金谷武洋の『日本語に主語はいらない』

英文法の安易な移植により生まれた日本語文法の「主語」信仰を論破する

第47回 「沖縄のことば」

2007-12-04 22:27:36 | 日本語ものがたり
 日本語の母音は「ア・イ・ウ・エ・オ」の5つということになっている。でも果たして大昔からそうだったのだろうか。いや、そうではなくて、奈良時代には「イ・エ・オ」がそれぞれ2種類(甲類と乙類)に分かれており、母音は合計8つあったのだ、というのが国語学界の定説である。その8母音の甲乙の差がなくなって5つになり、そのまま現在に至るとされる。

 その端緒となったのは江戸時代の国学者、本居宣長とその門弟石塚龍麿の研究。二人は単語によって万葉仮名が書き分けられる事実に注目したのである。万葉集は、まだ平仮名の発明されていなかった奈良時代に編集されたから、平仮名の代わりに漢字が(表音文字としても)使われているのは当然だ。ところが、単語によって使われる漢字が決まっている。例えば、同じ「き」でも、「きみ(君)」の「き」と「つき(月)」の「き」では、漢字が常に異なる。それから遥かに時代が下った大正時代、国語学者橋本進吉が彼らの研究を「再発見」し、前者を甲類、後者を乙類として、甲乙の違いは母音の違いだと主張したのである。これが「上代特殊仮名遣い」と呼ばれるものだ。(「国語仮名遣研究史の一発見:石塚龍麿の仮名遣奥山路について」1917)

 さて話は飛ぶが、私はこの夏、生まれて初めて沖縄に行った。せっかく行くのだからと、その前から少し沖縄の言葉を調べておいた。特に興味があったのは母音である。比較的よく知られているように、沖縄の言葉で短母音・長母音の両方が現れるのは「ア・イ・ウ」の3つしかなく、「エ・オ」は長母音だけである。明治時代の言語学者チェンバレンはこの状況を、沖縄語の母音は本来「ア・イ・ウ」の3つのみで、(a-iやa-uなどの)二重母音から「エ・オ」が二次的に派生された、だから長母音だけなのだ、と上手く説明した。(「日琉語比較文典」1895 )

 短母音に限れば、東京方言の「エ」が沖縄では「イ」、「オ」は「ウ」になる。これに加えて、「キ」が「チ」に変わることも知っていたので、「おきなわ」が「うちなー」に、「ごめんください」の意味の「きはべら」が「ちゃーびら」になることもよく納得出来た。また「こころ(心)」は「くくる」、「ことば(言葉)」は「くとぅば」とたちどころに「翻訳」出来るのに大いに気をよくしたりした。

 そうこうしている内に、ある思いがふと胸をよぎった。日本語の母音の原始の姿が沖縄にあるのではないか。つまり、大昔の日本語の母音は、定説である8つどころか5つですらなく、さらに少ない3つだったのでは。沖縄に古い日本語が生き残っていることは、語彙の面で明らかである。上に挙げた(「ごめんください」の意味の)「ちゃーびら」の元の姿「きはべら」は、実は漢字で書けば「来侍ら」なのである。そのまま日本の古語なのだ。

 他にも、いかにも昔の大和言葉だと思う語彙が沖縄にはたくさん残っている。「こども」のことは「わらび」で、古語の「わらべ(童)」だし、「とんぼ」のことは「あきじゅー」で、これは「あきづ(秋津・蜻蛉)」。「あきづ」などは、日本国の別名を「あきづしま(秋津島)」といい、その秋津島は「大和」にかかる枕詞なのだから代表的かつ重要な和語だが、沖縄ではこの言葉がまだ日常生活で使われているとは、感動的ではないか。

 興味深いのは、沖縄から遠く離れた東北地方でも、「イ」と「エ」がうまく区別出来ないとよく言われることだ。例えば「まえ(前)」が「まい」と発音される。前後ろ逆にパジャマズボンをはかないように、お婆さんに「まい」とマジックで黒々と書かれた、と子供時代の想い出を語ってくれたのはヨーク大学で日本語を教える矢吹典子さん。山形のご出身である。

 それやこれやを考えるうちに、日本列島に古くから住みついた縄文人の言葉の母音は3つだけだったのでは、と俄然思えてきた。大陸から朝鮮半島を経て、母音を数多く持った弥生人が日本列島に大量に渡来して来た。そうして母音が3つから5つに増えたが、以前から住んでいた人々は南と北に押しやられて3母音の母音構造を残したと考えたらどうだろう。そんなことを想像しながらカナダに戻り、ちょっと調べてみたのである。

 すると何のことはない、言語学者松本克己がとっくに「原初日本語3母音説」の解答を出していた。(「古代日本語母音組織考 -内的再建の試み-」『金沢大学法文学部論集文学編』22(1975年3月)。松本は、ギリシャ語での同様の例を参考に、甲乙2種の使い分けがあるように見える母音は単に相補的な分布を示すもので、母音が使い分けられていたわけではないと主張。つまり橋本の言う「甲乙2種」は結局音韻的には同一、上代の母音は8つでなく5つであったこと、そしてさらに時代を遡ると「ア・イ・ウ」の3つであったろうと結論づけている。これでチェンバレンと松本の主張が一つに結びついた。

 因みに、世界中に3母音の言語はかなり多いのである。有名な所ではサンスクリット語、それからアラビア語も、その姉妹語であるヘブライ語も同様だ。それら全ての言語で3母音とは「a-i-u」で一致している。ちょうどおにぎりの形をしていて、この3母音は大変安定しているのだ。

