道真(845-903)と左大臣の藤原時平(871-909)です。よく知られているように、道真は時平らの讒言によって後年九州太宰府に流され、その地で没します。すると間もなく天変地異が多発し、また時平を始めとして次々と藤原家の大物政治家が変死を遂げたのです。当時は誰もが、これは全て道真の祟りであると信じました。右大臣が流され、左大臣が死んだことを、当時の民衆は「右流左死(うるさし)」と、駄洒落で「うるさく」噂したのだとか。晩年は不遇だった菅原道真ですが、死後は太宰府天満宮に祭神として祀られ、現在でも「学問の神様」として崇められています。下級貴族出身ながら、他に並ぶ者がないほど秀才だったことから朝廷で注目され、右大臣まで出世した道真ですが、彼がもっぱら学んだのは当時圧倒的な権威を誇った唐の学問でした。漢文で読んで熟知した唐の律令制度を、政策として日本へ持ち込もうとしたのです。道真は歌を詠むにも和歌よりも漢詩を得意としました。実際に和歌を漢詩に「翻訳」して色紙に書き連ねたものが残っているそうです。
一方、ライバルの時平が得意としたのは漢字ではなく、当時「女手(をんなで)」と呼ばれ、恋愛の道具の和歌に使われた平仮名でした。筆頭貴族である藤原家の御曹司で、関白藤原基経の長男であった時平には、道真のように寝食を忘れて学問に打ち込む必要はなく、平仮名を使って優雅に恋の歌を詠み、若い官女たちと戯れる方に熱心だったのです。そしてそれでも順調に出世できたのは、何よりも藤原北家という恵まれた血統のお陰でした。
さて、道真は894年に遣唐使の廃止を宇多天皇に奏上します。その背景には、三世紀も栄華を極めた唐王朝にこの頃から「黄巣の乱」(875-884)など農民の反乱が起きて影が差し、遣唐使を送ることの危険が道真に伝えられたことがあります。道真の予想は見事に的中し、唐はその後間もなく907年に滅亡してしまいます。
道真を讒訴して朝廷から追放した時平は、唐という国家経営のモデルを失った今、日本のゆくべき道を模索しました。そして一世一代の名案を思い付きます。それまでは文字と言えば何よりも漢字でした。万葉仮名などを経て漢字を元に作られたものである仮名は、副次的なものだとする「中華思想」は、何よりも「真名vs.仮名」という命名に明らかに現れています。そうした中で、時平がたどり着いたのは、日本の心を表すには中国の漢字よりも日本で生まれた平仮名こそがふさわしいという逆転の発想でした。それが宇多天皇の後を継いだ嵯峨天皇に提案した「平仮名を使った勅撰和歌集」の編纂へと結実します。紀貫之が中心となって数年をかけて作られ、この歌集が醍醐天皇に献上されたのが延喜5年(905年)。天皇の名前で編纂する勅撰和歌集として古今和歌集が、そしてかけがえのない日本独特の文字として、平仮名に初めて正当性が与えられました。まさに「ひらがな革命」であり、「その時、歴史が動いた」のです。古今和歌集からさらに時代が下って13世紀初期の方丈記(1212)となると、完全に漢字と平仮名が平和共存した「和漢混交文」で書かれています。現在、我々が何ら疑問を持たずに書いている『漢字仮名交じり文』はこうして次第に定着したのでした。つまり、『漢字仮名交じり文』の定着は、誠に皮肉なことながら、政治的好敵手だった、道長と時平がそれぞれ代弁した漢字と平仮名の思想が手を結んだ事件だったと言えるでしょう。その最大のきっかけは、藤原時平の「逆転の発想」でした。こうして、時平の発案した「古今集」から始まり、書院造りの建築、十二単衣の衣装、源氏物語や枕草子に代表される平安文学といった実に様々な分野での日本独自の文化が花開いたのでした。これがいわゆる「国風文化」です。
最後にどうしてもお付き合い頂きたいのが「ひらがな革命」をめぐる言葉遊びです。先ず、道真と時平の名前が傑作です。上にも書きましたが、漢字は「真の(正当性を持った)文字」という意味で「真名」と呼ばれていました。平仮名、片仮名は「仮りの文字」と見なされてランクが下でしたから「仮名」だったわけです。真名を重んじた道真は、その名前に真名の「真」が入っています。これに対してライバルの時平には「平がな」の「平」が使われていることが、偶然とは言え、面白い一致です。これに続いて、これは日本の友人が「大発見!」と興奮してもう一件面白い言葉遊びを知らせてきました。それは、「平」仮名に正当性を与えた男の名前が藤原時「平」だったのみか、それは「平」安時代の出来事だったということです。「平」が三回も並ぶと、上に書いた「うるさし(右流左死)」にも匹敵する出来栄えだと言って、仲間内で盛り上がりました。
私を含め、日本語教師(現職+退職)の有志が数人集まって作っている会があるのですが、ここ数年、英文法から脱却した新しい日本語文法を世界に広めて、それを「第二の日本語革命」にしようという企画が持ち上がっています。そこで、私たちが頭を絞ったのは、こちらの企画にも「平」は見つけられないか、ということでした。せっかく、時代が「平」成なのですから、これに続いて何か「平ら」なものを…と考えた挙句、仲間の一人がようやく見つけてくれました。それも四つです。最後にそれをご紹介してこの稿を終わることにしましょう。
一人の友人が注目したのは古今集が出来た905という数字でした。そして、行動開始予定の来年、2016年は905年から数えて何年後になるかを考えたのです。2016から905を引き算をして、出て来る答えは「1111」。それを漢字で書くと…?「一、一、一、一」です。めでたく四回、見事に「平」らな文字が並んで、拍手喝采を浴びました。では、お後がよろしいようで…
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