 思い起こせば、漢字が初めて日本にもたらされた時、言うまでもなく日本人は文盲であった。万葉集の歌を詠んだのは日本人でも、それを筆記したのは渡来人である。その渡来人の母音体系が、日本語の筆記に影響した可能性は高い。こうした「誤記」の顕著な例がある、それはベボン式ローマ字だ。日本人にとって例えば「た・ち・つ・て・と」は、1子音と5母音の組み合わせだが、英語話者ヘボン氏(本当はヘップバーン(Hepburn)氏で、女優のキャサリーヌ・ヘップバーンはその一族)の耳には、子音は1つではなく3つもあるように聞こえた。日本語本来の音韻体系を無視して「ta-chi-tsu-te-to」と書かれる、誠に不幸な「た行」が生まれたのはその結果である。橋本進吉が「再発見」し、いまだに定説のままの「上代8母音説」とは実は誤りで、奈良時代のヘボン式だったと言えそうだ。  

(2007年10月) 

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9 コメント

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Unknown (佐藤正彦)
2008-01-28 12:39:23
上代特殊仮名遣いに関しては、音声的には確かに母音が8つあったのだろうが、音韻的には必ずしも8つではなかったという説が若手の間では根強いですね。ただ、音韻的に区別できない音を音声的に区別するのは、どうしても異言語話者の存在が必要で、国語学的にはややこしい問題なので、出世を考える人は触れたくないみたいです。
それと、母音というと日本人は単母音の「アイウエオ」を思い浮かべますが、二重母音も含まれるので、8母音といっても、拗音(二重母音の一種)を整理したら、結局は単母音は5つだったのだろうと、うすうす思っている人は多いです。
また、沖縄の3母音ですが、固有語で/e/→/i/、/o/→/u/ の変化が起きた一方で、/ai/→/e:/、/au/→/o:/の変化が起きたし、外来語では上記の変化を受けずに /e/,/o/をそのまま使う場合もあります。だから、5母音体系は一応保存されていたようです。(でなければ、あんなに短期間で共通語化は起きなかった。)この辺りは The Great Vowel Shift に似ていますね。個々の単語は大きく変化したが、言語の音韻体系はそれほど変化しなかった。
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Unknown (たき)
2008-01-28 19:41:32
佐藤さん、ご無沙汰しています。

勿論、沖縄の3母音は大和の5母音から変わったというのが学界の定説なんですが、私はそれは逆じゃないかと思ったわけです。チェンバレンなども言っているらしいですが。

金田一京助、大野晋、松本克己なども、日本語の5母音説に疑問を投げかけています。特に「エ」音は母音(iとa)融合の結果とされ、5つ以下だっただろうという点で共通していますね。
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Unknown (佐藤正彦)
2008-01-30 10:51:37
なるほど、面白そうですね。琉球語は、さかのぼれる文献が限られているので、何とも言えませんが、上代特殊仮名遣いなら、以下のページに甲乙付きのコーパスが公開されています。

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/manyo/man.htm
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ヘボン式琉球語 (たき)
2008-01-31 10:51:15
上代特殊仮名遣いの8母音は、母音だけの「あ行」が何故か5母音ということも説明されていません。また金田一京助、大野晋、松本克己などの言うように日本語古語において母音が5つより少ないのであれば、その数が(例えば)4から一度は8に増えて、現在の5になるというのは如何にも不自然と思います。

学界の定説である「上代8母音説」の実態は奈良時代のヘボン式であり、これまた学界の定説である琉球語の「5母音起源説」も大和口の視点による沖縄口のヘボン式歪曲ではないか、と疑っています。
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Unknown (大森 義範)
2008-03-20 02:29:43
弥生人が縄文人の言葉と融合したというのも
ロマンを感じます。

ちなみにアイヌ語はどうなのでしょう?

次からは3母音説を意識しながら
沖縄旅行に行きたいと思います。

素人が失礼致しました。
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アイヌ語 (たき)
2008-03-21 03:17:47
アイヌ語は、日本語・朝鮮語、それからエスキモー語(蔑称なのでイヌイット語と言うようになりました)と基礎語彙や文構造で共通点が指摘されますが、系統的な繋がりは証明されていません。

それに対して、日本語(=大和語)と沖縄語は明らかに一つの祖語から分かれたものです。
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Unknown (ナナ)
2009-03-21 01:21:16
はじめまして

沖縄方言が3母音とのことですが
奄美、宮古、八重山は3母音ではないです。
これらの方言ではイ列音とエ列音は区別します。

あと東北方言のイ列音とエ列音は音価が近くて
混同しやすいですが、あくまでも混同しやすい
レベルで3母音体系とは程遠いです。
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Unknown (ナナ)
2009-03-21 01:45:39
いちおう参考までに

本土 a i u e o
奄美 a i u ï u
沖縄本a i u i u
宮古 a ɿ u i u
八重山a ɿ u i u
与那国a i u i u

この他長母音では与那国以外はエ列音やオ列音があります。
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母音の数 (たき)
2009-03-29 12:55:42
書き込みありがとうございます。

「いちおう参考までに」の方に書かれた「奄美、宮古、八重山」を見ますと、3母音に見えますけど?

それから、ソシュールの共時的な一般言語学で捨てられてしまった格好の通時的変化を復権すべきと私は思います。ある時点で横切りして母音を数えるばかりでなく、どう変わってきたのかという点の考察です。

いわゆる「本土」の5母音は、本来3つ(ア・イ・ウ)だったのが2つ(エ・オ)増えた結果であるというのが私のエッセーの主旨です。

もし「奄美、宮古、八重山」で母音が3つ以上あるのなら、そこでもまた3つから増えたものと考えればいいわけです。エやオが長母音で現れるのなら、恐らくはア・イ・ウの内、2つの母音の融合で二次的に発生したものでしょうね。
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